第十話 行く末
朝の空気は、雨の気配を含んだ金属の匂いがした。緋真はそれを肺の底まで流し込みながら、祖母の家へ走った。信号待ちのあいだも足踏みをやめられない。横断歩道の白い帯が、水で薄く濡れて、滑り台の表面みたいに鈍く光っている。通学の子どもらが手をつないで歩く列に混ざりそうになって、緋真は肩をすべらせる。息は上がっているのに、胸の中心には別種の重さが沈んでいて、走るほどそこが動かない。
商店街のアーケードを抜け、瓦屋根の連なる一角に入る。見慣れた玄関の曇りガラスの向こうに、祖母の影が揺れる。チャイムを押すと、鍵が開く音が小さく鳴り、戸が内側へ引かれた。
「どうしたんだい、朝から」
祖母の声はいつもと同じ温度で、緋真の焦りはそれだけで少しズレたように感じられた。靴を脱いで上がり込み、居間へ通される。ちゃぶ台の上には湯呑が二つ。湯気はまだ立っていない。これから沸かすつもりだったのだろう。
畳に膝をつき、緋真は言葉の順番を作る余裕もなく口を開いた。
「沖田……静さんは、どうなったのか教えてください」
言った瞬間、目の奥が熱くなった。声に震えが混ざったのは泣き出す前触れだと分かっているのに、止められない。祖母は、ほんの少しだけ目を伏せた。手を合わせる。指と指が触れるあいだにできた小さな洞に、祈りの影が落ちる。
「……」
沈黙は、何よりも雄弁だった。言わないことによって置かれる言葉の重さを、緋真は初めてちゃんと感じた。祖母は湯を沸かしに立ち、台所のほうでやかんの底が金属に触れる硬い音が鳴った。やがてコトコトと微かに水が動き始める音。緋真は自分の膝の上で手を握る。爪が皮膚に食い込む感覚だけが現実だった。
「祖母ちゃん」
「緋真」
祖母は湯を注ぎ、湯呑を滑らせるように彼の前へ置いた。湯気が鼻にあたって、涙の匂いが立ち上がる。
「知りたいんだね」
「知りたいです。でも、知ったら、もう……」
「会えなくなる気がするかい」
緋真は頷いた。喉が細くすぼまっている。声が紙みたいに薄くなっている。
祖母は湯呑に視線を落とした。「うちはね、“わからないままにする”っていう線引きをしてきたんだよ。名前を呼ぶと確定が来る。確定は、ときどき人を殺す。だから、名前を呼ばない。結末は、置かない。そういうふうにして、風の吹く場所を残してきた」
緋真は唇を噛んだ。祖母の言葉は、夢の中で見た石碑の文と同じ場所を叩く。「でも、俺は……俺はずるい。夢の中で“彼”のそばにいるくせに、現実では何も責任を負っていない。わからないままの、便利さに寄りかかってる」
祖母は首を振った。「寄りかかればいいんだよ。寄りかからないと、人は倒れる。倒れた人は、祈れない。祈れないと、何も受け渡せない」
祈り、受け渡し。緋真の耳の奥で、単語がゆっくり形を変える。受け渡すものは、結末ではなく、息。祖母の手が、湯呑の周りの輪染みを布で拭う。輪はすぐに消えた。
「静さんは、祖母ちゃんの叔父さんだったんだよね」
「そうだよ」
「帰って、きたの?」
祖母は答えない。黙ったまま、手を合わせた。合わせた指の節に刻まれた皺は、時間の方程式が解けないことの証のように見えた。
緋真は額を畳につけた。守られている静けさの中で泣くのは、夜の塹壕で泣くのとは別の形だった。泣くという形式に、いくつか種類がある。祖母の前で泣く緋真は、子どもの時の呼吸の仕方を思い出す。肩が上下する。鼻が詰まり、口から空気を吸う。そのたびに、祖母がそっと背中を撫でた。
「知ることは人を救う。でも、確定させる言葉は、ときに別の誰かを殺す。あの時代の人たちは、それを知っていたんだろうね」
「俺は……俺はそれでも、知りたい」
「知りたい気持ちを持つのは、悪くない。悪いのは、その気持ちで誰かを急かすことだよ」
急かす。祖母の言う誰かには、もうこの世にいない人も、今ここにいる人も含まれている。緋真は何度も頷いた。頷きが責任の最小単位なら、それだけでも持ち運べる。
祖母は箪笥の引き出しから古い布を取り出した。紺色で、端が少しほつれている。
「これ、机の上に敷いてごらん。紙の下にあてると、墨が暴れない。インクも、ね」
墨が暴れない――言い回しのやわらかさに、緋真は笑ってしまった。笑いは、祖母の家ではいつも祈りの近くにある。
家を出ると、雲は厚みを増していて、空の端が重く垂れ下がっていた。商店街のシャッターの前に置かれた鉢植えの朝顔が、花を一輪だけ開いている。色は、静の鉢巻の白さとは違う青だった。
※
学校へ戻る電車の中で、緋真はスマホの電源を落とした。通知の震えは、現実の呼び声に似ている。現実に行きたくないからではない。現実に基準を合わせないと、夢ばかりが正しくなる。どちらかが正しくなりすぎると、世界の水平が歪む。
定期テストの返却は続いていた。現代文は何とか平均を保ったが、数学と化学は見事に沈んだ。点数の赤い記しが、彼の内部の赤い縁取りと呼応する。呼応は、強すぎると嗅覚にくる。放課後、担任がまた進路指導室へ呼ぶ。
「神田」
「はい」
「なにか急ぐことがあるのか」
緋真は笑いそうになった。急ぐ、という言葉は、彼にとっては睡眠のことを意味している。眠りへ急ぐ。人に言える種類の急ぎではない。「ちょっと、家の用事が」とぼかした。
担任は「そうか」と言い、ペンを置いた。「君の文章は、いい。だが、文章は生活に足場を置く。足場が崩れると、文章も滑る。滑ると、怪我をする。怪我をしたら、また来なさい」
怪我、という言葉は、夢の中で見た包帯と別の意味を持って緋真に届いた。彼は会釈して部屋を出る。廊下の窓からは午後の光が鈍く差し、体育館の屋根に淡く反射していた。ケンタが廊下の端から手を振る。「帰り、カラオケ行く?」緋真は首を振る。「今日はいい」。ケンタは両手を広げて、「おまえ最近、オフライン過ぎる」と笑った。オフライン、という言葉が、祖母の沈黙と奇妙に並んで浮かぶ。
※
帰宅してドアを閉めると、世界が一段落ち着いた。机に祖母の布を敷く。紺色は落ち着いて、“暴れない”という言葉どおり、息が整う。ノートを開く。インク壺のふたを外す。ペン先にインクを含ませ、息を吐いた。そのだいじな一息の直後、緋真は自分の指が少し震えているのに気づいた。震えは最初こそ愛おしいが、すぐに暴力になる。暴れないように、指の骨の並びを確かめる。
「行く末」
一行目にその言葉を書いた。字が硬い。硬さのあとに小さく線を足して、柔らげる。行く末。ゆくすえ。行くという現在進行と、末という静止の間に、姿勢を決められない空白がある。その空白が、緋真の胸の真ん中と同じ形をしている。
紙の上でペンを持ち直した瞬間、指が滑った。インク壺の縁に手首が当たる。倒れる。黒が紙にこぼれ、祖母の布に広がる。動きは水より早く、塩より遅い。黒は、紙の繊維の間にすばやく染み込み、ふちの部分で濃淡の曲線を作った。緋真は目を凝らす。黒が広がる形は、風が持っていった地図のようだった。彼の手は、反射的にティッシュに伸びる。拭う。拭っても、黒は残る。残った黒は、言葉の上に重なる。
まるで「結末を求める自分の欲望」が現実を汚染するかのように見えた。インクの動きに、彼は自分の目の欲を見た。欲はよく動く。動きを、布が吸う。祖母がくれた紺の布が、黒を受け止める。暴れない、という言葉は、こういう時のためにもあるのだと知る。緋真は「ごめん」と小さく声を出した。誰に対しての謝罪でもなく、ただ、行為そのものに向けて。軽く息を吐いて、布の端を持ち上げる。黒は布に移り、紙の上には、曲がった半月みたいな黒の跡が残った。残った形は、言葉の居場所を少しだけ削る。削られた空白に、彼は短い文を置いた。
《知りたい。けれど、知らないまま守れるものがあると、祖母は言った》
机を片づけ、濡れた布を洗面所で水に浸す。黒い水が白い陶器の中でゆっくり薄くなっていく。薄くなっていくことが、受け渡しの一種に見えた。彼はタオルで布を押さえ、ベランダに干す。風が来て、布の端がわずかに揺れる。揺れによって、黒い部分が陽の光をちょっとだけ返す。黒は光を返すことができる。そう思うと、胸の中の黒も連動して少しだけ軽くなった。
※
夜になる。眠りの儀式を一つひとつこなす。カーテンはいつもよりほんの少し多く開けた。祖母の「灯りを落として、静かにする」を思い出し、部屋の照明を最低限にして、机の角に置いた小さなスタンドだけをつける。竹の守りを枕元に。スマホは機内モード。アラームは三つ。ノートとペン。水。ティッシュ。空の瓶には新しいラベル。《行く末(空)》と書いた。空っぽの瓶に名を与える行為に、彼はまだ救いを見ている。
布団に潜り、うつぶせになる。目を閉じる前に、祖母の沈黙を胸の裏に貼り付ける。貼り方が雑だと、夜は剥がれる。剥がれると、欲がすぐ顔を出す。緋真は唇の内側を噛みながら、呼吸を整えた。
――名前は呼ばない。
――それでも、会いに行く。
眠りは、今夜は早く来た。落ちるというより、滑る。つるりと滑って、次の場面の床に膝をつく。
※
夢。薄明かりの飛行場。空はまだ夜の端を持ち、滑走路の向こうに低い山が横たわっている。草の匂い。油の匂い。汗の匂い。男たちがゆっくり歩く音。靴の底が砂を噛む音。静は列の中にいた。背筋は立ち、顎はわずかに引かれ、目は前を見ている。額には白い鉢巻。結び目が、少し曲がっている。誰かが急いで結んだのだろう。彼は指先でその皺をならす。ならす所作は、道場で面紐を直す手の動きとよく似ている。
将校が前に立ち、事務的に番号を読み上げる声。兵士たちの返事。静の声は小さいが、はっきりと「はい」と言う。声には震えが混ざっている。混ざった震えを隠す練度も彼は持っているはずだ。持っているのに、隠さない。隠さないのか、隠せないのか。緋真には判別できない。判別不能の混合物が夢の空気になり、肺の内側を撫でる。
列が解散すると、静は一人で空を見上げた。空は、ここでは頼りない。頼りなさが、ひとの祈りを引き出す。彼は祈りの形を取らない。名を呼ばない。額に巻いた鉢巻の端が、風でふわりと揺れる。彼は右手でその端を押さえ、左手でポケットから小さな竹の守りを出した。結び目は、ほどけかけている。ほどけかけているのは、いつだって兆しだ。静は結び直す。指先が震える。震える指でも、結び目はできる。きれいではない結び目は、意地を持つ。矢野に教わった結び方だ。矢野は器用ではない。器用ではない結び目は、ほどけない。「それ、褒めてないだろ」と笑った矢野の声が、ここには来ない。来ないことが、今夜は正しい。
背後から、若い兵が歩み寄る。静より少し背が低い。顔には、まだ子どもの脂の光が残っている。彼は胸の前でぎこちなく敬礼し、「沖田さん」と呼びかけた。名を呼ぶ声に、確定の重さが混ざった。静はわずかに眉を下げた。「うん」
「怖くないんですか」
静は少し笑った。「怖いよ」
言葉の端が震えた。震えは、彼が人間であることの証だ。強いふりは礼儀ではない。礼儀とは、弱さを折りたたんで懐にしまい、必要なときにだけ取り出す作法だ。静は弱さをしまい、脇の紐をきゅっと締める。
「俺は怖くないです」
若い兵は言い、すぐに視線を落とした。うそだ、と自分に言ったのだろう。静は彼の肩に手を置く。「怖くないと言えるのは、偉いことだよ。言えない人もいる」
若い兵は目を上げた。目は濡れていない。濡れていない瞳の中に、恐怖は薄く広がっていた。広がる恐怖には輪郭がない。ないものに礼をするのはむずかしい。静は矢野の手の形を思い浮かべ、若い兵の肩を軽く叩くだけにした。叩く音は小さい。小さい音は、長く残る。
飛行機のエンジンがゆっくりと目覚める。振動が地面を通って脚に上がってくる。鼓膜の奥で濁った低音が育っていく。静は機体の前に立ち、金属の腹を指で一度叩く。叩く音は、竹刀の節を確かめる音と似ている。機械に向けた礼。礼は、生きているものにも、死んでいるものにも、機械にも向けられる。礼の対象は、居合わせたものすべてだ。
緋真は喉に叫びを集めた。集めるだけで出さない。出さないことが今夜の礼だと信じる。彼の舌の裏には、呼びかけの形がつく。「静」と、言えば、確定が来る。呼ばない。呼びたい。呼ばない。その振り子が胸の中で揺れる。振れ幅は大きく、速度は遅い。その遅さが、彼をすこし救った。遅いものは、たいてい優しい。優しさは、恐ろしい。
静が機体に乗り込む直前、はるか向こうから別の影が歩いてくる気配がした。影は背が高く、肩が真っ直ぐで、足取りに迷いがない。矢野の影に似ている。似ているだけだ。彼ではない。いない者の似姿に、希望はない。希望の代わりに、覚悟が来る。静は振り返らない。振り返らない所作の美しさに、緋真は胸をえぐられる。
――知らなければ、会える。
――知ってしまえば、失う。
相反する二行が、滑走路の白線の上で交差する。交差は危険だ。危険の手前で、静は一度だけ目を閉じた。目を閉じたまぶたの薄さの向こうに、道場の梁の木目が浮かぶ。木目の節が、今、月の位置に重なる。彼の呼吸は浅い。浅い呼吸で、礼をする。礼をして、乗り込む。
緋真はそこで目を覚ました。喉が痛い。枕が湿っている。胸は固い石を抱えたみたいに重い。カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んで、机の上の瓶の列にわずかに光っている面を作る。《行く末(空)》のラベルが、薄い金色に照らされている。
※
午前中は、体の端々が眠気と痛みを交互に送り込んできた。授業の板書を写しながら、緋真は文字の画と画の間に空白を多めに取った。空白を取らなければ、呼吸ができない。ケンタが「大丈夫?」と覗き込み、彼は「大丈夫」と言った。大丈夫という言葉は、今日に限っては礼の挨拶の形をしていた。そう言うことが相手を安心させ、余計な心配を呼ばない。呼ばないことも、礼だ。
放課後、図書室へ向かう。郷土誌の棚の前で立ち止まる。手を伸ばせば、情報は取れる。取った瞬間に、夢の入口の光が変質する怖れがある。取らないことは、怠惰でも臆病でもなく、祈りの一形式だと、今の緋真は知っている。彼は代わりに、棚の下の段に置かれた「戦時の生活」という薄い冊子を手に取った。配給券の写真。鉢巻の結び方。出征兵士を囲む町の人々の写真。紙は乾いていて、指先に粉のような感触を残す。ページの端に小さく鉛筆書きで誰かのメモがあった。《名を呼ぶと帰ってくる気がする。だから呼ぶ。――母》。緋真はその行にそっと指を当て、すぐに離した。祖母は呼ばなかった。誰かは呼んだ。両方とも、正しい。正しいことがふたつある世界で、人は沈黙を選ぶか叫びを選ぶか迷い続ける。迷い続けることが、行く末だ。
※
夕方。祖母から短いメッセージが届いた。《あんたの顔を見て、祈り方を思い出したよ》。緋真は返す。《俺も》。返したあと、窓の外を見る。薄紫の雲が低く流れ、遠くで雷が鳴る。風が一段冷たくなる。ベランダに干した紺色の布が、もう乾いていた。黒い染みは残った。残ったけれど、布は使える。染みの上にも紙は置ける。置いた紙に、また今夜の言葉を落とせる。黒の跡は、行為の証だ。
机に向かい、ノートの見開きの真ん中に書く。《結末を知りたいという欲望は正直で、同時に暴力だ》。そこから一本線を引いて、《暴力をどうやって礼にするか》。さらに線を伸ばし、《名前を呼ばない》《書くのは記録》《改竄をしない》《行く末を自分のものにしない》。箇条書きのようで、実際には祈りの段取り表に近い。段取りは、彼にとって何よりの救いだ。段取りがあると、夜の入口で迷っても戻れる。
鉛筆を置き、空の瓶を一本手に取る。ラベルはまだ白紙。彼はペンで、ためらいながら書いた。《矢野の不在(空)》。「矢野」という二文字を書いた瞬間、胸の内側が熱を持った。嫉妬は終わっていない。終わっていないことを、瓶は静かに受け止める。空のまま、名前だけが瓶を重くする。重さを掌で測ったあと、棚に戻した。
※
夜。眠る前、緋真は祖母の家でもらった数珠を手に取った。幼い頃、仏間で遊んでいて叱られたことがある。でも今は、数珠の玉の温度が、自分の体温で少しずつ変わっていくのがわかる。変わる温度を確かめるのは、礼の一部だ。彼は数珠を掌に挟み、目を閉じた。名は呼ばない。代わりに、息を数える。四まで吸って、四止めて、四吐く。四のリズムが夜の板間に響き、やがて耳の後ろへ沈む。
眠りは梢から落ちる鳥の影のように、静かに降りてきた。夢を見た。静は黙って空を見上げている。出撃を前にした顔には、恐怖と諦めが同居している。恐怖は瞳の奥の暗さで、諦めは唇の線の薄さでわかる。静は空のどこを見ているのか、自分でもはっきりわかっていないようだった。何かを見ようとして、その何かが、そもそも見えるものではないのだと悟る瞬間の顔。緋真は夢の中で叫びたいのに、声が出ない。喉は叫びの形を作るが、空気は通らない。空気の替わりに涙が通り、喉が熱くなる。緋真はふと思った――自分が声を出したいのは、静のためではなく、自分の欲望のためだ。叫びたいのは、「知りたい」を満たすために他ならない。叫べば、確定が来る。確定が来れば、失う。
目が覚めると、天井の角が白く光っている。早朝の光だ。胸に残っているのは、「知りたい」という欲望と、「知ってしまえば失う」という恐怖。どちらも正しいし、どちらも地獄だった。緋真は布団の中で膝を抱え、額を膝頭に押し当てた。額に骨の硬さが心地よい。硬さは、形のある救いだ。柔らかい救いは、たいてい溶けてなくなる。硬い救いは、どこかを痛める代わりに、残る。
彼はゆっくり起き上がり、机へ向かった。ノートを開いて、最初のページに戻る。そこには大きな字で《これは誰かの息の記録である。改竄をしない》と書いてある。あの夜の決意の筆圧は、今も強い。緋真はその下に、一行書き足した。
《行く末は、記録者のものではない》
書いた瞬間、肩の力が少し抜けた。抜けた分だけ、現実の重さが戻ってくる。提出物。朝食。出席。明日のテスト。父の新聞。母の卵焼き。妹の笑い声。それらの小さい現実が、夢の巨大さの端をそっと支える。
窓を開けると、空気はもう夏の前触れの匂いを持っていた。遠くでカラスが鳴き、近くの電線にスズメが二羽とまる。スズメは時々こちらを見た。見ているようで、見ていない。そういう視線が、今の彼にはありがたい。見つめられると人は確定を急ぐ。見ないでくれるから、彼は「わからないままでいる」を選べる。
制服に袖を通し、鞄を肩に掛ける。ポケットに、祖母にもらった紺の布を畳んで入れた。机に置いた瓶の列に目をやる。ラベルの白が朝の光をほんのすこし返す。返された微かな光で、彼は今日も自分の位置を知る。位置は重要だ。位置を見失うと、礼がすぐに方向を間違える。
玄関を出る前に、緋真は靴紐をしっかり結んだ。結ぶ所作は、矢野の不器用を思い出させる。意地を持った結び目はほどけない。ほどけない結び目をそっと押さえ、彼は扉を開けた。外の空気は昨日よりも軽かった。軽さは、裏切らないうちに味わうべきものだ。味わいながら、彼は歩き出した。どこかにたどり着くつもりで歩くのではなく、歩くことそのものを礼に変えるために。行く末は誰のものでもない。けれど、その手前で息を合わせることはできる。彼は、息を合わせる者として今日もペンを持つ。持って、書く。書いて、わからないままにする。わからなさを抱えたまま、それでも前へ。静が恐怖を抱えて前へ進んだように。矢野が踏み込みの無茶を背中で受け止めたように。
行く末は、また夜にやって来る。夜は、静かに近づく。名を呼ばずに、灯りを落として迎える用意をしながら、緋真は学校へ向かった。道の端に咲く花の名を知らない。知らないままで、足を止めずにゆく。ゆく末の、手前の、いつもの朝だった。
朝の空気は、雨の気配を含んだ金属の匂いがした。緋真はそれを肺の底まで流し込みながら、祖母の家へ走った。信号待ちのあいだも足踏みをやめられない。横断歩道の白い帯が、水で薄く濡れて、滑り台の表面みたいに鈍く光っている。通学の子どもらが手をつないで歩く列に混ざりそうになって、緋真は肩をすべらせる。息は上がっているのに、胸の中心には別種の重さが沈んでいて、走るほどそこが動かない。
商店街のアーケードを抜け、瓦屋根の連なる一角に入る。見慣れた玄関の曇りガラスの向こうに、祖母の影が揺れる。チャイムを押すと、鍵が開く音が小さく鳴り、戸が内側へ引かれた。
「どうしたんだい、朝から」
祖母の声はいつもと同じ温度で、緋真の焦りはそれだけで少しズレたように感じられた。靴を脱いで上がり込み、居間へ通される。ちゃぶ台の上には湯呑が二つ。湯気はまだ立っていない。これから沸かすつもりだったのだろう。
畳に膝をつき、緋真は言葉の順番を作る余裕もなく口を開いた。
「沖田……静さんは、どうなったのか教えてください」
言った瞬間、目の奥が熱くなった。声に震えが混ざったのは泣き出す前触れだと分かっているのに、止められない。祖母は、ほんの少しだけ目を伏せた。手を合わせる。指と指が触れるあいだにできた小さな洞に、祈りの影が落ちる。
「……」
沈黙は、何よりも雄弁だった。言わないことによって置かれる言葉の重さを、緋真は初めてちゃんと感じた。祖母は湯を沸かしに立ち、台所のほうでやかんの底が金属に触れる硬い音が鳴った。やがてコトコトと微かに水が動き始める音。緋真は自分の膝の上で手を握る。爪が皮膚に食い込む感覚だけが現実だった。
「祖母ちゃん」
「緋真」
祖母は湯を注ぎ、湯呑を滑らせるように彼の前へ置いた。湯気が鼻にあたって、涙の匂いが立ち上がる。
「知りたいんだね」
「知りたいです。でも、知ったら、もう……」
「会えなくなる気がするかい」
緋真は頷いた。喉が細くすぼまっている。声が紙みたいに薄くなっている。
祖母は湯呑に視線を落とした。「うちはね、“わからないままにする”っていう線引きをしてきたんだよ。名前を呼ぶと確定が来る。確定は、ときどき人を殺す。だから、名前を呼ばない。結末は、置かない。そういうふうにして、風の吹く場所を残してきた」
緋真は唇を噛んだ。祖母の言葉は、夢の中で見た石碑の文と同じ場所を叩く。「でも、俺は……俺はずるい。夢の中で“彼”のそばにいるくせに、現実では何も責任を負っていない。わからないままの、便利さに寄りかかってる」
祖母は首を振った。「寄りかかればいいんだよ。寄りかからないと、人は倒れる。倒れた人は、祈れない。祈れないと、何も受け渡せない」
祈り、受け渡し。緋真の耳の奥で、単語がゆっくり形を変える。受け渡すものは、結末ではなく、息。祖母の手が、湯呑の周りの輪染みを布で拭う。輪はすぐに消えた。
「静さんは、祖母ちゃんの叔父さんだったんだよね」
「そうだよ」
「帰って、きたの?」
祖母は答えない。黙ったまま、手を合わせた。合わせた指の節に刻まれた皺は、時間の方程式が解けないことの証のように見えた。
緋真は額を畳につけた。守られている静けさの中で泣くのは、夜の塹壕で泣くのとは別の形だった。泣くという形式に、いくつか種類がある。祖母の前で泣く緋真は、子どもの時の呼吸の仕方を思い出す。肩が上下する。鼻が詰まり、口から空気を吸う。そのたびに、祖母がそっと背中を撫でた。
「知ることは人を救う。でも、確定させる言葉は、ときに別の誰かを殺す。あの時代の人たちは、それを知っていたんだろうね」
「俺は……俺はそれでも、知りたい」
「知りたい気持ちを持つのは、悪くない。悪いのは、その気持ちで誰かを急かすことだよ」
急かす。祖母の言う誰かには、もうこの世にいない人も、今ここにいる人も含まれている。緋真は何度も頷いた。頷きが責任の最小単位なら、それだけでも持ち運べる。
祖母は箪笥の引き出しから古い布を取り出した。紺色で、端が少しほつれている。
「これ、机の上に敷いてごらん。紙の下にあてると、墨が暴れない。インクも、ね」
墨が暴れない――言い回しのやわらかさに、緋真は笑ってしまった。笑いは、祖母の家ではいつも祈りの近くにある。
家を出ると、雲は厚みを増していて、空の端が重く垂れ下がっていた。商店街のシャッターの前に置かれた鉢植えの朝顔が、花を一輪だけ開いている。色は、静の鉢巻の白さとは違う青だった。
※
学校へ戻る電車の中で、緋真はスマホの電源を落とした。通知の震えは、現実の呼び声に似ている。現実に行きたくないからではない。現実に基準を合わせないと、夢ばかりが正しくなる。どちらかが正しくなりすぎると、世界の水平が歪む。
定期テストの返却は続いていた。現代文は何とか平均を保ったが、数学と化学は見事に沈んだ。点数の赤い記しが、彼の内部の赤い縁取りと呼応する。呼応は、強すぎると嗅覚にくる。放課後、担任がまた進路指導室へ呼ぶ。
「神田」
「はい」
「なにか急ぐことがあるのか」
緋真は笑いそうになった。急ぐ、という言葉は、彼にとっては睡眠のことを意味している。眠りへ急ぐ。人に言える種類の急ぎではない。「ちょっと、家の用事が」とぼかした。
担任は「そうか」と言い、ペンを置いた。「君の文章は、いい。だが、文章は生活に足場を置く。足場が崩れると、文章も滑る。滑ると、怪我をする。怪我をしたら、また来なさい」
怪我、という言葉は、夢の中で見た包帯と別の意味を持って緋真に届いた。彼は会釈して部屋を出る。廊下の窓からは午後の光が鈍く差し、体育館の屋根に淡く反射していた。ケンタが廊下の端から手を振る。「帰り、カラオケ行く?」緋真は首を振る。「今日はいい」。ケンタは両手を広げて、「おまえ最近、オフライン過ぎる」と笑った。オフライン、という言葉が、祖母の沈黙と奇妙に並んで浮かぶ。
※
帰宅してドアを閉めると、世界が一段落ち着いた。机に祖母の布を敷く。紺色は落ち着いて、“暴れない”という言葉どおり、息が整う。ノートを開く。インク壺のふたを外す。ペン先にインクを含ませ、息を吐いた。そのだいじな一息の直後、緋真は自分の指が少し震えているのに気づいた。震えは最初こそ愛おしいが、すぐに暴力になる。暴れないように、指の骨の並びを確かめる。
「行く末」
一行目にその言葉を書いた。字が硬い。硬さのあとに小さく線を足して、柔らげる。行く末。ゆくすえ。行くという現在進行と、末という静止の間に、姿勢を決められない空白がある。その空白が、緋真の胸の真ん中と同じ形をしている。
紙の上でペンを持ち直した瞬間、指が滑った。インク壺の縁に手首が当たる。倒れる。黒が紙にこぼれ、祖母の布に広がる。動きは水より早く、塩より遅い。黒は、紙の繊維の間にすばやく染み込み、ふちの部分で濃淡の曲線を作った。緋真は目を凝らす。黒が広がる形は、風が持っていった地図のようだった。彼の手は、反射的にティッシュに伸びる。拭う。拭っても、黒は残る。残った黒は、言葉の上に重なる。
まるで「結末を求める自分の欲望」が現実を汚染するかのように見えた。インクの動きに、彼は自分の目の欲を見た。欲はよく動く。動きを、布が吸う。祖母がくれた紺の布が、黒を受け止める。暴れない、という言葉は、こういう時のためにもあるのだと知る。緋真は「ごめん」と小さく声を出した。誰に対しての謝罪でもなく、ただ、行為そのものに向けて。軽く息を吐いて、布の端を持ち上げる。黒は布に移り、紙の上には、曲がった半月みたいな黒の跡が残った。残った形は、言葉の居場所を少しだけ削る。削られた空白に、彼は短い文を置いた。
《知りたい。けれど、知らないまま守れるものがあると、祖母は言った》
机を片づけ、濡れた布を洗面所で水に浸す。黒い水が白い陶器の中でゆっくり薄くなっていく。薄くなっていくことが、受け渡しの一種に見えた。彼はタオルで布を押さえ、ベランダに干す。風が来て、布の端がわずかに揺れる。揺れによって、黒い部分が陽の光をちょっとだけ返す。黒は光を返すことができる。そう思うと、胸の中の黒も連動して少しだけ軽くなった。
※
夜になる。眠りの儀式を一つひとつこなす。カーテンはいつもよりほんの少し多く開けた。祖母の「灯りを落として、静かにする」を思い出し、部屋の照明を最低限にして、机の角に置いた小さなスタンドだけをつける。竹の守りを枕元に。スマホは機内モード。アラームは三つ。ノートとペン。水。ティッシュ。空の瓶には新しいラベル。《行く末(空)》と書いた。空っぽの瓶に名を与える行為に、彼はまだ救いを見ている。
布団に潜り、うつぶせになる。目を閉じる前に、祖母の沈黙を胸の裏に貼り付ける。貼り方が雑だと、夜は剥がれる。剥がれると、欲がすぐ顔を出す。緋真は唇の内側を噛みながら、呼吸を整えた。
――名前は呼ばない。
――それでも、会いに行く。
眠りは、今夜は早く来た。落ちるというより、滑る。つるりと滑って、次の場面の床に膝をつく。
※
夢。薄明かりの飛行場。空はまだ夜の端を持ち、滑走路の向こうに低い山が横たわっている。草の匂い。油の匂い。汗の匂い。男たちがゆっくり歩く音。靴の底が砂を噛む音。静は列の中にいた。背筋は立ち、顎はわずかに引かれ、目は前を見ている。額には白い鉢巻。結び目が、少し曲がっている。誰かが急いで結んだのだろう。彼は指先でその皺をならす。ならす所作は、道場で面紐を直す手の動きとよく似ている。
将校が前に立ち、事務的に番号を読み上げる声。兵士たちの返事。静の声は小さいが、はっきりと「はい」と言う。声には震えが混ざっている。混ざった震えを隠す練度も彼は持っているはずだ。持っているのに、隠さない。隠さないのか、隠せないのか。緋真には判別できない。判別不能の混合物が夢の空気になり、肺の内側を撫でる。
列が解散すると、静は一人で空を見上げた。空は、ここでは頼りない。頼りなさが、ひとの祈りを引き出す。彼は祈りの形を取らない。名を呼ばない。額に巻いた鉢巻の端が、風でふわりと揺れる。彼は右手でその端を押さえ、左手でポケットから小さな竹の守りを出した。結び目は、ほどけかけている。ほどけかけているのは、いつだって兆しだ。静は結び直す。指先が震える。震える指でも、結び目はできる。きれいではない結び目は、意地を持つ。矢野に教わった結び方だ。矢野は器用ではない。器用ではない結び目は、ほどけない。「それ、褒めてないだろ」と笑った矢野の声が、ここには来ない。来ないことが、今夜は正しい。
背後から、若い兵が歩み寄る。静より少し背が低い。顔には、まだ子どもの脂の光が残っている。彼は胸の前でぎこちなく敬礼し、「沖田さん」と呼びかけた。名を呼ぶ声に、確定の重さが混ざった。静はわずかに眉を下げた。「うん」
「怖くないんですか」
静は少し笑った。「怖いよ」
言葉の端が震えた。震えは、彼が人間であることの証だ。強いふりは礼儀ではない。礼儀とは、弱さを折りたたんで懐にしまい、必要なときにだけ取り出す作法だ。静は弱さをしまい、脇の紐をきゅっと締める。
「俺は怖くないです」
若い兵は言い、すぐに視線を落とした。うそだ、と自分に言ったのだろう。静は彼の肩に手を置く。「怖くないと言えるのは、偉いことだよ。言えない人もいる」
若い兵は目を上げた。目は濡れていない。濡れていない瞳の中に、恐怖は薄く広がっていた。広がる恐怖には輪郭がない。ないものに礼をするのはむずかしい。静は矢野の手の形を思い浮かべ、若い兵の肩を軽く叩くだけにした。叩く音は小さい。小さい音は、長く残る。
飛行機のエンジンがゆっくりと目覚める。振動が地面を通って脚に上がってくる。鼓膜の奥で濁った低音が育っていく。静は機体の前に立ち、金属の腹を指で一度叩く。叩く音は、竹刀の節を確かめる音と似ている。機械に向けた礼。礼は、生きているものにも、死んでいるものにも、機械にも向けられる。礼の対象は、居合わせたものすべてだ。
緋真は喉に叫びを集めた。集めるだけで出さない。出さないことが今夜の礼だと信じる。彼の舌の裏には、呼びかけの形がつく。「静」と、言えば、確定が来る。呼ばない。呼びたい。呼ばない。その振り子が胸の中で揺れる。振れ幅は大きく、速度は遅い。その遅さが、彼をすこし救った。遅いものは、たいてい優しい。優しさは、恐ろしい。
静が機体に乗り込む直前、はるか向こうから別の影が歩いてくる気配がした。影は背が高く、肩が真っ直ぐで、足取りに迷いがない。矢野の影に似ている。似ているだけだ。彼ではない。いない者の似姿に、希望はない。希望の代わりに、覚悟が来る。静は振り返らない。振り返らない所作の美しさに、緋真は胸をえぐられる。
――知らなければ、会える。
――知ってしまえば、失う。
相反する二行が、滑走路の白線の上で交差する。交差は危険だ。危険の手前で、静は一度だけ目を閉じた。目を閉じたまぶたの薄さの向こうに、道場の梁の木目が浮かぶ。木目の節が、今、月の位置に重なる。彼の呼吸は浅い。浅い呼吸で、礼をする。礼をして、乗り込む。
緋真はそこで目を覚ました。喉が痛い。枕が湿っている。胸は固い石を抱えたみたいに重い。カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んで、机の上の瓶の列にわずかに光っている面を作る。《行く末(空)》のラベルが、薄い金色に照らされている。
※
午前中は、体の端々が眠気と痛みを交互に送り込んできた。授業の板書を写しながら、緋真は文字の画と画の間に空白を多めに取った。空白を取らなければ、呼吸ができない。ケンタが「大丈夫?」と覗き込み、彼は「大丈夫」と言った。大丈夫という言葉は、今日に限っては礼の挨拶の形をしていた。そう言うことが相手を安心させ、余計な心配を呼ばない。呼ばないことも、礼だ。
放課後、図書室へ向かう。郷土誌の棚の前で立ち止まる。手を伸ばせば、情報は取れる。取った瞬間に、夢の入口の光が変質する怖れがある。取らないことは、怠惰でも臆病でもなく、祈りの一形式だと、今の緋真は知っている。彼は代わりに、棚の下の段に置かれた「戦時の生活」という薄い冊子を手に取った。配給券の写真。鉢巻の結び方。出征兵士を囲む町の人々の写真。紙は乾いていて、指先に粉のような感触を残す。ページの端に小さく鉛筆書きで誰かのメモがあった。《名を呼ぶと帰ってくる気がする。だから呼ぶ。――母》。緋真はその行にそっと指を当て、すぐに離した。祖母は呼ばなかった。誰かは呼んだ。両方とも、正しい。正しいことがふたつある世界で、人は沈黙を選ぶか叫びを選ぶか迷い続ける。迷い続けることが、行く末だ。
※
夕方。祖母から短いメッセージが届いた。《あんたの顔を見て、祈り方を思い出したよ》。緋真は返す。《俺も》。返したあと、窓の外を見る。薄紫の雲が低く流れ、遠くで雷が鳴る。風が一段冷たくなる。ベランダに干した紺色の布が、もう乾いていた。黒い染みは残った。残ったけれど、布は使える。染みの上にも紙は置ける。置いた紙に、また今夜の言葉を落とせる。黒の跡は、行為の証だ。
机に向かい、ノートの見開きの真ん中に書く。《結末を知りたいという欲望は正直で、同時に暴力だ》。そこから一本線を引いて、《暴力をどうやって礼にするか》。さらに線を伸ばし、《名前を呼ばない》《書くのは記録》《改竄をしない》《行く末を自分のものにしない》。箇条書きのようで、実際には祈りの段取り表に近い。段取りは、彼にとって何よりの救いだ。段取りがあると、夜の入口で迷っても戻れる。
鉛筆を置き、空の瓶を一本手に取る。ラベルはまだ白紙。彼はペンで、ためらいながら書いた。《矢野の不在(空)》。「矢野」という二文字を書いた瞬間、胸の内側が熱を持った。嫉妬は終わっていない。終わっていないことを、瓶は静かに受け止める。空のまま、名前だけが瓶を重くする。重さを掌で測ったあと、棚に戻した。
※
夜。眠る前、緋真は祖母の家でもらった数珠を手に取った。幼い頃、仏間で遊んでいて叱られたことがある。でも今は、数珠の玉の温度が、自分の体温で少しずつ変わっていくのがわかる。変わる温度を確かめるのは、礼の一部だ。彼は数珠を掌に挟み、目を閉じた。名は呼ばない。代わりに、息を数える。四まで吸って、四止めて、四吐く。四のリズムが夜の板間に響き、やがて耳の後ろへ沈む。
眠りは梢から落ちる鳥の影のように、静かに降りてきた。夢を見た。静は黙って空を見上げている。出撃を前にした顔には、恐怖と諦めが同居している。恐怖は瞳の奥の暗さで、諦めは唇の線の薄さでわかる。静は空のどこを見ているのか、自分でもはっきりわかっていないようだった。何かを見ようとして、その何かが、そもそも見えるものではないのだと悟る瞬間の顔。緋真は夢の中で叫びたいのに、声が出ない。喉は叫びの形を作るが、空気は通らない。空気の替わりに涙が通り、喉が熱くなる。緋真はふと思った――自分が声を出したいのは、静のためではなく、自分の欲望のためだ。叫びたいのは、「知りたい」を満たすために他ならない。叫べば、確定が来る。確定が来れば、失う。
目が覚めると、天井の角が白く光っている。早朝の光だ。胸に残っているのは、「知りたい」という欲望と、「知ってしまえば失う」という恐怖。どちらも正しいし、どちらも地獄だった。緋真は布団の中で膝を抱え、額を膝頭に押し当てた。額に骨の硬さが心地よい。硬さは、形のある救いだ。柔らかい救いは、たいてい溶けてなくなる。硬い救いは、どこかを痛める代わりに、残る。
彼はゆっくり起き上がり、机へ向かった。ノートを開いて、最初のページに戻る。そこには大きな字で《これは誰かの息の記録である。改竄をしない》と書いてある。あの夜の決意の筆圧は、今も強い。緋真はその下に、一行書き足した。
《行く末は、記録者のものではない》
書いた瞬間、肩の力が少し抜けた。抜けた分だけ、現実の重さが戻ってくる。提出物。朝食。出席。明日のテスト。父の新聞。母の卵焼き。妹の笑い声。それらの小さい現実が、夢の巨大さの端をそっと支える。
窓を開けると、空気はもう夏の前触れの匂いを持っていた。遠くでカラスが鳴き、近くの電線にスズメが二羽とまる。スズメは時々こちらを見た。見ているようで、見ていない。そういう視線が、今の彼にはありがたい。見つめられると人は確定を急ぐ。見ないでくれるから、彼は「わからないままでいる」を選べる。
制服に袖を通し、鞄を肩に掛ける。ポケットに、祖母にもらった紺の布を畳んで入れた。机に置いた瓶の列に目をやる。ラベルの白が朝の光をほんのすこし返す。返された微かな光で、彼は今日も自分の位置を知る。位置は重要だ。位置を見失うと、礼がすぐに方向を間違える。
玄関を出る前に、緋真は靴紐をしっかり結んだ。結ぶ所作は、矢野の不器用を思い出させる。意地を持った結び目はほどけない。ほどけない結び目をそっと押さえ、彼は扉を開けた。外の空気は昨日よりも軽かった。軽さは、裏切らないうちに味わうべきものだ。味わいながら、彼は歩き出した。どこかにたどり着くつもりで歩くのではなく、歩くことそのものを礼に変えるために。行く末は誰のものでもない。けれど、その手前で息を合わせることはできる。彼は、息を合わせる者として今日もペンを持つ。持って、書く。書いて、わからないままにする。わからなさを抱えたまま、それでも前へ。静が恐怖を抱えて前へ進んだように。矢野が踏み込みの無茶を背中で受け止めたように。
行く末は、また夜にやって来る。夜は、静かに近づく。名を呼ばずに、灯りを落として迎える用意をしながら、緋真は学校へ向かった。道の端に咲く花の名を知らない。知らないままで、足を止めずにゆく。ゆく末の、手前の、いつもの朝だった。



