どのくらい時間が経っただろうか、妻が買い物袋を二つ提げて戻ってきた。そして、わたしの顔を見るなり、「シャワーを浴びてきて」と促した。
頷いて浴室に行ったが、髪を洗い終わったあと、リンスをしたかどうかわからなくなった。したような気がするが、していないような気もする。髪の毛を触ってもよくわからなかった。
最近こんなことがちょくちょくある。ふっと記憶が途切れるのだ。まだらボケとでもいうのだろうか、ちょっと心配になった。でも、そのままにしておくのは気持ちが悪いので、〈もう一度?〉リンスをして、洗い流した。
リビングに戻ると、シャンパングラスがセッティングされていた。
ん?
とっさに身構えた。
もしかして大事な記念日なのだろうか?
思い出そうとしたが、頭をひねっても何も出てこなかった。
ヤバイ、
もし大事な記念日を忘れているのなら大変なことになる。せっかく機嫌が直りつつあるのに元の木阿弥になってしまう。わたしは気が気でなくなり、目の前が真っ白になりそうになった。
そんな状態の中、妻がトレイに皿を乗せて戻ってきた。サラダとカプレーゼだった。皿をテーブルに置くと、また台所に戻ってボトルを持ってきた。スパークリングワインだった。テーブルに置かれると、そのラベルが訴えるようにわたしを見た気がした。
やはり何かの記念日に違いない。
そう確信したが、いくら喝を入れても脳の海馬はヒントになるものを与えてはくれなかった。そのせいかい、頭が混乱してきた。でも、妻はそんな様子に気づくはずもなく、「栓を開けて」とだけ言って台所に戻った。
言われるまま栓を抜くと〈ポンッ〉という小気味良い音が部屋に響いた。けれど、却って不安が大きくなっただけだった。
妻が戻ってきて席に着いたので、二つのグラスに注ぐと、妻は「乾杯」と言ってグラスを掲げて、わたしのグラスに軽く当てた。わたしは妻がグラスを口に持って行くのをただ見つめていた。
「何かの記念日だっけ?」
しかし、声は返ってこず、首を横に振っただけだった。
「じゃあ、なんで……」
狐につままれたような気分だったが、そんなわたしの様子がおかしかったのか、妻が口角を上げた。
「たまにはいいんじゃない」
さあ飲んで、というようにもう一度わたしのグラスに軽く当てた。それ以上追及してもまともな答えは返ってこないようなので、仕方なくわたしもグラスに口をつけた。
サラダとカプレーゼを食べ終わると、「ワイングラスを用意して」と言い残して、妻は次の料理の準備を始めた。わたしは言われるまま食器棚からワイングラスを二つ取り出して、テーブルに置いてから、冷蔵庫の扉を開けた。すると、そこにはいつもの赤ワインだけでなく、もう1本、赤ワインが入っていた。それは、年金生活に入る前によく飲んでいたフランス産のワインだった。値段は800円。いつも飲んでいるワインの1.6倍。まじまじとラベルを見てしまった。
「どうしたの、これ?」
妻は直接答えず、「栓を開けといて」と言って、フライパンに視線を落とした。わたしは食器棚からソムリエナイフを取り出したが、じっと見入ってしまった。
これを手に持つのは久し振りだった。いつも飲むワインはスクリューキャップなので、捻って開けるだけなのだ。それは簡単で楽だったが、いつも物足りなさを感じていた。ワインには儀式が必要だと思っていたからだ。ソムリエナイフで開ける儀式が。
背筋を伸ばしてソムリエナイフに一礼をし、手に取ってキャップシールに切れ目を入れ、シールを丁寧に剥がしてからコルクにスクリューを刺して、突き破らないように回してねじ込んだ。それから支点部分をボトルの口に引っ掛けてテコの原理でコルクを引き上げると、きれいに抜けた。最後にティッシュで口の内側を拭ってからソムリエナイフをテーブルに置いて一礼すると、完璧に儀式が終わった。
グラスに注ぎ入れてスワリングすると、カベルネソーヴィニヨンの甘い香りが漂ってきた。久し振りの懐かしい香りに、思わず頬が緩んだ。妻のグラスもスワリングして料理が運ばれてくるのを待った。
妻が運んできたのはわたしの大好物だった。フィレステーキ。リタイア以来一度も口にしたことのないご馳走だった。妻はフォークとナイフを皿の両脇に置き、「召し上がれ」と右の掌を皿の方に動かしてから台所へ戻った。
本当は妻を待つのが礼儀だが、待ちきれなくてナイフを入れた。スーっと切れた。上等な肉のようだった。口に入れると、塩と胡椒の塩梅が最高だった。それに、柔らかくてあっという間に口の中から消えた。またまた頬が緩んだ。
少しして妻が自分の肉を運んできて椅子に座った。
「乾杯」
今度はわたしが発声してグラスを合わせた。口に含むと、ふくよかな味が広がった。
これだよ、これ!
間違いなく恵比寿さん顔になっていたと思う。噛みしめるようにして飲み込んだ。
「やっぱり合うわね」
肉のあとワインを口に含んだ妻が顔を綻ばせた。幸せそうな表情だった。
「よく覚えていたね」
ボトルのラベルを妻の方に向けて指差した。
「あなたがよく飲んでいたからね」
当然、というように笑った。そのさり気なさにちょっと感動した。自分の好みを覚えてくれていたのが嬉しかった。しかし、よく考えてみれば、今日に限ったことではなかった。いつものことだった。常にわたしの好みを覚えていて、さり気なく喜ばせてくれていたのだ。それが自然に行われていたので特に感激することもなかったが、改めて考えてみると、それは普通ではないと思えた。何故なら、わたしは妻が好むものを何も知らないからだ。
好きな食べ物、
好きなスイーツ、
好きな花、
好きなブランド、
好きな映画、
好きなドラマ、
好きな俳優、
好きな歌手……、
何も思い浮かばない。聞いたことはあるかもしれないが、覚えているものはなかった。
改めてガッカリしたが、これかもしれないとふと思った。妻が離婚を考えた原因だ。自分が大切にされていないということに耐えられなくなったに違いない。多分、そうだろう。逆の立場だったらわたしも耐えられない。
「どうしたの? 早く食べないと冷めるわよ」
妻の声で我に返った。切ったステーキにフォークを差したままになっていた。慌てて口に入れた。しかし、冷えたせいか、さっきのようなおいしさは感じられなかった。でも、それだけではなかった。気分が落ち込んで食欲がなくなっていた。それでも、残すわけにはいかない。妻の気持ちを無にするわけにはいかないのだ。気を取り直して、ステーキにナイフを入れた。
食べきって、「あ~、おいしかった」とご馳走様をして、「ありがとう。大好物だらけで胃が驚いているよ」と告げると、「良かった」と妻が嬉しそうに笑った。そして、「脳にエネルギーが行ったでしょ」と悪戯っぽい目をした。
「バッチリだよ」
わたしは右手の親指を立てた。すると、妻は台所へ行って何かを持ってきた。チーズの盛り合わせだった。これを〈宛て〉にワインをゆっくり楽しむつもりのようだった。
「どれがいい?」
皿の上には、クリームチーズ、カマンベールチーズ、モッツァレラチーズ、チェダーチーズ、ゴーダチーズが並べられていた。わたしは自分の好きなものを取ろうとして、思いとどまった。
「君から先に取って」
「いいの?」
少し驚いたような表情を浮かべた。今までそんなことがなかったからだろう。
「どうぞ」
右の掌を皿に向けた。
「では、遠慮なく」
妻は迷わずオレンジのチーズを取った。チェダーだった。わたしはすぐさま頭にインプットした。『妻が一番好きなチーズはチェダー』
「あなたはカマンベールよね」
言い当てられてしまった。妻はわたしの好きなものはなんでも知っているのだ。そして、いつもわたしのことを最優先に考えてくれる。どんな時でも常に。
そんなことを考えていると、妻が意味ありげな視線を向け、突然、話題を変えた。
「ねえ、小説のタイトルを変えない?」



