あっ!

 鼓膜に大音量が飛び込んできた。瞬間、ヘッドフォンを投げ捨てた。

 なんてことを……、

 試聴用プレーヤーの音量が最大になっていた。

 外資系メガチェーンの調査のために頻繁に店舗を訪問していた。品揃えや価格などを調べていたのだ。その中で、あるものに注目した。CDの試聴コーナーである。当時、日本ではCDを試聴できる店はなかった。だから、客はラジオやテレビで聞いた音楽を買い求めに来ることが多く、自分が知らないミュージシャンのCDを買うことは少なかった。例外的に、音楽マニアが〈ジャケ買い〉と称してアルバムデザインや帯に書かれた説明書きを読んで直感で買うということが行われていたが、それはあくまでも例外だった。
 しかし、この外資系メガチェーンは違っていた。お勧めのCDを棚に並べて、それを試聴できるようにしていたのだ。これなら好みの音楽かどうか確認した上で購入することができる。当たり外れの心配をせずに済むのだ。「当たり外れがあるから面白いんだよ」という一部のマニアもいるが、それは一般の客には通用しない。2千円をドブに捨てる酔狂な人は皆無に等しかった。
 このシステムは画期的だと思った。だから色々なジャンルのお勧めCDを試聴した。自社・他社問わず色々なCDを聴いて回った。

 最後に立ち寄ったのはハードロックのコーナーだった。話題のCDを見つけたので、ヘッドフォンを装着して再生ボタンを押し、イントロが流れてくるのを待った。しかし、聞こえてきたのは音楽ではなかった。悪魔だった。鼓膜が破れるかと思うくらいの大音量が両耳を襲ったのだ。それは痛みを伴うほどの大音量だった。とっさにヘッドフォンを外したが、鼓膜の状態が心配で不安が押し寄せてきた。

 大丈夫かな……、

 耳に神経を集中してしばらく様子を見た。
 しかし、特に異常は感じられなかった。ほっとしたが、怒りが込み上げてきた。〈なんて酷いことをするんだ!〉とムカムカしてきた。それですぐに愉快犯を捜したが、辺りを見回しても、それらしき奴を見つけることはできなかった。

 くそっ! 

 はらわたが煮えくり返ったが、それをぶつける相手がいなかった。仕方がないのでヘッドフォンを元の場所に戻し、音量を最小にしてからその場を離れた。

        *
          
 その夜から両耳に異変が起こった。不自然な音が聞こえるようになったのだ。
 シャー、
 キーン、
 その時々によって聞こえる音は違うが、なんとも表現できない気になる音が聞こえ始めたのだ。それは何日経っても治まらなかったし、寝る時などの静かな環境で特に大きく聞こえた。

 1週間経っても治らなかったので耳鼻科を受診した。

「耳鳴りですね」

 医者は無表情でカルテに病名を記載しながら告げた。

「大音量に(さら)された時などに起こることがあります」

 そして、衝撃的な言葉を口にした。

「完全に治すことは難しいので、一生の付き合いになるとお考え下さい」

 えっ、一生? この、シャー、キーン、が一生続くの?

「薬はないんですか? 良く効く薬はないんですか?」

 藁にもすがる思いで訊いたが、医者は即座に首を横に振った。

「残念ながらありません」

 それを聞いて愕然とした。ショックで一瞬フラッとした。しかし、そんな事に気づくはずもなく、医者は淡々と薬の説明を始めた。循環改善薬とビタミン薬を処方すると言う。但し、あくまでも対症療法だと念を押された。

「これでしばらく様子を見ましょう。2週間後にまた来てください」

 医者はこっちを見ないで次のカルテを手に取った。

        *

 処方された日から祈るような気持ちで薬を飲み、効果が出るのを待った。しかし、2週間経っても耳鳴りは治まらなかった。大きく聞こえる時と、ほとんど気にならない時と、色々な聞こえ方があったが、耳鳴りが消えることはなかった。

「精神面の影響も考えられますので、できるだけ気にしないようにしてください」

 医者は前回同様、循環改善薬とビタミン薬を処方した。
 しかし、前回同様効果は感じられなかった。そのせいで、日が経つにつれて落ち込みが激しくなった。音楽業界に身を置いている自分が耳鳴りに悩まされるなんて、どん底に落ちそうだった。
 それだけでなく、不安で眠りが浅くなった。深夜ふと目が覚めると、物音一つしない中で耳鳴りだけがひと際大きく聞こえるのだ。反射的に両耳を手で押さえてしまうと、更に耳鳴りが大きくなった。何度も寝返りを打って気分を紛らわせようとしたが、耳鳴りから逃れることはできなかった。うつ伏せになって枕を抱えた。

 う~! 

 喉の奥から込み上がる悔しさが枕カバーにしたたり落ちた。

 あの野郎! 

 怒りに震えた。誰かわからない見たこともない愉快犯を殺したいほど憎んだ。そいつがわざと最大ボリュームにしたから、こんな酷いことになったのだ。

 絶対許さない! 
 地獄に落ちろ! 

 目が覚める度に〈のっぺらぼう(・・・・・・)な愉快犯〉を殴り続けたが、そんなことをしても耳鳴りが治るわけではなかった。