次の週末、彼女から封筒を手渡された。封を開けると、招待状が入っていた。

「わたしの誕生パーティーなの」

 さり気なく言われたが、どう反応していいのかわからなかった。誕生祝いの招待状を受け取るのは初めてだった。

 誕生日は、3月3日だった。桃の節句、そして、ひな祭り。姓が「かわい」で、名が「美しく麗しい」、そして、生まれたのが「3月3日」

 彼女はどんな星の下に生まれてきたのだろう? 

 ちょっと腰が引けた。

        *

 3月3日は朝から快晴だった。愛しい人の誕生日に相応しい素晴らしい青色が空に広がっていた。天は二物を与えずというが、彼女は三物も四物も与えられているように感じた。それに対して自分は釣り合っているのだろうかと自問したが、意味がないので止めた。釣り合っていないのであれば釣り合うように努力するしかないのだ。そう言い聞かせて、心の中の不安を切り捨てた。そして精一杯おしゃれをしてアパートを出て、花屋に寄った。何を買えばいいのかわからなかったが、店の人に色々聞いて最適と思われるものを買い、喜んでくれるのを願って、彼女の家に向かった。

        *

「誕生日おめでとう」

 門の近くで談笑していた彼女に花束を渡した。紫色の花が可愛い蓮華草(れんげそう)だった。3月3日の誕生花。花言葉は『わたしの幸せ』

「わ~、ありがとう!」

 歓喜の声を上げた彼女は飛びつきそうになったが、周りに人がいることに気づいたようで、すんでのところでその行動を止めた。そして、何事もなかったように花に顔を埋めて香りに触れた。

 広い庭には多くの人が集まっていた。上品そうな服を着た人たちばかりだった。自分はネイビーの背広にピンクのネクタイを締めてお洒落をしてきたつもりだったが、この人たちはレベルが違っていた。生地がまったく違うのだ。光沢を放っていて、シルク生地に違いなかった。1着20万円以上はする背広だ。対して自分のは1着3万8千円。横に並ぶのが恥ずかしいくらい違いが際立っていた。

 卑屈な気持ちで庭の隅に立っていると、彼女がシャンパンを持ってきてくれた。バラ色の液体から微細な泡が立ち上っていた。グラスを近づけると、爽やかな香りが鼻をくすぐった。一口飲むと、上品な酸味が口の中に広がった。異次元のおいしさだった。

「楽しんでいってね」

 笑顔に引き込まれた。それでもずっと見つめ続けるわけにもいかないので視線を服に移すと、華やかなピンクが白い肌に映えて、どこかの王女様のように見えた。

 特注のドレスだろうか? 

 とても素敵だと思ったが、自分とのアンバランスが際立っていることに気づいて、途端に居心地が悪くなった。皇族の館に来た平民のように気持ちが縮こまった。

「どうかしたの?」

 心配そうな声だったので頭を振ると、後ろから声が聞こえた。

「どなたかな?」

 落ち着いた男性の声だった。

「あっ、パパ」

 えっ、パパ? 

 思わず振り返ると、目が合った。

 あっ! 

 驚いて一歩後ずさりした。父親も驚いた顔をしていた。しかし、それは長くは続かなかった。「君は」と言ったあと、顔を指差すようにして、「なんでここにいるんだ!」と険しい表情になった。

「お知り合い?」

「いや……」

 父親は無理矢理柔和な表情を作ろうとしたが、「どうしてこいつがここに」と言った瞬間、また険しい表情に戻った。

「わたしのお友達、須尚正さん」

 そして、こっちに向き直って、「パパの河合(かわい)音彦(おとひこ)。ラジオ局で」と言いかけた途端、あっ、という表情になった。

「仕事で会ったことがあるの?」

 顔を交互に見つめた。
 2人は同時に頷いた。

        *

「君の前任者は最低だ!」

 連行するようにして連れて行かれた書斎で鋭いナイフのような声が襲い掛かってきた。

「約束を破った上に、何も言わず辞めていった」

 こめかみに血管が浮き出ていた。

「それに君の会社も最低だ。知らぬ存ぜぬで責任逃れを繰り返した」

 怒りが頂点を超えているようだった。

 彼は民放ラジオ局の取締役編成局長で、初訪問時に名刺を天井に向かって投げ飛ばした人物だった。なんて酷いことを、とその時は思ったが、その理由が前任者にあると知って愕然とした。

 長崎くんちの世話役を務めている彼は、色々な企業に協賛を依頼しており、当然のように局に出入りする会社にも声をかけていた。その一社がエレガントミュージック社だった。前任者は調子よく協賛を引き受けたらしい。それも、同業他社の2倍の額を提示したという。しかし、その条件としてエレガントミュージック社イチ押しのミュージシャンの曲を重点的に放送するよう依頼したという。河合はその条件は飲めないと拒否したが、無下にするのも可哀そうと思い、編成局の次長に彼を紹介した。すると、上司である河合の顔を潰さないようにと気を利かせた次長は前任者がゴリ押しする曲を頻繁に取り上げたという。前任者は大喜びをして河合に何度も礼を言った。でも、協賛金を持ってくることはなかった。催促の電話をしてもはぐらかすばかりで、要領を得ない状態が続いた。

 しびれを切らした河合は前任者の自宅兼事務所を訪ねたが、もぬけの殻だった。河合はすぐにエレガントミュージック本社に電話を入れた。しかし、既に会社を辞めていて引越し先もわからないと告げられた。協賛金についても聞いていないのでわからないし、たとえそうだとしても、辞めた人間の責任は取れないと、つれない返事しか返ってこなかった。それを聞いて激怒した河合は、会社に戻るや否やエレガントミュージック社のミュージシャンの曲は今後一切放送してはならないと指示を出した。事の成り行きを説明する河合の声は怒りで震えていた。

「申し訳ございません」

 とっさに土下座した。

「僕、いや、わたしが謝って済むことではありませんが、大変なご迷惑をおかけいたしました。本当に申し訳ございません」

 額を床に擦りつけた。すると、頭の上に何か気配を感じた。河合が足で踏みつけようとしているのかもしれないと思うと、体が固まった。しかし、それ以上の動きはなかった。なんとか思い止まったようだった。

「帰ってくれ。二度とうちに来るな! 娘にまとわりつくな!」

 突き刺すような厳しい声だった。でも、それだけでは終わらなかった。帰り際に美麗に声をかけることさえも許されず、裏口から追い出されてしまった。坂道を下りて路面電車の駅に着いたが、乗る気も起らず、とぼとぼと歩き続けた。

 なんて馬鹿なことをしてくれたんだ!

 前任者への怒りがこみ上げてきた。と同時に、修復不可能という言葉が頭の中でこだました。

 どうしようもない……、

 心だけでなく体がどんどん重くなってきた。歩くのが辛くなって道路脇のベンチに座り込んだ。

 修復不可能!

 その言葉が頭の中で一段と大きく鳴り響いた。