『人生ラン♪ラン♪ラン♪』~妻に捧げるラヴソング~


 わたしはカマンベールを口に入れたまま固まった。息が詰まりそうになった。しかし、それで終わりではなかった。

「インパクトがないと思うの」

 強烈な一撃だった。思わずカマンベールを飲み込んでしまった。

「今のタイトルだと内容が大体想像できるから、一次選考をする人が興味を持たないのではないかしら。だって新人賞にはいっぱい応募がくるのよ。それを限られた時間で読んで編集部に返さなくてはいけないから、タイトルや書き出しにインパクトのないものはどんどん落とされると思うの。それにね、」

 受賞後のことを考えた方がいいという。

「書店に並んだ時のことを思い浮かべてみて。書店には何万冊という本が並んでいるのよ。小説だけでも何千冊とあるわ。でも、その多くはほとんど売れないで返品される運命なの」

 返品率は4割に達するのだという。

「店頭で生き残るためには目立つことが必要なの。いっぱい並んでいる本の中に埋もれてしまうようなものは生き残ることはできないの」

 わたしは書店の売場を頭に思い浮かべた。確かに、話題になった小説以外はほとんど覚えていないし、手に取ることもない。

「誰かが店頭で売り込むわけではないから、存在のそのものが目立っていないと見向きもされないのよ」

 その通りだと思った。本も棚も声を出さない。

「あなたが書店に行った時のことを思い出して欲しいの。どんな本を手に取った?」

 最近行った時のことを思い出そうと目を瞑った。手に取ったのは……話題になっている本、売れ筋の上位に入っている本、有名な作家の本。それから……、

「タイトルや帯の文言に惹かれたものを手に取らなかった?」

 妻に先に言われてしまった。その通りだった。捻ったタイトルやパンチの効いた帯の文言を見るとついつい手が出てしまったことを思い出した。

「タイトルと帯がセールスマンなの。訴求力のあるタイトルと帯があって初めて手に取ってもらえるのよ」

 それは間違いなかった。どこにでもあるようなタイトルや帯に手を伸ばすことはあり得ない。

「本の売場に『人生二毛作』というタイトルの小説があったとして、あなたはそれに手が伸びる?」

 うっ! 

 喉が詰まったようになった。

「帯にインパクトのある文言を書ける?」

 完全に詰まった。

「ねっ、タイトルは重要なのよ」

 グーの音も出なかった。再考の必要性を強く感じた。でも、考えたところで代替案がすぐに浮かぶはずはなかった。それを告げると、「もしよかったら私に考えさせて」と意外な返事が返ってきた。明日、書店の棚を見ながら考えてみたいという。

「うん、そうしてくれるとありがたい。よろしく頼みます」

 素直に頭を下げた。妻の方がよっぽど小説に詳しいし、アルバイトを始めてからは出版社の営業マンから色々なことを聞いているようなので、業界のこともよく知っているからだ。

「任せといて」

 妻は右手を胸に置いて自信ありげに笑った。

 そのあとは、チーズをつまみながら久々のフレンチワインを心ゆくまで楽しんだ。ちょっと飲み過ぎかなとも思ったが、チーズとの相性が抜群なので、ついついグラスに手が伸びてしまった。
 それでも、そろそろ止め時のようにも感じていたので、「どうする?」と残り僅かなボトルを見つめながら妻に訊くと、結構飲んだせいか、目元をほんのり染めながらも、「飲み切りましょ」と自分のグラスをわたしの方に動かした。
 わたしは頷いて、妻のグラスと自分のグラスに注いでボトルを空にしてから、「じゃあ、もう一度乾杯」とグラスをちょっと上げた。

「乾杯」

 妻がグラスを目の位置まで掲げてから口に持って行った。わたしはそれを見ながらこのムードをもっと盛り上げようと「音楽でもかけようか」と振ると、「いいわね」と目元をほんのり赤くした妻が頷いた。

 わたしは本棚に向かい、雰囲気の良さそうなCDを探した。すると、秋波(しゅうは)を送る背表紙に気がついた。

『YOU ARE THERE DUETS』

 アメリカの女性ジャズシンガー、ヒラリー・コールが2010年に発表したアルバムだった。デュエッツと名付けられたとおり、ピアノ演奏だけをバックにしてしっとりと歌いあげているのだが、そのピアニストの豪華さに発売当時注目が集まった。なにしろ、ハンク・ジョーンズやデイヴ・ブルーベック、ミシェル・ルグランなど超一流のピアニストばかりを集めているのだ。よくこれだけのスターを集めたものだと感心したのを覚えている。

 さり気なく照明を落としてから、CDをセットしてスタートボタンを押した。心地良いピアノのイントロが始まると、うっとりするような歌声を連れてきた。

『IF I HAD YOU』

〈あなたが愛してくれるなら〉と耳元で囁くような歌声が届くと、ニューヨークの場末のジャズ・クラブにワープしたような錯覚に陥った。
 そこにいる客は二人だけだった。
 妻とわたし。
 わたしたちはステージを見つめていた。
 ほの暗いステージにはピアノを弾くハンク・ジョーンズと、彼を見つめながら歌うヒラリー・コールがいた。
 2曲目が始まり、ピアニストがシダー・ウォルトンに変わった。ヒラリーの歌声が(なま)めかしくなり、たまらず手を差し出すと、妻がわたしの手を持って立ち上がった。妻を引き寄せてテーブルの脇でピッタリと体を合わせると、温もりを感じた。その温もりに押されるように首筋にキスをした。そして耳へ、頬へ、唇へと這わせていくと、妻が両手を首に回してきて、甘い吐息が耳にかかった。その途端、曲が変わった。

『IT`S ALWAYS YOU』

 フレディー・コールがピアノを弾きながらわたしたちを見つめていた。すると、二人の邪魔をしてはダメよ、というように彼の目をヒラリーが手で塞いだ。その瞬間、世界はわたしたちだけのものになった。

「いつまでも一緒だからね」

 妻の耳元で囁いた。