推敲と並行して4つの対策運動も続けていたが、4月に入ると、はっきりと効果を感じるようになってきた。40分ほど走っても胸が痛くならなくなったのだ。引きずるように走っていた足も少し上がるようになった。胸の筋肉はまだついていないが、腕をしっかり振れるようになった。体重はほとんど変わらなかったが、心持ち腹が引っ込んだような気がした。
継続は力なり!
努力は裏切らない!
これを合言葉にして、若い頃のような颯爽とした走りができる日が来ることを信じて走り続けた。
実は、今はこんなだが、若い頃は、というか、小学生や中学生の頃は足に自信のある子供だった。運動会のリレー競技では常にアンカーだったし、必ず何人か抜いたものだ。〈カモシカの足〉と呼ばれたこともあった。だから、学内競走のスターと自他共に認めていた。それだけではなく、中学校2年生の時には、都大会の400メートルリレーに出たこともある。更に、3年生の時には三段跳びの選手としても出場した。残念ながら入賞はできなかったが、大きなスタジアムで雄姿を見せることができたのは誇らしい思い出になった。
しかしその後、音楽に夢中になって運動らしい運動をしなくなってからは、カモシカの足からどんどん遠ざかっていった。時々運動の必要性を感じて走ることもあったが、いつも三日坊主で終わっていた。だから、筋肉はどんどん落ちていって、遂に老人の足になってしまった。柔らかくなったふくらはぎに往年の面影はなかった。
栄光よ、もう一度!
それが儚い夢とは知りつつ、しかし性懲りもなく、また夢を見始めていた。それは、マスターズ陸上で表彰台に上るという夢だった。
マスターズ陸上は別名『ベテランズ』とも言われ、男女ともに18歳以上であれば、今までの競技成績に関係なく同年代の人たちと競い合うことができる大会である。その特徴は、競技参加が5歳単位で区切られていることにあり、例えば今、わたしが参加するとすれば、〈65~69歳〉の〈M65〉グループに入ることになる。つまり、年の離れていない同年代で競い合うことができるのだ。しかし、そうはいっても今の状態ではすぐに参加することはできない。ダントツのビリッ穴になるのが決まっているからだ。それはプライドが許さない。落ちぶれたとはいえ、かつて〈カモシカの足〉と呼ばれた身なのだ。上位三人に入れないのなら、参加する意味はない。だから、結果を出すための3か年計画を立てることにした。
初年度は基礎固め。
次の1年は強化期間。
そして最終年度に競技参加。
中学生の時に夢中になった三段跳びではないが、ホップ、ステップ、ジャンプで表彰台を目指すのだ。
そこまではよかったが、どの種目にするかで、はたと思考が止まった。短距離か中距離か長距離か、はたまた跳躍競技か、それとも投てきか。これは悩ましい。投てきはやったことがないのですぐに除外したが、走ることも跳ぶことも好きだったので簡単には決められなかった。
そこで、公園に隣接する400メートルトラックで試すことにした。想定する種目は『60メートル走』『400メートル走』『3,000メートル走』『三段跳び』で、最初に『60メートル走』に挑戦した。
走った結果、無理だと思った。ダッシュできる力はなかった。瞬発力は消えていた。となれは、持続力にかけるしかない。そこで、『3,000メートル走』に挑戦した。トラックを7周半するのだ。
最初の3周は快調だった。しかし徐々に苦しくなった。5周目以降はヘロヘロになり、7周目前で力尽きた。フィールドの芝生に倒れ込んで、しばらく動けなかった。ジョギングなら40分ほど走れるようになったが、競技としての長距離は無理だと思った。
となると、残るは『400メートル走』と『三段跳び』ということになるが、既に体力を使い果たしていた。明日挑戦することにした。
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翌日の夕方、三段跳びに挑戦した。先ずは『立ち三段跳び』。助走なしで跳んでみるのだ。
しかし、思い描いた大きな跳躍にはならず、無残ともいえるような結果になった。これくらいは跳べるだろうと思うところに印をつけていたのだが、その遥か手前に着地したのだ。跳躍に必要な筋肉はどこにもなかった。でも、諦めるわけにはいかない。助走をすればなんとかなるのではないかと思い直し、それに挑戦することにした。しかし、立ち三段跳びよりも酷い結果となった。ホップのあと失速し、ステップもジャンプも形にならなかった。おまけにステップからジャンプへ移行する時に左足の膝を痛めたようで、これ以上トライすることができなくなった。それに、走るよりも負担が大きいことに改めて気づかされた。三段跳びは諦めるしかなかった。
残りは『400メートル走』だけになった。消去法という不本意な形なので忸怩たるものはあったが、これに絞るしかなかった。家に帰って、シップを貼って、回復を祈った。



