『人生ラン♪ラン♪ラン♪』~妻に捧げるラヴソング~


 締め切りまであと1か月と迫った6月7日、やっと推敲が終わった。妻が付けた最後の付箋を剥がし、改めて印刷してダブルクリップで留めた。

 夕食後、妻と向き合った。あの日以来、ちゃんと話したことはなかった。妻が発した『離婚』という言葉は頭の中で薄れてきてはいたが、それでも完全に消えることはなかった。そんな状態でまともな話ができるはずはなかった。
 それでも、原稿という仲立ちが存在することは救いのように思われた。子供の存在が夫婦の関係に大きな影響を及ぼすように、原稿も同じ役目を果たしてくれそうな気がしたのだ。それに、自らの内面と対峙した上で、強い想いを持って生み出したという点では子供と同じといっても過言ではないように思えた。わたしは黄色のメモを手に持って妻の目を見た。

「悪かったな、気がつかなくて」

 言おうと思っていたものとは違う言葉が口から出ていた。自分で言って自分で驚いたが、妻も同じようだった。目が大きく見開いていた。

「本当に悪かった」

 わたしは頭を下げた。
 妻は何も言わなかった。

「んん」

 話題を切り替えるためにわざと喉を鳴らして、メモに視線を落とした。

「助かったよ。お陰で推敲を終えることができた」

 妻は僅かに頷いた。

「もう一度読んでくれるかな」

 一瞬、間が開いたので拒否されるかと不安になったが、また僅かに頷いてくれた。

「読み終わったらまた感想を聞かせて欲しい」

 原稿を妻の方に動かして席を立った。
 これ以上喋る言葉は何も無かった。
 あとは時間という薬が効くのを待つしかない。
 わたしの傷も妻の傷もじっくり治すしかない。

        *

 3日後、妻が休みの日の15時頃に原稿が返ってきた。付箋は少ししか付いていなかった。しかし、思わぬことを指摘された。

「枚数、大丈夫?」

 それを聞いて一瞬、固まった。推敲後の枚数を確認していなかった。地の文や接続詞を大幅に削減したことに思いが至っていなかった。推敲前の枚数は306枚で、応募規定を僅かに6枚上回っているだけだった。心が瞬間冷凍されたように感じて、まったく反応できなくなった。

「早く確認したほうがいいんじゃない」

 それで我に返った。急いで自室へ行き、パソコンを起動させた。立ち上がるのがもどかしく、イライラしながら画面が変わるのを待った。
 パスワードを入力すると初期画面が現れた。すぐにワードを立ち上げたかったが、ぐっと堪えて、セキュリティソフトのデイリーチェックを行った。待つのがもどかしかったが、これをやらなければ安心してパソコンを使えないので、じっと待った。

 数分後にやっと終わった。画面には『脅威は見つかりませんでした』と表示されていた。安全が確認できたので、ワードを立ち上げた。『人生二毛作』のファイルをダブルクリックして表示させ、それを400字に換算した。

 結果が現れた。
 枚数が足りていなかった。
 それも12枚も。
 画面に表示されている『288ページ』という文字から目が離せなくなった。
 それでも、もしかしてと思って目を瞑り、10数えて目を開けた。
 でも、当然のことながら、ページ数は変わっていなかった。
 1ページも増えていなかった。
 また瞬間冷凍状態になった。

「どうしよう……」

 リビングに戻ったわたしは妻に向かって弱々しい哀れな声を出していた。もう3週間ちょっとしか残っていないのだ。これから12ページ分書き足すのは不可能のように思えた。それに、もしできたとしても取って付けたようなものになる可能性は否定できなかった。わたしは頭を抱えた。

「私だったら……」

 妻は腕を組んで天井の方に視線を向けた。

「私だったら、エピローグを書き直すわ」

 言っている意味がわからなかった。

「途中を書き直すと全体のバランスが悪くなるから止めた方がいいと思うの。でも、エピローグだったら流れの中で書き直せるし、今よりも良いものにできるかもしれないと思うの。そう思わない?」

 すぐに反応できなかった。途中の文章に手を入れるよりもエピローグの方が直しやすいのはその通りだが、クロージングしているものをどうやって書き直せばいいのかわからなかった。だから「そうかもしれないけど……」という弱々しい声を出すのが精一杯だった。頭の中に代替案が浮かんでくるわけはないのだ。妻に救いを求めるしかなかったが、彼女も具体的にどうすればいいかということまでは明確になっていないようだった。また腕を組んで、天井の方を見上げた。

「そうね~」

 それっきり言葉は出てこなかった。二人の間を居心地の悪い時間だけが過ぎていった。

「下手の考え休むに似たり!」

 突然、妻が大きな声を出した。そして立ち上がって、手を叩くような仕草をした。

「脳にエネルギーを注入しないとね」

 唖然としているわたしを置き去りにして、リビングを出て行った。

 しばらくして、ドアの締まる音と鍵をかける音がした。
 わたしは一人取り残されたような気分になった。