第九話 睡眠という逃亡
最初の崩れは、小さな見落としのふりをしてやって来た。数学の小テストの余白に、緋真は無意識のうちに夢の断片を書いてしまっていた。〈土嚢 影 口を手で覆う〉。提出された答案には因数分解よりも戦地の記号が多く、その紙を見た担任は眉を寄せて「神田、おまえ」と言いかけて、やめた。やめたあとに、呼び出しの紙をくれた。放課後、進路指導室。安定した蛍光灯。ため息を飲み込んだ椅子の軋み。
「最近どうした」
問いはあるべき最小の形で投げられた。緋真は返事の最小を探すみたいに、口の中でいくつかの答えを転がした。眠い。書いている。夢を見る。だれかの夢だ。だれかの真ん中で泣く。どれも、進路指導室では禁句だ。彼はようやく、凡庸な高校生の正しい台詞を出した。
「眠れてなくて」
「夜更かし?」
「ちょっと」
担任はペン先で机を軽く叩いた。叩く音で怒らない練習をしているみたいに。「小説のほう、読んでるぞ。いい。いいけど、学校の生活も大事だ。神田は器用じゃない。だから順番を間違えると全部崩れる」
崩れる、という語は、緋真の体内で別の場所を震わせた。崩れるのは現実だけじゃない。夢の中の陣形も崩れる。崩れたあとに残る砂埃の匂いが鼻の奥で広がる。緋真は頷き、そして何も約束しなかった。約束をすると、夢が薄くなる。薄くなる夢は、現実の約束を守らせたがる。どちらかを選べと言われれば、今の彼は迷わない。迷わないことのほうを、恥じるべきだと知りながら。
家に帰ると、母がキッチンから顔を出した。「夜更かししてるんでしょ、顔色が悪いよ」。言いながら、卵焼きを巻く手は止まらない。生活の手つきは、心配を中和する。緋真は冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに注ぎ、一口で飲み干した。「眠いだけ」と言う。妹がソファから「また小説?」と笑い、父は新聞の隙間からちらりと見た。家族はだいたい正しい。正しいが、緋真の真ん中には触れない。触れないように、彼自身が置き方を変えている。
彼は自室のドアを閉め、机の角に掌を押しつける。そこに、彼の今日の端がある。手首の骨に冷たさが伝わるまで押してから、ノートを開く。紙は朝の白さをまだ持っている。彼は一本、短い線を引いた。《規則:装飾より記録》。次に、いつものように机の隅の小さなガラス瓶の列を整える。ラベルが増え、棚が少し窮屈になっている。空のままの瓶に貼られた名前――〈慟哭の空〉〈すみませんの温度〉〈矢野の踏み込み(音なし)〉。愚かだ。わかっている。愚かさの棚は、今日も彼を支えた。
眠りは、欠乏ではなく、方法になっていた。眠り方を整え、眠る前の儀式を自分で決める。カーテンは二十センチだけ開ける。ベッドの足元に竹の守り(自作の拙いもの)を置く。スマホは機内モード、アラームは三つ。枕元にノート、ペンは0.38。水。ティッシュ。瓶。すべての位置が、彼の眠りの骨格を作っていた。骨格が決まると、夢は来やすい。来やすいものに人生が傾く。
夢の中でしか静に会えない。だから眠る。小説は「会うための儀式」に変わった。書けば、会える。書かない夜は、夢の入口が遠い。どれだけ倫理のノートに《預かり人》と書いても、現実の手は「会うため」に動く。自分の書く言葉が誘うのではないか。そんな錯覚に、彼はあえて身を任せる。錯覚は、儀式の信仰に似ている。信じなければ効かない。信じすぎると壊れる。壊れきる前に眠る。その程度の算段は、もう身に付いた。
※
その週、緋真の時間割は、睡眠を中心に組み替えられた。一限目の現代文は半分夢の続き。二限目の化学で前夜の音が唐突に胸に戻ってきて、先生の「滴定」という語が銃声と同じ高さで耳に刺さる。昼休みは机に突っ伏し、三十分だけ深く潜る。潜る前にノートに書くのは合図だ。《矢野 影だけ》。目を閉じて三分で、道場の埃の匂いが来る。試験前の勉強時間は、そのまま寝落ちの準備に消えた。
定期テストは見事に惨敗だった。答案用紙の赤い丸が、夢の中の赤い縁取りを連想させる。〈赤〉というだけで、胸が硬くなる。点数を受け取って席に戻り、緋真は答案の端に小さく書いた。《礼は在る》。自分への慰めのためにではない。夢の中で静がいつも守っていた何かが、現実にも影を落とす形にしたかった。
放課後、担任は再び呼んだ。「神田」と名前の最後の音をやわらかく下げる。緋真は椅子に座る前に謝る準備をする。「すみません」。担任は笑わず、怒りもせず、ただ指で机の端をとんとんと叩く。「君の文章は、いい。けれど、夜は短い。若いからといって、延ばすと破れる」。破れる、という語に彼は背筋を伸ばす。破れた夢の端で指を切る痛みを、昨夜知ったばかりだ。
「最近どうした」
「眠ってます」
「眠るのはいいことだ」
「眠りすぎてます」
担任は少し笑って、それから真面目な顔に戻した。「保健室でも相談できるぞ」。緋真は頷いた。相談する相手は、彼の夜には別にいる。相談という語が示す水平の距離が、今の彼にはうまく掴めない。
家では、母の心配が粒になって空気に混ざる。「朝ごはん、食べた?」「顔色」「目の下」。緋真はキッチンの隅に立ち、卵焼きの匂いを嗅ぎながら「眠いだけ」を繰り返す。父は新聞の中から顔を出し、「俺も若い頃、寝ないでテスト受けて……」と笑い話を始め、途中で口を閉じる。笑いが彼の顔から落ちたのを、緋真は見た。落ちた笑いは拾えない。拾えないものを、人は地面に任せる。
夜。儀式。カーテン、枕元、ノート。彼はペン先で、昼間に思いついた短い定義を一行だけ書く。《眠り=逃亡の形をした帰宅》。書いた瞬間、それが当たり前すぎて笑ってしまう。笑いはすぐ乾き、乾いたあとの紙は待つ。彼は待たせるのが悪いと思い、目を閉じた。
※
夢の場面は、いつもと同じではなかった。広い空。滑走路。草が低く刈られ、遠くの小山が薄い輪郭で並ぶ。集められた兵士たち。静がその列の中にいる。顔は白く、目はまっすぐ、背筋は道場のまま。夏の汗が首筋に走り、えり足に髪が貼りつく。風が少しある。いい風だ、と誰かが言う季節の風。しかし、その風に今日の命令は似合わない。
将校が前に出る。淡々と告げる声は、戦地の常用の音域を持っている。掛け声ではない。説得でもない。事務。整然とした死の読み上げ。
「特別攻撃隊 次回出撃名簿」
列の空気が一瞬だけ固い膜になって、すぐに砕ける。砕けた破片が兵士たちの足元に散らばり、それぞれがその破片を踏む。名前が呼ばれる。静の名字も、あまりにも自然に挟まれて呼ばれた。波の端に立っているだけの人間の足首に、水が来ては帰るみたいに、呼ばれ、戻り、名が彼の胸の内側に貼り付く。
兵士たちは拍手をした。善意の拍手。斜め上に向けられた勇気への拍手。拍手は、現実に速度を与える。速度のついた現実は、人間の判断を追い越す。静は拍手の中で、正しく礼をした。ゆっくりと腰を折り、頭を下げる。その礼は、道場の礼と同じ所作だが、意味が違う。意味が違うことを、静は身体のすべてで理解している。理解した身体は、それでも礼をやめない。やめないことが、彼の礼儀の最後の砦だ。
「沖田」
将校の前に出て、静は短く「はい」と答えた。その声は震えていた。震えを隠す技術は人一倍持っているのに、今夜だけは隠さないのか、隠せないのか、緋真にはわからない。静の「はい」は、彼自身の命に向けられているのではない。多分、矢野の背に向けられている。矢野の「大丈夫」の形をした唇に向けられている。緋真の胸の奥に、その震えは直に落ちた。落ちた振動で、夢全体が一瞬だけ暗転し、次の瞬間には戻ってくる。戻ってきた場面で、静は鉢巻を渡され、手の中の布を丁寧に折り、指先で皺を伸ばしていた。礼の形だけが、彼の手に残った。
列が解散し、兵たちがそれぞれの影へ散っていく。静は一人で、空を見上げた。薄い月。道場の梁の節と同じ高さに見える月。彼は息を吸って、吐き、吸って、吐いた。呼吸の手順は、恐怖の手順に似る。手の中の鉢巻に、彼は額を押し当てた。祈りの形は取らない。祈りは持つ。名を呼ぶと、確定が来る。呼ばないまま、目を閉じる。唇がわずかに動く。緋真には聞こえない。聞こえないのに、意味だけが胸に届く。「行く」。一語。命令形でも願望でもない。報告。報告に礼を添えるために、彼はもう一度だけ、ゆっくり礼をした。
緋真の心臓は、その瞬間、握りつぶされた。胸骨の裏側に手が入り、心臓を直接握り、力いっぱい絞ったみたいに。息が吸えない。夢の中で声が出ない。現実で喉が悲鳴の形に硬直する。うつぶせに倒れて、布団に顔を押し付ける。布団が濡れる。涙は命令に従わない。命令は「止まれ」だが、涙は走る。走り切ってから、やっと足を止める。止めたあとに、もっと大きな波が来る。
――これ以上眠れば、静が死んでしまう。
理解は、物語のクライマックスではなく、生活の隅で静かに灯る電球に似ている。灯りは、消せる。消すか。消せるのか。緋真は布団から顔を上げ、天井の角を見た。角はいつもの角で、何の答えも持っていない。彼は枕元のノートに震える手で殴り書きする。《特攻辞令。拍手。はい。震え。鉢巻の皺。礼。》筆圧が紙を破る寸前の濃さになり、途中でペンが滑って革の手帳の表紙に線が走る。その傷を、彼は許した。許しながら、今夜の自分を嫌った。嫌い方にも礼を持たせたいのに、持たせる余裕がない。
彼は気づく。自分が抱いていたのは憧れではなく、愛だ。憧れは距離を許す。愛は重荷を背負う。重荷を背負う者は、相手の絶望をも自分の肩にかけたがる。かけることは、たいてい無礼だ。無礼を自覚しつつ、緋真はノートの端に小さく書いた。《責任》。書いても、書かなくても、夜は同じ速さで進む。
※
翌日、緋真は眠気で世界の線が二重に見えた。黒板の字が少し分身し、先生の声が音楽みたいに遠くなる。机に伏せると、頬に冷たさが移り、冷たさは一秒だけ現実を取り戻す。隣の席のケンタが、緋真の肘をつつく。「おまえさ、昨日、徹夜?」緋真は首を振る。「寝た」「寝すぎた」。ケンタは笑う。「どっち」。緋真は笑い返せなかった。笑うと、胸の奥の絞られた心臓が思い出される。笑いは痛みを呼ぶ。痛みは覚醒を呼ぶ。覚醒は睡眠を呼ぶ。眠りは毒で、薬で、恋人に会う唯一の道だ。恋人、という語を書いてしまった自分を、緋真は手の甲の爪で否定する。爪の跡が赤く残る。赤は、夢の赤と違う。違いだけが救いだ。
昼休み、彼は保健室のベッドにもぐり込んだ。カーテンが白い。看護教諭が静かな声で「三十分ね」と言う。三十分で足りるはずがない。足りない三十分で、夢の端だけでも掴む。掴んだ端は、夕方には指からするりと抜ける。その予感を抱えながら、目を閉じる。音が遠ざかる。白い布の匂いが遠ざかる。別の布の匂いが近づく。鉢巻。汗。土。緋真はそこで、意識を強引に引き戻した。引き戻す痛みが頭蓋の内側で弾ける。保健室の白い天井。その清潔な白は、戦地の白とは違う。違いを確認できることが、まだ彼の防波堤だった。
放課後、担任はまた言った。「神田、最近どうした」。緋真は「眠りに依存してます」と言いかけて、飲み込んだ。代わりに「小説を書いてます」と正直な嘘を言った。担任は笑わずに頷く。「書くのはいい。けれど、『書くために生きる』と『生きるために書く』は、似ていて違う。君は今、前者だ。少し、後者に戻れ」。戻れ。命令形。緋真は命令に礼を返す。「はい」。静の声のまねをしないように、声帯を一音低く使う。うまくいかない。
帰り道、コンビニの蛍光灯に吸い寄せられ、エナジードリンクの棚の前で立ち尽くした。眠らずにいられる方法。眠らないことは、静を延命させることになるのか。論理は破綻している。破綻しているとわかっている。わかっていても、彼の手は缶を一本取り、やめた。棚に戻して、代わりに塩むすびを二つ買う。塩は現実を舌に引き戻す。歩きながら食べる。米粒が指に付く。指を舐めない。舐めると、祈りの配分がおかしくなる気がする。
夜。眠らない作戦。机に本を積み上げ、明日の提出物を片付け、洗濯物を畳み、風呂を長くし、湯船で数を数え、湯から上がって髪を念入りに乾かす。髪の先が首に触れるたび、夢の中の汗が混ざる。眠らないのは無理だ。緋真は知っている。だから、眠りの到来を遅らせる。遅れた眠りは、たいてい深い。深い眠りは、夢の深部を見せる。深部に、今夜は近づきたくない。彼はカーテンをいつもより多く開けた。街灯のオレンジが部屋に入る。光は薄い。薄い光は、眠りの背中を押す。馬鹿だ。馬鹿だが、儀式の手順に逆らえない。
ベッドに入り、布団を抱きしめる。布団は冷たく、すぐに温かくなる。その変化が、恋に似ている。似ていると、認めたくない。彼は涙を滲ませながら目を閉じた。「会いたい」。口の中で言葉が転がり、歯に触れ、飲み込まれる。会いたいは、愛ではなく、依存に近い。依存は柔らかく、気持ちがいい。気持ちの良さは、毒だ。毒は、少量なら効く。効きすぎると、壊れる。今の彼は、壊れ方を選べない。
※
眠りはすぐに来た。夜の端が折れて、別の風景が抜け出してくる。緋真は滑走路の端に立っていた。地面が広く、空が低い。朝顔の花のように音が開き、ひとつの飛行機のエンジンが回り始める。静が歩いてくる。鉢巻を額に巻き、顎の線が硬い。目は前を見ている。気配の中に、矢野の影が混ざる。混ざり方は淡く、しかし確実だ。緋真は叫びたくなる。叫ぶ言葉は、いくつかある。「やめて」「待って」「戻ってこい」。どれも礼に合わない。礼に合わない言葉は、静に届かない。届かなくていい。届かないほうが、今夜は正しい。
静は、機体の側に立って、金具の位置を目で確かめ、左手で機体の腹を軽く叩いた。叩く音が、道場で竹刀の節を確かめる音と同じに聞こえる。「行ってこい」でもなく、「戻ってこい」でもない。機械に向けた礼。礼は、対象を選ばない。彼は振り返らない。誰にも手を振らない。薄い唇が閉じたまま、彼は一度だけ息を吐いた。吐いた息が白くない。季節は夏だ。夏の息は、見えない。見えないものを、祈りの目で追うのは危険だ。緋真は目を伏せた。伏せた目の裏で、文字が走る。《だめだ》。文字は筆圧が強く、すぐに紙を破る種類の言葉だ。
「沖田」
誰かが呼んだ。名を呼ぶことは、確定を呼ぶ。呼ばれた名は、永遠に返事の形で記憶される。静は返事をしなかった。しないのではなく、できないのだと緋真は理解した。彼はもう、名の外側にいる。名に所有されない場所に立っている。そこでは礼だけが通貨だ。静は礼を払い、機体に乗る。金属の匂い。油の匂い。汗の匂い。すべてが礼の調味料になる。彼は肩の力を抜き、ベルトを締め、膝を固定し、指を開いて閉じた。閉じた指に、矢野の踏み込みが宿る。宿った音が、緋真の胸に来る。来て、痛みを置く。置かれた痛みは、明日まで残る。
目が覚めた。息が荒い。胸が焼ける。喉がひりつく。布団が重い。窓の外で、トラックが通る。現実の音。現実が彼の脇に立っている。緋真は手を伸ばし、ガラス瓶のひとつを掴んだ。空の瓶。ラベルを剥がし、新しい紙に書く。〈睡眠という逃亡〉。瓶は空のまま、ラベルだけ重くなる。重いラベルは、彼の手首を引く。引かれて、彼は机に突っ伏した。突っ伏したまま、泣いた。泣くことが今夜の礼なら、彼は礼を失わない。
※
眠らない努力は続かなかった。翌日、昼過ぎ、彼は教室で目を開けたまま眠った。先生の声が遠くで鳴り、チョークの粉が光り、机の木目がぼやける。ノートに落ちたペン先が、ゆっくりと横へ滑って、〈うつぶせ〉というひらがなを作る。ケンタが横で「やべ」と笑い、紙に小さくスマイルの絵を描いて緋真の前に滑らせた。緋真はそれを見て、救われた。救いは軽い。軽さがなければ、人は生きられない。軽さに寄りかかりすぎると、重さが必要な場所で倒れる。倒れる前に、眠る。
帰宅した夜、彼は祖母に短いメッセージを送った。《眠りが怖い》。送ったあと、後悔した。祖母は返した。《眠りは、昔から怖いものだったよ。だからこそ、眠りの前には礼をする。灯りを落として、静かにする。名前を呼ばない》。呼ばない、という教えが、彼の肩の上にやんわり置かれる。置かれた手の重みが、涙をやさしく押し戻す。戻された涙は、別の夜に流れるだろう。流れる場所を選べないのが、涙の礼儀だ。
緋真は机の上のペンを取り、インクの残量を確かめ、ノートの新しいページを開いて、一行目に書いた。《これは恋の話ではない。けれど、恋の仕方を学ぶ者の話だ》。打ち込むのではなく、筆圧で刻む。刻まれた文字は、明日の朝もそこにある。そこにあることだけが、彼を現実に引き止める。
ベッドに入る。布団を抱きしめる。涙は出ない。出ない夜もある。出ない夜は、眠りがすぐ来る。眠りは毒であり、薬であり、静に会う唯一の道だ。彼は目を閉じる前に、小さく笑った。笑いは声だ。声のある笑いは、祈りの前置きになる。「会いたい」と言いかけて、やめた。言葉は、今夜は使わない。言葉の代わりに、呼吸で礼をする。吸って、吐いて、吸って、吐く。眠りが彼の首筋にひそやかに手を置く。置かれた手の温度は、優しい。優しさは恐ろしい。それでも彼は、その手を拒まない。拒めない。
――会いたい。
言葉にならない形で、胸の内側でだけ、願いが音になりかける。音にならないまま、彼は落ちていく。下へ。深いところへ。深いところは、危険だ。危険を知る者だけが行ける、と誰かの声が言う。誰かは、矢野か、祖母か、彼自身か。判別はつかない。判別不能の混合物の中を、緋真は眠りのかたちで進んだ。
※
その夜の夢は、戦地ではなかった。道場だった。畳の目が均等で、面のひもが壁の釘に整然とかかっている。静が正座している。前に竹の守り。彼は誰の前でもないのに、礼をした。礼の角度が完璧で、緋真は胸を押さえた。完璧な所作は、美しさではなく、死の隣りにいるときの人間が身にまとう鎧だ。矢野がいない。いないことが、空気の中に書いてある。静はそれを読み、読み終えて、面を取った。額の髪が汗で額に貼り付く。彼は微笑んだ。緋真のほうではない。道場の梁の節に、微笑む。梁は返事をしない。返事のない微笑みは、世界でいちばん静かだ。
緋真はそこで目を覚ました。空は白み始めている。鳥の声。遠くのトラック。いつかと同じ朝。彼は起き上がり、机の上の瓶の列を見た。ラベルをひとつ、指でなぞる。〈睡眠という逃亡〉。逃亡であり、帰宅であり、恋であり、依存であり、礼であり、暴力だ。暴力を抱いて眠る。抱いて、朝に置く。それを続ける。続けるために、彼は今日も眠る。
罪悪感は、瓶の中に入らない。入らないものを、彼は紙に移す。紙に移せないものは、身体が預かる。預かり方を誤ると、身体は壊れる。壊れないために、彼は祖母の教えを胸で繰り返す。〈名を呼ぶな〉。名を呼ばない祈りを、今夜もひとつ用意する。用意しながら、彼はうっすら笑った。笑いは声だ。声のある笑いは、いつだって、眠りの入口に立っている。
――会いたい。
――それでも、呼ばない。
緋真はその矛盾を抱えたまま、また一日を始めた。始めながら、終わりの形を知らないことを受け入れる。受け入れることが、今日の彼にできる最も丁寧な愛だった。愛は憧憬から責任へ、そして依存へ、さらにその先へ。先の名前はまだない。ないことが許される時間は短い。短い時間のうちに、彼はできるだけ多くの礼を選ぶ。選べなかった礼のぶんだけ、夜が濃くなる。濃くなった夜へ、彼はまた落ちる。落ちて、会う。会って、書く。書いて、逃げる。逃げて、戻る。戻って、眠る。眠りという逃亡は、今日も彼の唯一の帰宅だった。
最初の崩れは、小さな見落としのふりをしてやって来た。数学の小テストの余白に、緋真は無意識のうちに夢の断片を書いてしまっていた。〈土嚢 影 口を手で覆う〉。提出された答案には因数分解よりも戦地の記号が多く、その紙を見た担任は眉を寄せて「神田、おまえ」と言いかけて、やめた。やめたあとに、呼び出しの紙をくれた。放課後、進路指導室。安定した蛍光灯。ため息を飲み込んだ椅子の軋み。
「最近どうした」
問いはあるべき最小の形で投げられた。緋真は返事の最小を探すみたいに、口の中でいくつかの答えを転がした。眠い。書いている。夢を見る。だれかの夢だ。だれかの真ん中で泣く。どれも、進路指導室では禁句だ。彼はようやく、凡庸な高校生の正しい台詞を出した。
「眠れてなくて」
「夜更かし?」
「ちょっと」
担任はペン先で机を軽く叩いた。叩く音で怒らない練習をしているみたいに。「小説のほう、読んでるぞ。いい。いいけど、学校の生活も大事だ。神田は器用じゃない。だから順番を間違えると全部崩れる」
崩れる、という語は、緋真の体内で別の場所を震わせた。崩れるのは現実だけじゃない。夢の中の陣形も崩れる。崩れたあとに残る砂埃の匂いが鼻の奥で広がる。緋真は頷き、そして何も約束しなかった。約束をすると、夢が薄くなる。薄くなる夢は、現実の約束を守らせたがる。どちらかを選べと言われれば、今の彼は迷わない。迷わないことのほうを、恥じるべきだと知りながら。
家に帰ると、母がキッチンから顔を出した。「夜更かししてるんでしょ、顔色が悪いよ」。言いながら、卵焼きを巻く手は止まらない。生活の手つきは、心配を中和する。緋真は冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに注ぎ、一口で飲み干した。「眠いだけ」と言う。妹がソファから「また小説?」と笑い、父は新聞の隙間からちらりと見た。家族はだいたい正しい。正しいが、緋真の真ん中には触れない。触れないように、彼自身が置き方を変えている。
彼は自室のドアを閉め、机の角に掌を押しつける。そこに、彼の今日の端がある。手首の骨に冷たさが伝わるまで押してから、ノートを開く。紙は朝の白さをまだ持っている。彼は一本、短い線を引いた。《規則:装飾より記録》。次に、いつものように机の隅の小さなガラス瓶の列を整える。ラベルが増え、棚が少し窮屈になっている。空のままの瓶に貼られた名前――〈慟哭の空〉〈すみませんの温度〉〈矢野の踏み込み(音なし)〉。愚かだ。わかっている。愚かさの棚は、今日も彼を支えた。
眠りは、欠乏ではなく、方法になっていた。眠り方を整え、眠る前の儀式を自分で決める。カーテンは二十センチだけ開ける。ベッドの足元に竹の守り(自作の拙いもの)を置く。スマホは機内モード、アラームは三つ。枕元にノート、ペンは0.38。水。ティッシュ。瓶。すべての位置が、彼の眠りの骨格を作っていた。骨格が決まると、夢は来やすい。来やすいものに人生が傾く。
夢の中でしか静に会えない。だから眠る。小説は「会うための儀式」に変わった。書けば、会える。書かない夜は、夢の入口が遠い。どれだけ倫理のノートに《預かり人》と書いても、現実の手は「会うため」に動く。自分の書く言葉が誘うのではないか。そんな錯覚に、彼はあえて身を任せる。錯覚は、儀式の信仰に似ている。信じなければ効かない。信じすぎると壊れる。壊れきる前に眠る。その程度の算段は、もう身に付いた。
※
その週、緋真の時間割は、睡眠を中心に組み替えられた。一限目の現代文は半分夢の続き。二限目の化学で前夜の音が唐突に胸に戻ってきて、先生の「滴定」という語が銃声と同じ高さで耳に刺さる。昼休みは机に突っ伏し、三十分だけ深く潜る。潜る前にノートに書くのは合図だ。《矢野 影だけ》。目を閉じて三分で、道場の埃の匂いが来る。試験前の勉強時間は、そのまま寝落ちの準備に消えた。
定期テストは見事に惨敗だった。答案用紙の赤い丸が、夢の中の赤い縁取りを連想させる。〈赤〉というだけで、胸が硬くなる。点数を受け取って席に戻り、緋真は答案の端に小さく書いた。《礼は在る》。自分への慰めのためにではない。夢の中で静がいつも守っていた何かが、現実にも影を落とす形にしたかった。
放課後、担任は再び呼んだ。「神田」と名前の最後の音をやわらかく下げる。緋真は椅子に座る前に謝る準備をする。「すみません」。担任は笑わず、怒りもせず、ただ指で机の端をとんとんと叩く。「君の文章は、いい。けれど、夜は短い。若いからといって、延ばすと破れる」。破れる、という語に彼は背筋を伸ばす。破れた夢の端で指を切る痛みを、昨夜知ったばかりだ。
「最近どうした」
「眠ってます」
「眠るのはいいことだ」
「眠りすぎてます」
担任は少し笑って、それから真面目な顔に戻した。「保健室でも相談できるぞ」。緋真は頷いた。相談する相手は、彼の夜には別にいる。相談という語が示す水平の距離が、今の彼にはうまく掴めない。
家では、母の心配が粒になって空気に混ざる。「朝ごはん、食べた?」「顔色」「目の下」。緋真はキッチンの隅に立ち、卵焼きの匂いを嗅ぎながら「眠いだけ」を繰り返す。父は新聞の中から顔を出し、「俺も若い頃、寝ないでテスト受けて……」と笑い話を始め、途中で口を閉じる。笑いが彼の顔から落ちたのを、緋真は見た。落ちた笑いは拾えない。拾えないものを、人は地面に任せる。
夜。儀式。カーテン、枕元、ノート。彼はペン先で、昼間に思いついた短い定義を一行だけ書く。《眠り=逃亡の形をした帰宅》。書いた瞬間、それが当たり前すぎて笑ってしまう。笑いはすぐ乾き、乾いたあとの紙は待つ。彼は待たせるのが悪いと思い、目を閉じた。
※
夢の場面は、いつもと同じではなかった。広い空。滑走路。草が低く刈られ、遠くの小山が薄い輪郭で並ぶ。集められた兵士たち。静がその列の中にいる。顔は白く、目はまっすぐ、背筋は道場のまま。夏の汗が首筋に走り、えり足に髪が貼りつく。風が少しある。いい風だ、と誰かが言う季節の風。しかし、その風に今日の命令は似合わない。
将校が前に出る。淡々と告げる声は、戦地の常用の音域を持っている。掛け声ではない。説得でもない。事務。整然とした死の読み上げ。
「特別攻撃隊 次回出撃名簿」
列の空気が一瞬だけ固い膜になって、すぐに砕ける。砕けた破片が兵士たちの足元に散らばり、それぞれがその破片を踏む。名前が呼ばれる。静の名字も、あまりにも自然に挟まれて呼ばれた。波の端に立っているだけの人間の足首に、水が来ては帰るみたいに、呼ばれ、戻り、名が彼の胸の内側に貼り付く。
兵士たちは拍手をした。善意の拍手。斜め上に向けられた勇気への拍手。拍手は、現実に速度を与える。速度のついた現実は、人間の判断を追い越す。静は拍手の中で、正しく礼をした。ゆっくりと腰を折り、頭を下げる。その礼は、道場の礼と同じ所作だが、意味が違う。意味が違うことを、静は身体のすべてで理解している。理解した身体は、それでも礼をやめない。やめないことが、彼の礼儀の最後の砦だ。
「沖田」
将校の前に出て、静は短く「はい」と答えた。その声は震えていた。震えを隠す技術は人一倍持っているのに、今夜だけは隠さないのか、隠せないのか、緋真にはわからない。静の「はい」は、彼自身の命に向けられているのではない。多分、矢野の背に向けられている。矢野の「大丈夫」の形をした唇に向けられている。緋真の胸の奥に、その震えは直に落ちた。落ちた振動で、夢全体が一瞬だけ暗転し、次の瞬間には戻ってくる。戻ってきた場面で、静は鉢巻を渡され、手の中の布を丁寧に折り、指先で皺を伸ばしていた。礼の形だけが、彼の手に残った。
列が解散し、兵たちがそれぞれの影へ散っていく。静は一人で、空を見上げた。薄い月。道場の梁の節と同じ高さに見える月。彼は息を吸って、吐き、吸って、吐いた。呼吸の手順は、恐怖の手順に似る。手の中の鉢巻に、彼は額を押し当てた。祈りの形は取らない。祈りは持つ。名を呼ぶと、確定が来る。呼ばないまま、目を閉じる。唇がわずかに動く。緋真には聞こえない。聞こえないのに、意味だけが胸に届く。「行く」。一語。命令形でも願望でもない。報告。報告に礼を添えるために、彼はもう一度だけ、ゆっくり礼をした。
緋真の心臓は、その瞬間、握りつぶされた。胸骨の裏側に手が入り、心臓を直接握り、力いっぱい絞ったみたいに。息が吸えない。夢の中で声が出ない。現実で喉が悲鳴の形に硬直する。うつぶせに倒れて、布団に顔を押し付ける。布団が濡れる。涙は命令に従わない。命令は「止まれ」だが、涙は走る。走り切ってから、やっと足を止める。止めたあとに、もっと大きな波が来る。
――これ以上眠れば、静が死んでしまう。
理解は、物語のクライマックスではなく、生活の隅で静かに灯る電球に似ている。灯りは、消せる。消すか。消せるのか。緋真は布団から顔を上げ、天井の角を見た。角はいつもの角で、何の答えも持っていない。彼は枕元のノートに震える手で殴り書きする。《特攻辞令。拍手。はい。震え。鉢巻の皺。礼。》筆圧が紙を破る寸前の濃さになり、途中でペンが滑って革の手帳の表紙に線が走る。その傷を、彼は許した。許しながら、今夜の自分を嫌った。嫌い方にも礼を持たせたいのに、持たせる余裕がない。
彼は気づく。自分が抱いていたのは憧れではなく、愛だ。憧れは距離を許す。愛は重荷を背負う。重荷を背負う者は、相手の絶望をも自分の肩にかけたがる。かけることは、たいてい無礼だ。無礼を自覚しつつ、緋真はノートの端に小さく書いた。《責任》。書いても、書かなくても、夜は同じ速さで進む。
※
翌日、緋真は眠気で世界の線が二重に見えた。黒板の字が少し分身し、先生の声が音楽みたいに遠くなる。机に伏せると、頬に冷たさが移り、冷たさは一秒だけ現実を取り戻す。隣の席のケンタが、緋真の肘をつつく。「おまえさ、昨日、徹夜?」緋真は首を振る。「寝た」「寝すぎた」。ケンタは笑う。「どっち」。緋真は笑い返せなかった。笑うと、胸の奥の絞られた心臓が思い出される。笑いは痛みを呼ぶ。痛みは覚醒を呼ぶ。覚醒は睡眠を呼ぶ。眠りは毒で、薬で、恋人に会う唯一の道だ。恋人、という語を書いてしまった自分を、緋真は手の甲の爪で否定する。爪の跡が赤く残る。赤は、夢の赤と違う。違いだけが救いだ。
昼休み、彼は保健室のベッドにもぐり込んだ。カーテンが白い。看護教諭が静かな声で「三十分ね」と言う。三十分で足りるはずがない。足りない三十分で、夢の端だけでも掴む。掴んだ端は、夕方には指からするりと抜ける。その予感を抱えながら、目を閉じる。音が遠ざかる。白い布の匂いが遠ざかる。別の布の匂いが近づく。鉢巻。汗。土。緋真はそこで、意識を強引に引き戻した。引き戻す痛みが頭蓋の内側で弾ける。保健室の白い天井。その清潔な白は、戦地の白とは違う。違いを確認できることが、まだ彼の防波堤だった。
放課後、担任はまた言った。「神田、最近どうした」。緋真は「眠りに依存してます」と言いかけて、飲み込んだ。代わりに「小説を書いてます」と正直な嘘を言った。担任は笑わずに頷く。「書くのはいい。けれど、『書くために生きる』と『生きるために書く』は、似ていて違う。君は今、前者だ。少し、後者に戻れ」。戻れ。命令形。緋真は命令に礼を返す。「はい」。静の声のまねをしないように、声帯を一音低く使う。うまくいかない。
帰り道、コンビニの蛍光灯に吸い寄せられ、エナジードリンクの棚の前で立ち尽くした。眠らずにいられる方法。眠らないことは、静を延命させることになるのか。論理は破綻している。破綻しているとわかっている。わかっていても、彼の手は缶を一本取り、やめた。棚に戻して、代わりに塩むすびを二つ買う。塩は現実を舌に引き戻す。歩きながら食べる。米粒が指に付く。指を舐めない。舐めると、祈りの配分がおかしくなる気がする。
夜。眠らない作戦。机に本を積み上げ、明日の提出物を片付け、洗濯物を畳み、風呂を長くし、湯船で数を数え、湯から上がって髪を念入りに乾かす。髪の先が首に触れるたび、夢の中の汗が混ざる。眠らないのは無理だ。緋真は知っている。だから、眠りの到来を遅らせる。遅れた眠りは、たいてい深い。深い眠りは、夢の深部を見せる。深部に、今夜は近づきたくない。彼はカーテンをいつもより多く開けた。街灯のオレンジが部屋に入る。光は薄い。薄い光は、眠りの背中を押す。馬鹿だ。馬鹿だが、儀式の手順に逆らえない。
ベッドに入り、布団を抱きしめる。布団は冷たく、すぐに温かくなる。その変化が、恋に似ている。似ていると、認めたくない。彼は涙を滲ませながら目を閉じた。「会いたい」。口の中で言葉が転がり、歯に触れ、飲み込まれる。会いたいは、愛ではなく、依存に近い。依存は柔らかく、気持ちがいい。気持ちの良さは、毒だ。毒は、少量なら効く。効きすぎると、壊れる。今の彼は、壊れ方を選べない。
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眠りはすぐに来た。夜の端が折れて、別の風景が抜け出してくる。緋真は滑走路の端に立っていた。地面が広く、空が低い。朝顔の花のように音が開き、ひとつの飛行機のエンジンが回り始める。静が歩いてくる。鉢巻を額に巻き、顎の線が硬い。目は前を見ている。気配の中に、矢野の影が混ざる。混ざり方は淡く、しかし確実だ。緋真は叫びたくなる。叫ぶ言葉は、いくつかある。「やめて」「待って」「戻ってこい」。どれも礼に合わない。礼に合わない言葉は、静に届かない。届かなくていい。届かないほうが、今夜は正しい。
静は、機体の側に立って、金具の位置を目で確かめ、左手で機体の腹を軽く叩いた。叩く音が、道場で竹刀の節を確かめる音と同じに聞こえる。「行ってこい」でもなく、「戻ってこい」でもない。機械に向けた礼。礼は、対象を選ばない。彼は振り返らない。誰にも手を振らない。薄い唇が閉じたまま、彼は一度だけ息を吐いた。吐いた息が白くない。季節は夏だ。夏の息は、見えない。見えないものを、祈りの目で追うのは危険だ。緋真は目を伏せた。伏せた目の裏で、文字が走る。《だめだ》。文字は筆圧が強く、すぐに紙を破る種類の言葉だ。
「沖田」
誰かが呼んだ。名を呼ぶことは、確定を呼ぶ。呼ばれた名は、永遠に返事の形で記憶される。静は返事をしなかった。しないのではなく、できないのだと緋真は理解した。彼はもう、名の外側にいる。名に所有されない場所に立っている。そこでは礼だけが通貨だ。静は礼を払い、機体に乗る。金属の匂い。油の匂い。汗の匂い。すべてが礼の調味料になる。彼は肩の力を抜き、ベルトを締め、膝を固定し、指を開いて閉じた。閉じた指に、矢野の踏み込みが宿る。宿った音が、緋真の胸に来る。来て、痛みを置く。置かれた痛みは、明日まで残る。
目が覚めた。息が荒い。胸が焼ける。喉がひりつく。布団が重い。窓の外で、トラックが通る。現実の音。現実が彼の脇に立っている。緋真は手を伸ばし、ガラス瓶のひとつを掴んだ。空の瓶。ラベルを剥がし、新しい紙に書く。〈睡眠という逃亡〉。瓶は空のまま、ラベルだけ重くなる。重いラベルは、彼の手首を引く。引かれて、彼は机に突っ伏した。突っ伏したまま、泣いた。泣くことが今夜の礼なら、彼は礼を失わない。
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眠らない努力は続かなかった。翌日、昼過ぎ、彼は教室で目を開けたまま眠った。先生の声が遠くで鳴り、チョークの粉が光り、机の木目がぼやける。ノートに落ちたペン先が、ゆっくりと横へ滑って、〈うつぶせ〉というひらがなを作る。ケンタが横で「やべ」と笑い、紙に小さくスマイルの絵を描いて緋真の前に滑らせた。緋真はそれを見て、救われた。救いは軽い。軽さがなければ、人は生きられない。軽さに寄りかかりすぎると、重さが必要な場所で倒れる。倒れる前に、眠る。
帰宅した夜、彼は祖母に短いメッセージを送った。《眠りが怖い》。送ったあと、後悔した。祖母は返した。《眠りは、昔から怖いものだったよ。だからこそ、眠りの前には礼をする。灯りを落として、静かにする。名前を呼ばない》。呼ばない、という教えが、彼の肩の上にやんわり置かれる。置かれた手の重みが、涙をやさしく押し戻す。戻された涙は、別の夜に流れるだろう。流れる場所を選べないのが、涙の礼儀だ。
緋真は机の上のペンを取り、インクの残量を確かめ、ノートの新しいページを開いて、一行目に書いた。《これは恋の話ではない。けれど、恋の仕方を学ぶ者の話だ》。打ち込むのではなく、筆圧で刻む。刻まれた文字は、明日の朝もそこにある。そこにあることだけが、彼を現実に引き止める。
ベッドに入る。布団を抱きしめる。涙は出ない。出ない夜もある。出ない夜は、眠りがすぐ来る。眠りは毒であり、薬であり、静に会う唯一の道だ。彼は目を閉じる前に、小さく笑った。笑いは声だ。声のある笑いは、祈りの前置きになる。「会いたい」と言いかけて、やめた。言葉は、今夜は使わない。言葉の代わりに、呼吸で礼をする。吸って、吐いて、吸って、吐く。眠りが彼の首筋にひそやかに手を置く。置かれた手の温度は、優しい。優しさは恐ろしい。それでも彼は、その手を拒まない。拒めない。
――会いたい。
言葉にならない形で、胸の内側でだけ、願いが音になりかける。音にならないまま、彼は落ちていく。下へ。深いところへ。深いところは、危険だ。危険を知る者だけが行ける、と誰かの声が言う。誰かは、矢野か、祖母か、彼自身か。判別はつかない。判別不能の混合物の中を、緋真は眠りのかたちで進んだ。
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その夜の夢は、戦地ではなかった。道場だった。畳の目が均等で、面のひもが壁の釘に整然とかかっている。静が正座している。前に竹の守り。彼は誰の前でもないのに、礼をした。礼の角度が完璧で、緋真は胸を押さえた。完璧な所作は、美しさではなく、死の隣りにいるときの人間が身にまとう鎧だ。矢野がいない。いないことが、空気の中に書いてある。静はそれを読み、読み終えて、面を取った。額の髪が汗で額に貼り付く。彼は微笑んだ。緋真のほうではない。道場の梁の節に、微笑む。梁は返事をしない。返事のない微笑みは、世界でいちばん静かだ。
緋真はそこで目を覚ました。空は白み始めている。鳥の声。遠くのトラック。いつかと同じ朝。彼は起き上がり、机の上の瓶の列を見た。ラベルをひとつ、指でなぞる。〈睡眠という逃亡〉。逃亡であり、帰宅であり、恋であり、依存であり、礼であり、暴力だ。暴力を抱いて眠る。抱いて、朝に置く。それを続ける。続けるために、彼は今日も眠る。
罪悪感は、瓶の中に入らない。入らないものを、彼は紙に移す。紙に移せないものは、身体が預かる。預かり方を誤ると、身体は壊れる。壊れないために、彼は祖母の教えを胸で繰り返す。〈名を呼ぶな〉。名を呼ばない祈りを、今夜もひとつ用意する。用意しながら、彼はうっすら笑った。笑いは声だ。声のある笑いは、いつだって、眠りの入口に立っている。
――会いたい。
――それでも、呼ばない。
緋真はその矛盾を抱えたまま、また一日を始めた。始めながら、終わりの形を知らないことを受け入れる。受け入れることが、今日の彼にできる最も丁寧な愛だった。愛は憧憬から責任へ、そして依存へ、さらにその先へ。先の名前はまだない。ないことが許される時間は短い。短い時間のうちに、彼はできるだけ多くの礼を選ぶ。選べなかった礼のぶんだけ、夜が濃くなる。濃くなった夜へ、彼はまた落ちる。落ちて、会う。会って、書く。書いて、逃げる。逃げて、戻る。戻って、眠る。眠りという逃亡は、今日も彼の唯一の帰宅だった。



