公園から真っすぐ家に戻る気が起きなかったので、最寄り駅の居酒屋に入った。時間が早いせいか、席は三分の一ほどしか埋まっていなかった。冷奴と板わさと生ビールを頼んだあと店内を見渡すと、自分以外に一人客は誰もいなかった。
急に寂しくなった。そのせいで、隣駅に住んでいる学生時代からの友人に電話をかけた。「夕食がまだだったら来ないか」と誘うと、「ちょっと待って」と言って、誰かと話し始めた。言葉は聞き取れなかったが、奥さんに何か言っているような感じだった。
少しして、彼の声が戻ってきた。
「今からすぐ行く」
返事をする間もなく、電話が切れた。
*
30分ほどして彼がやってきた。わたしは2杯目を飲み干したところだった。
「急に悪かったな」
謝ると、彼は右手を横に振った。
「いや、丁度良かった」
彼は店員を呼んで、生ビールとタコ酢とモズクを頼んだ。丁度良かった、という言葉が気になったが、取り敢えず乾杯をすることにした。
一口飲むと、彼が怪訝そうな表情を浮かべた。
「ところで、どうかしたのか?」
「ん、ちょっと……」
どう話していいかわからなかった。それに、もう少しお酒が必要な気がした。わたしはジョッキを一気に飲み干して、4杯目を頼んだ。彼は心配そうな表情を浮かべていたが、何も言わず、モズクをすするように食べた。
「実は……」
4杯目を半分ほど飲んでから妻とのことを話した。うまく伝えられたかどうかわからなかったが、事実をすべて話した。
「そうか……」
友人は三分の一ほど残っていたビールを飲み干して、お代わりを頼んだ。それは、わたしの話を受け止めるために必要なアルコールを補充するかのようだった。
「そうか……」
同じ言葉を呟いて、ゆらゆらと首を横に振った。
「実は、俺のところもな」
タコ酢に箸を伸ばした。しかし、タコとキュウリを突いただけで口に入れることはなかった。
「よろしくないんだ」
箸を置いて、両手で鼻を覆った。
新しいジョッキが運ばれてくると、彼は右手で取っ手を握って、三分の一ほどを一気に流し込んだ。そして、テーブルにジョッキを置いて、右手で口を拭った。
「もう10年以上夫婦関係がない」
わたしに目を合わさず、辛そうな声を漏らした。見ると、口元が歪んでいた。わたしは彼の横顔を見つめたまま身動きできなくなった。
わたしから見れば彼らは理想の夫婦だった。わたしより5センチ以上背が高くて引き締まった体型の彼は憧れるほどのいい男だったし、愛らしい丸顔とグラマラスな体形をした奥さんは魅力的だった。セックスライフはさぞ楽しいだろうなと勝手な想像をしたことが何度もあったほどだ。そんな彼らが10年以上も夫婦関係がないとは信じられなかった。
「最近は食事の時に会話もないんだ」
仮面夫婦という言葉が思い浮かんだ。
「子供がいれば違っていたかもしれないけどな」
タコ酢を口に入れて二度三度噛んだ。そして、それを流し込むようにジョッキを傾けた。それから、〈ふ~〉と息を吐いてわたしに視線を向けた。
「お前のところもないのか?」
急に話を振られたので、ちょっとむせた。
「ないことはないけど、まあ、それなりに」
「そうか」
また視線を外した。そして、何度も首を横に振った。わたしは、彼が店に来た時に言った「丁度良かった」という言葉の意味がわかったような気がした。会話のない気まずい夕食をパスしたかったのだ。それにしても、まだ信じられなかった。お似合いの夫婦だと思っていた彼らがこんなことになっていたなんて。
「こんなことを訊いていいかどうかわからないけど……」
今度はわたしが視線を外す番だった。
「なんだ?」
彼の視線を横顔に感じてちょっと躊躇ったが、言葉が出ていくのを止められなかった。
「浮気でもしたのか?」
すぐに返事は返ってこなかった。「いや」という弱々しい声が耳に届いたのは少ししてからだった。
「じゃあ……、もしかして……」
「いや、そんなことはない」
奥さんの浮気を即座に否定した。
「じゃあ、どうして……」
視線を戻すと、彼は首をゆらゆらと振っていた。
「俺にもわからん」
いつの頃からか、セックスはもとより体に触れることもキスをすることも拒否されるようになったのだという。しかし、どんなに考えても理由がわからないのだという。
「でも、何か原因があるだろう」
自分のためにも原因が知りたかった。
「う~ん」
右肘をテーブルについて掌の上に顔を乗せた。そして、左手の中指でトントントンとテーブルを叩いた。それから、ボソッと呟くように言った。
「求め過ぎたのかもしれない……」
右の掌で両目を覆った。
求め過ぎか……、
わかるような気がした。あの奥さんなら誰だって毎日したくなる。奥さんだって嫌いなわけはないだろう。それでも、〈夫の目当てが自分の体だけ〉と奥さんが思い込むようになったとしたら、どうなるだろうか? 多分、堪えられなくなるだろうし、苦痛に感じるようになるかもしれない。20代や30代ならまだしも、40代以降になると、単なる行為としてのセックスを受け入れることは難しくなるかもしれない。わたしはふと、50歳の誕生日の時のことを思い出した。
東京支社長に就任して気力体力共に充実していたわたしは、その夜、セックスをした上に、翌朝も求めたのだ。昨夜の反応からすると妻も喜んでくれると思っていたが、意外な返事が返ってきた。「またするの?」と嫌そうに言われたのだ。拝み倒してなんとか受け入れてもらったが、妻はただ目を瞑ってわたしに身を任せていただけだった。一体感はまるで感じなかった。
「もう限界だよ」
彼の声で現実に引き戻された。
「限界って、まさか……」
彼は虚ろな目で壁の方を見つめていたが、心を決めたように顎を下に引いた。
「この年で一人になるのは辛いけどな」
大きな息が彼の鼻から漏れた。それは、肺の中に溜め込んだ奥さんへの不満をすべて吐き出すかのような大きなものだった。
「でも、早まるなよ」
言った瞬間、後悔した。彼は早まっているわけではないのだ。この何年かずっと考えていたはずなのだ。なのですぐにリカバリーしようとしたが、他の言葉は何も思い浮かばなかった。
「悪かったな」
見ると、彼は済まなさそうな顔をしていた。
「お前の愚痴を聞かなきゃいけなかったのにな……」
わたしは首を横に振った。すると、いきなり空腹を覚えた。簡単なツマミしか食べていなかったので、その方向に話題を変えた。
「ラーメンでも食いにいくか」
湿っぽくなった場所にこのままとどまるわけにはいかなかった。
「そうだな」
言うなり彼は立ち上がって伝票を掴み、レジで支払いをした。すぐに半分払おうとしたが、制するように彼は右の掌をこちらに向けた。そして、〈愚痴を聞いてもらったささやかなお礼〉だと言った。本当は逆だったが、彼の性格として一度言ったことは翻さないので、ありがたくご馳走になった。
*
数軒先にラーメン屋があった。知らない店だったが、躊躇わずに入った。彼はチャーシュー麺を、わたしは味噌ラーメンを頼み、それを待つ間、瓶ビールを飲んだ。
期待していなかったが、かなりうまかった。そのせいもあって、二人とも汁も残さず食べ切った。今度はわたしが先に伝票を掴んだ。〈急な呼び出しに応えてくれたお礼〉だと伝えた。
「なんか、叫びたいな」
ラーメン屋を出た途端、彼が大きな声を出した。わたしも同じ気分だった。
「カラオケでも行くか」
彼が速攻で頷いた。駅前の商店街をカラオケ店を探して彷徨っていると、パチンコ屋の角を右に曲がったところに看板が見えた。全国展開している有名なチェーン店だった。その店名の下の大きな文字に目が吸い寄せられた。『シニア割引』。60歳以上は10パーセント引きになるようだ。
「いいね」
一も二もなくこの店に決めた。いつもはシニアと呼ばれるのに抵抗があるのだが、今夜は得をした気分になって、すんなりと受け入れることができた。



