歓迎会以降も研究室の仲間は温かく接してくれた。週末や学会発表のあとに誰かがいつも声をかけて食事に誘ってくれた。だから、寂しい思いをすることはなかった。
よく行く店にピアノバーがあった。ウォーターフロント地区にある『フィール・ソー・グッド』という店だった。文字通り心地よい店で、夜の8時、10時、そして、12時からの3回、各40分ほどピアニストによる演奏があり、ジャズやポップスのスタンダード曲を楽しむことができた。
ある日、いつものように研究室の仲間と食事と酒を楽しんでいると、時計の針が10時を指した。
そろそろ始まるな、
今夜はどんな曲を聴かせてくれるのだろう、と期待して待ったが、10分経ってもピアニストは現れなかった。急な体調不良で来られなくなったのだという。
がっかりした。演奏を聴くためにこの店に来ているのだ。それがないとなると、居座り続ける理由がなくなる。それに次の演奏まで待つわけにもいかない。明日も朝早くから実験の予定があるのだ。今夜は諦めて帰るしかなかった。しかし、腰を浮かしかけた時、同僚に押しとどめられた。
「趣味がピアノ演奏って言っていたよね。弾いてみたら?」
「えっ、いや……」
突然のことに言い淀んでいると、どうしてか同僚が店の人に声をかけた。
「彼が弾いてもいいですか?」
すると店の人は一瞬ぽかんとしたようになったが、すぐに最上に向き直って、「お客様が、ですか?」と指の方に視線を向けた。ピアノが弾ける指かどうかを確認するような感じで。
「いや、というか……」
しどろもどろになっていると、同僚は勝手に話を進めた。
「そうです。彼はプロ級なんです」
演奏を聞いたこともないのに最上の腕を保証した。
「いや、ちょっと……」
否定しようとしたが、彼の言うことを真に受けたのか、店の人が頷いた。
「わかりました。少々お待ちください。オーナーに確認してまいります」
その人は店の奥に向かって歩き出した。
少しして、恰幅の良い男性を連れたスタッフが戻ってきた。オーナーだという。
「では、1曲聴かせていただけますか?」
落ち着いた声で微笑みかけると、スタッフが頷き、同僚も、さあ早く、というような目で促した。
こうなると断ることはできなくなった。修士課程の2年間ほとんどピアノに触っていなかったので心配が先に立ったが、ここにきてそれを口に出すことはできなかった。オーナーに促されるままグランドピアノの前に立ち、ピアノチェアに座った。
鍵盤の上に手を置くと、緊張のせいか、少し指が震えていた。それでも、YAMAHAのロゴマークを目にした途端、気持ちが落ち着いた。実家にあるピアノと同じものだったからだ。
指の震えが治まると、弾く曲はすぐに決まった。目を瞑っていても弾ける曲、ショパンの『夜想曲第二番変ホ長調』だった。甘美で夢創的なメロディーが美しいノクターンはMOGAMIZとして学園祭でデビューした時に弾いた曲で、指が忘れているはずはなかった。思った以上に滑らかに演奏することができた。
演奏が終わった途端、同僚たちだけでなく店内のあちこちから大きな拍手が沸き起こった。それは照れるほどの反応で、一瞬、どうしていいかわからなくなった。それでも、なんとかボウ・アンド・スクレープで応えることができた。
席に戻ると、オーナーから突然申し出を受けた。週末にピアノを弾いてもらえないかというのだ。そして、良かったら毎週頼みたいという。
これには困った。ピアノマンになるつもりは毛頭なかった。だから断ろうと思ったが、ピアノを弾きたがっている指が勝手に動いてオーナーの手を握ってしまった。するとオーナーは満面に笑みを浮かべ、背中に手を回してきた。まさか彼にハグされるとは思わなかったので腰が引けそうになったが、しかし、太い腕を背中に感じていると、これは何か運命のような気がしてきて、手が自然とオーナーの背中に回った。それに、これから長く続く地道な研究生活の中に変化をもたらすことは悪いことではなかった。オーナーのハグから解放された最上は、縁を繋いでくれた自らの指に感謝の言葉をかけた。
それ以来、週末の夜10時から演奏をするようになった。主なレパートリーはショパンをジャズ風にアレンジしたもので、客の反応も良かったが、ある夜、意外なリクエストを受けた。スタッフが持ってきたメモには〈ビートルズの曲〉と書かれていた。もちろん彼らのことは知っていたし、カラオケで歌ったこともあったが、一度も弾いたことがなかった。その夜は丁重にお断りした。
次の日、レコードショップへ行って、彼らのバラードナンバーを集めたベストアルバムを買った。そしてその中からジャズ風にアレンジできそうな曲を選んで、楽譜を購入し、自室のエレキピアノで練習を繰り返した。
週末になった。先週リクエストをしてくれた客が今夜も来ていた。自分より一回り上くらいだろうか、ビートルズと共に青春を過ごしたであろう年代の男性だった。そして、その横には奥さんらしき女性が座っていた。
店の奥からピアノに向かっている時、その男性と目が合った。軽く会釈をすると、微笑みを返された。素敵な笑顔だった。
ピアノチェアに座って鍵盤に指を置き、その男性に視線を送ってからメロディーを弾き始めた。すると、「アッ」という小さな声が聞こえた。視線を向けると、奥さんらしき女性が嬉しそうな顔でその男性に微笑んでいた。『イエスタデイ』のメロディーが客の心の中に沁み込んでいるようだった。目を瞑って聴いている人がいた。ウットリとした表情で耳を傾ける人がいた。誰もが幸せそうな顔をしていた。『ミッシェル』を弾き始めると、ワ~という歓声が場をわきまえた控え目な声で広がった。そして、『ヘイ・ジュード』から『レット・イット・ビー』へとつなげていくと、誰もが知っている曲ということもあって、あちこちの席から発せられる囁くような歌声やハミングが上品なハーモニーとなって耳に届いた。それを聞きながら幸せな気分になって『レット・イット・ビー』の最後の音を弾き終わった。そしてその余韻が残る中、あの名曲のイントロを弾き始めた。『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』



