締め切りの日がやってきた。
7月7日。
トーストと目玉焼きと牛乳の朝食を済ませたあと、応募規定を確認した。
原稿と内容要約文以外に『表紙』が必要だった。題名、枚数、筆名、本名、生年月日、年齢、住所、電話番号、略歴、すべてをインプットして印刷した。
念のために妻に確認してもらってから、表紙、内容要約文、原稿の順に重ねて、ドリルパンチで慎重に穴を開け、右肩を紐で綴じた。
しかし、すべてが終わったわけではなかった。レターパックに記入することが残っているのだ。間違えないように慎重に太字のボールペンを走らせた。郵便番号、お届け先のおところ、おなまえ、電話番号、ご依頼主のおところ、おなまえ、電話番号。そして、品名には『応募原稿在中』と書いた。これも書き間違いがないか妻に確認してもらってから、しっかりと封をした。
すべきことが全部終わったので、早めの昼食を取った。納豆と鮭の塩焼きとキュウリの一夜漬けと味噌汁。完食すると、習慣になっている食後のコーヒーを飲み干し、「郵便局へ行ってくる」と妻に告げた。すると妻は頷いたが、すぐに立ち上がって意外なことを口にした。
「一緒に行くから、ちょっと待ってて」
言うなり食器を台所に運んで洗い物を始めた。新聞を読みながら待とうかと思ったが、思い直して台所へ行き、妻の横に立った。
「わたしが拭くよ」
「えっ⁉」
妻の目が真ん丸になった。今までそんなことをしたことがなかったので当然の反応だったが、妻は泡の付いた手を止めたままわたしから視線を外さなかった。
「これからは家事を手伝うから」
照れを隠すようにボソッと告げた。
それからあとは、妻が洗った食器を布巾で拭き続けた。その間、水道水で濯ぐ音と布巾で拭く音と拭いた食器をカウンターに並べる音しかしなかったが、それはわたしたちの新たな生活様式を祝福しているように感じた。妻の横顔には柔らかな笑みが浮かんでいるように見えた。
*
「神社に寄って行かない?」
郵便局へ行く前に神頼みをしたいという。
「うん、そうしよう」
受賞を願ってくれる妻の気持ちが嬉しかったので、近くの神社に向かった。
境内には誰もいなかった。小銭入れから百円玉を2個出して、1個を妻に手渡し、同時に賽銭箱に入れて、二礼二拍手ののち、両手を合わせて「『人生ランランラン』が受賞できますように」と心を込めて祈った。そして、両手を下ろして、深く一礼をした。
顔を上げると、妻はまだ祈っていた。真剣な表情で硬く手を合わせていた。わたしより1分以上も長く祈りが続いた。深く一礼をしたのち、わたしの顔を見た。晴れ晴れとしたような表情になっていた。
それから中央郵便局に向かったが、中に入ると予想以上に混んでいて、結構待たされた。それでもイライラすることはなく、心静かに自分の整理券番号が表示されるのを待った。
しばらくして番号が表示されたので、窓口でレターパックを差し出すと、保管用シールを剥がして台紙に貼ったものを手渡された。
でも、もう一つ仕事が残っていた。日付の確認だ。〈当日消印〉の確認をしっかりしないといけないのだ。それをお願いすると、すぐさまその場で印を押して、それを見せてくれた。『7月7日』に間違いなかった。「ありがとうございます」と礼を言って、窓口から離れた。
*
「ねえ、あの店で買わない? 誕生日だから普段と違う贅沢なケーキ買いましょうよ」
家までの距離を半分ほど帰った時、妻は突然わたしの腕を取って商店街の方へ引っ張った。急な方向転換に〈おっとっと〉という感じになったが、異論があるわけではないので、されるがまま妻に従った。
しばらく歩くと、その店が見えてきた。わたしはその看板を見る度に笑ってしまう。それほど面白い店名なのだ。
『スウィーツ、スウィーツ、ラン、ラン、ラン』
妻はこの店名がとても気に入っている。可愛くて大好きらしい。
店に入ると、顔見知りの店員が妻に挨拶をして何やら話し始めたが、わたしはその輪に入らず、ショーケースの中の色とりどりのケーキに魅入られていた。すると、いつの間にか横に立った妻が「なんにする?」と声をかけてきた。しかし、まだ決められなかったので、考える時間を稼ぐために、妻に振った。
「君から先に決めて」
「いいの?」
誕生日だからわたしが先に決めるものとばかり思っていたのだろう、ちょっと驚いたような表情になったが、それでも「そうね~」と顔を綻ばせて、ガラスケースに右手の人差し指を這わせながら品定めを始めた。
「これ」
彼女の指が止まったところにあったのは、『7種のフルーツタルト』だった。お目当てのものが見つかったようで、一瞬、目が輝いたように見えた。
「あなたは決まった?」
わたしは首を振った。実はこれにしようかと思っているものがあったのだが、先を越されてしまったのだ。同じものを頼むのは芸がないので、また振出しに戻って探し始めた。
「そうだな~」
妻と同じ様に右手の人差し指をガラスケースに這わせて1個1個見ていった。すると、見逃していたものが目に入った。
「これにする」
指差したのは『ベリー・ハッピー』という名前のケーキだった。ブルーベリーとブラックベリー、ラズベリーとストロベリーが華やかに盛り付けられたケーキで、スポンジにはラム酒が香っているらしい。
「お持ち帰りの時間はどれくらいですか?」
店員は保冷材の準備をしようとしたが、妻はそれを手で制してわたしに向き合った。
「ねえ、ここで食べていかない?」
妻が指差した店の奥には、誰も座っていない二人掛けの小さなテーブルがあった。
「いいね、そうしよう」
わたしは即座に反応して、急いで席を確保した。妻はまだカウンターにいて、店員に何か言っていた。店員は何度も頷いていた。
妻が座ると、店員が水とドリンクメニューを持ってきた。それを開くと、コーヒー、紅茶、ジュースに加えて、シャンパンという記載が目に飛び込んできた。
「シャンパンにしない?」
それ以外の選択肢はないでしょ、というような目をしていた。
もちろん異論はなかった。思わず口元が緩んでしまった。
しばらくしてグラスが二つ運ばれてきた。淡いピンクの液体に繊細な泡が立ち込めていた。
「まあ~、素敵」
妻がウットリとした目で見つめた。
「お洒落だね」
わたしも見惚れてしまった。
「お誕生日おめでとう」
妻の発声でグラスを合わせた。軽やかで心地よい音がした。
「ありがとう」
妻に頭を下げた。今までの感謝を込めて少し深めに頭を下げた。
「おいしい」
顔を上げると、妻が至福の表情を浮かべていた。わたしは妻にグラスを掲げてから口に運んだ。爽やかな香りが鼻に抜けたと思ったら、ほど良い酸味のあとに微かな甘味が追いかけてきた。絶妙なバランスだった。わたしにも至福の時間が訪れた。
シャンパンを三分の二ほど飲んだ時、ケーキが運ばれてきた。先ず、『七種のフルーツタルト』が妻の前に置かれた。そして、わたしの前に『ベリー・ハッピー』が置かれたが、チョコレートで模ったようなカードが裏向きになっていた。
首を傾げるわたしをよそ目に店員が妻に合図のような視線を送った。妻が頷きで返すと、店員がケーキの皿を180度回してカードの表面をこちらに向けた。
目に入った瞬間、思わず息を飲んだ。『HAPPY BIRTHDAY』の下に、『66歳、ラン、ラン、ラン』と描かれていたのだ。それは、年齢と小説名と店名をかけた言葉だった。それだけでなく、妻の愛情を感じる言葉だった。
*
「おいしかったね」
店を出て数歩歩いた時、ほんのり目元を染めた妻が笑顔を向けた。笑みを返すと、何故か振り返った。店の看板を見ているようで、何かブツブツ言ったと思ったら、すぐに前を向いていきなりスキップを始めた。と同時に歌うような声が聞こえた。
「スウィーツ、スウィーツ、ラン、ラン、ラン♪」
楽しそうな声だった。そのあとも、スキップをしながら何度も歌った。道行く人が驚いたような表情を浮かべて妻を見ていたが、そんなことは何も気にしていないようだった。
かなり遠くまで行った妻が立ち止まって振り返り、わたしに向かって手招きをした。
〈同じようにやれというのだろうか?〉と戸惑っていると、また手招きをされた。
スキップか……、
できるかな?
自信はなかったが、取り敢えず一歩を踏み出してみた。すると、違和感なくできた。何十年振りかだったが、体が覚えていた。それが嬉しくて、スキップをしながら妻と同じ様に口ずさんだ。
「スウィーツ、スウィーツ、ラン、ラン、ラン♪」
「スウィーツ、スウィーツ、ラン、ラン、ラン♪」
妻に近づく度にどんどん楽しくなってきた。子供のような気分になってきた。それでも、向こうから4人連れの若い女性がやってきたので、ちょっと恥ずかしくなって立ち止まった。キョロキョロと辺りを見回すような振りをして彼女たちが通り過ぎるのを待った。
すれ違ったので視線を妻に移すと、笑みを浮かべて手招きをしていた。〈早く追い付いて〉というように速い動きで手招きをしていた。でも、すぐにするわけにもいかず、4人連れが少し離れたのを確認してから、小さな声で歌いながらスキップを始めた。そして、少しずつ声を大きくしていった。
妻の笑顔がどんどん近づいてきた。
視界にいるのは妻だけになった。
30年以上連れ添った妻だった。
苦労をかけた妻だった。
愛想を尽かせて離婚まで決意した妻だった。
でも、小説のタイトルを一生懸命考えてくれた妻だった。
一緒に受賞を祈ってくれた妻だった。
誕生日を心から祝ってくれた妻だった。
特別なプレートをプレゼントしてくれた妻だった。
かけがえのない妻だと思った。
大事にしなければならないと思った。
楽しい毎日を過ごさせてあげたいと思った。
いつも〈ラン、ラン、ラン♪〉とスキップを踏ませてあげたいと思った。
大きなスキップでどんどん近づいていくと、満面の笑みで迎えてくれた。わたしも笑みを返し、最後のスキップで肩にタッチした。すると、わたしから逃げるようにスキップを始めた。すぐにわたしは追いかけた。妻の背中に向かって大きな声で歌いながら追いかけた。
「スウィーツ、スウィーツ、ラン、ラン、ラン♪」
「ロクジュウロクサイ、ラン♪ ラン♪ ラン♪」
完



