妻に原稿を渡してから1週間後、驚くほどの付箋が付いて返ってきた。丁寧に読んでくれたんだと思うし、何度も読み返してくれたんだと思うが、これほどの付箋が貼られるとは思っていなかった。愕然としたが、妻の口から漏れたのはそのことではなかった。
「小説の中に私の知らないあなたがいて、ちょっとショックだった。苦労していたことは十分知っていたつもりだったのに……」
意外な言葉だったので、思わず強く見つめてしまった。でも、それを嫌ったのか、わたしから視線を外して、壁に掛かっている風景画の方に目をやった。
「でもね」
視線が戻ってきた。
「変わろうとしているあなたを知って嬉しくも感じたの」
そこで躊躇うような表情になった。
それを見て、嫌な予感がした。何か言いにくいことを言おうとしているような気がして、ドキドキしてきた。すると、妻の表情が意を決したようなものに変わった。
「実はね、もう無理かなって思ったことが何度もあるの。仕事優先で家庭を顧みないあなたとは無理かなって」
それって……、
「離婚届を書いたこともあるのよ」
心臓に剣を突き刺されたような衝撃を受けた。
「それも1回だけではないの」
もう一本突き刺された。
「結局、決心がつかなくて、その度に破り捨てたんだけどね」
返す言葉は何も思いつかなかった。それに、口の中がカラカラで、言葉を発することはできそうになかった。無言で付箋を見つめるしかなかった。その沈黙を嫌ったのか、妻は立ち上がり、台所へ行ってコーヒーを淹れ始めた。そして、しばらくしてトレイに乗せてカップを二つ運んできた。
「ストレートでよかった?」
わたしは頷いた。口の中に早く水分を入れたかった。
「熱いから気をつけて」
言われた時には口にしていた。思いのほか熱かった。口の中を火傷したかもしれないと思って、急いで台所へ行って、冷蔵庫から氷を2個取り出して、口に入れた。そして、氷をグルグル動かして口の中を満遍なく冷やし、その冷えた水を喉の奥に流し込んだ。
恐る恐る舌でなぞると、口の中の粘膜はただれてはいないようだった。大事には至らなかったようで、安心した。
「さっきの話だけど」
仕切り直して妻に正対した。しかし、「その話はもうおしまい」とスパッと切って原稿に手を伸ばした。
でもそういうわけにはいかなかった。気になって仕方がなかった。いつ離婚を考えたのか、今はどうなのか、訊きたいことが山ほどあった。小説のことなんてどうでもよくなっていた。
「もうおしまいって言われても……」
原稿を妻から奪って脇にやったが、「だからもうおしまい」と原稿を手元に戻した。
「そういう気にはなれないから」
わたしは立ち上がり、「ちょっと出てくる」と行先を告げずに玄関に向かった。
*
ショックだった。今までうまくいっていると思っていた。理想的な夫婦とは言えないかもしれないが、悪くはないと思っていた。それなのに、妻は離婚を考えていた。それも、一度ならず二度までも。
なんで……、
頭の中で同じ言葉がグルグル回った。でも、それに対する答えはなかった。確かに仕事中毒だったことは認めざるを得ないが、浮気をしたことはないし、暴力を振るったこともない。ギャンブルにはまったこともない。模範的な亭主と自負していたのだ。それなのに妻の評価は違っていた。離婚を真剣に考えるほど追い詰められていたのだ。それだけでなく、実際に離婚届に記入までしていた。
気づかなかった……、
良い亭主とばかり思い込んでいた自分が馬鹿みたいに思えてきた。妻は幸せだと思い込んでいた自分が無知の塊に思えた。かなり落ち込んだ。すると、〈熟年離婚〉という言葉が思い浮かんだ。〈定年離婚〉という言葉も追いかけてきた。定年退職の日に花束を持って帰った夫に対して「長い間お世話になりました」と三つ指ついて妻が離婚を切り出すドラマを見たことがあるが、それが我が身に降りかかっていたかもしれないと思うと、ぞっとした。
*
いつの間にか公園に着いていた。平日の午後のせいか人は多くなかったが、リタイア世代の夫婦らしい人たちを何組か見かけた。どの夫婦も仲良さそうに見えた。でも、長い人生には色々あったはずだ。
とすると、この人たちも離婚の危機があったのだろうか?
それを乗り越えてきたのだろうか?
どうやって乗り越えてきたのだろうか?
それとも、本音を言わないまま表面的な付き合いを続けているのだろうか?
仮面夫婦なのだろうか?
そんなことはわかるはずがないしできるはずもないのだが、発作的に訊いてみたい衝動にかられた。それでも、それをぐっと飲み込んで歩いていると、ボート乗り場が見えた。何故か急に乗りたくなった。券売機で700円を払ってボートに乗った。
何十年振りかの手漕ぎボートだった。池の中央に出ると、カルガモが2羽寄ってきた。つがいだろうか? 仲睦まじそうに寄り添っていた。〈彼らに離婚という言葉はないんだろうな〉と思うと、羨ましくなった。でも、鳥に嫉妬しても仕方がないので、頭を振ってボートを進めた。すると、可愛い水鳥が目に入った。カイツブリだ。それも一羽や二羽ではない。子育て中らしく、掌にすっぽり収まりそうな小さな四羽のヒナが必死に親を追いかけていた。
いきなり親が潜った。すると、浮上してくるところを探すかのようにヒナたちがキョロキョロと辺りを見回し始めた。つられてわたしもじっと水面に目を凝らせた。その時、ヒナたちの5メートルほど先で親が姿を現した。嘴になにかくわえている。小さな魚のようだった。最初に見つけたヒナがダッシュを始めると、他のヒナも必死に追った。しかし、先頭のヒナが親から餌を貰うと、親はまた水の中に姿を消した。餌にあぶれたヒナたちはピヨピヨと声を出した。〈お腹がすいたよ〉と言っているみたいだった。空腹のまま眠るヒナもいるのだろうかと思うと、厳しい競争の世界を突き付けられたような感覚になった。野性に平等という言葉はないのだ。強いものだけ生き残るのだ。
それにしても、ヒナは可愛かった。目が離せなくなるほど愛らしかった。それを目で追っているうちにふと、〈もしわたしたちに子供がいたら〉という思いが湧いてきた。
もし妻が子育てをしていたら……、
毎日忙しくて、子供の日々の成長に目がいって、離婚の『り』の字も思い浮かばなかったのではないだろうか。それに、わたしと妻の会話も違ったものになっていただろう。会話の中心に子供のことがあり、常にそれが共通の話題となっていたはずだ。しかし、残念ながら子供はできなかった。妻と二人だけの変化のない毎日を続けるしかなかった。それに、不要族になる前のわたしは毎日帰りが遅く、テレビのニュース番組を見ながら夕食を黙々と食べるだけで、妻のことを思いやる余裕を持っていなかった。テレビを見ながら、ご飯を食べながら、仕事のことばかり考えていたのだ。妻から話しかけられても上の空だったし、適当な返事で誤魔化していたように思う。その度に妻はがっかりしていたのだろう。それだけでなく、このままの生活を続けることに疑問を持ち始めたに違いない。
「ごめんなさい」
突然の衝撃と同時に若い女性の声が耳に届いた。足で漕ぐスワンボートがわたしのボートに接触していた。
「大丈夫ですか?」
横に座る若い男性が心配そうな表情を浮かべていた。わたしは右手を上げて、なんでもないというシグナルを送った。そして、彼らから視線を外して、櫂を漕ぎ始めた。
あんな時もあったんだよな~、
遠ざかるカップルを見つめながら、若かりし頃の妻を思い浮かべようとした。しかし、二人でボートに乗った記憶どころか、新婚時代の甘い生活も思い出せなかった。
わたしは何をしてきたんだろう……、
半生を振り返ってみたが、思い浮かぶのは仕事と音楽のことばかりだった。退職日のライヴとニューカレドニアへの旅行以外、妻との日々は水面に浮かんでは来なかった。つまり、妻は空気と一緒だったということだ。居るのが当たり前だけど、気に留めることはなかったということだ。
妻は孤独だったんだろうな……、
だから何度も離婚を考えたんだろうな……、
まったく気づかなかったな……、
鈍感というかなんというか……、
自分に呆れて嫌になってきた。池の隅にボートを寄せて、ぼんやりと水面を見つめ続けた。その間、カルガモやカイツブリが近くに寄ってきたが、誰か他の人の目を借りて見ているようで、現実感がまったくなかった。これからのことを考えようとしたが、どうしていけばいいのかまるで頭が回らなかった。



