2月1日の朝、朝食を済ませて気合を入れた。本棚に寝かせていた『人生二毛作』の推敲を始める時が来たのだ。大げさなようだが、自分にとって神聖な日のように思えたし、身を清めたいと思ったくらいだった。
1回目の推敲が終わったのは1週間後だった。原稿には数多の付箋紙が貼られていた。100や200では済まないほどだった。誤字脱字に加えて、てにをはの間違いも多かった。句読点のおかしなところもかなりあった。パソコンでの修正に半日ほどかかった。
その後も推敲をする度に100以上の修正点が見つかった。〈なぜ前回気づかなかったのだろう?〉と思うようなイージーミスも多かった。『推敲をすればするほど文章が磨かれていく』とものの本には書かれているが、それ以前のところでとどまり続けていた。
続けて4回の推敲をした時点で嫌になった。というよりも気持ち悪くなった。同じ文章を何回も読むことに耐えられなくなった。それを妻に話すと、「少し離れた方がいいんじゃない」とアドバイスされた。それに従うことにした。
といっても、することがなかった。散歩も音楽鑑賞も読書も毎日しているので気分転換にはならない。離れるといっても何をすればいいのかわからないのだ。
ところが、何気なくマラソン中継を見ている時、いきなり〈走ってみようか〉という思いが湧いてきた。選手たちの筋肉質な体を見て、刺激を受けたのかもしれない。リタイアしてから少しお腹が出てきたので毎日散歩をして抑止に努めていたが、それでも負荷をかけるような歩き方はしていないので、体重が落ちるほどの運動にはなっていなかった。
現役時代は違っていた。電車の中では常に立っていたし、会社から帰る時はひと駅分歩いてから電車に乗っていた。だから、ウエストサイズは常に変わらなかったし、170㎝、63㎏という体形をキープしていた。それが今では69㎏まで増えて、その分、お腹がポッコリし始めていた。年齢のせいか胸の肉も落ちて下がってきていたので、鏡に映った風呂上がりの上半身は鑑賞に堪えなかった。
よし、走ろう!
3月10日の夜、風呂上りに乗った体重計の数値に背中を押されるようにして決めた。
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翌朝、玄関のシューズボックスから、いつ買ったか記憶が定かではない古いランニングシューズを取り出した。左右共にかかと部分の外側がすり減っていて、履くと、元々のガニ股が更に酷くなったように感じたが、新たに買う余裕もないので、これで我慢することにした。それと、朝晩はまだ寒いので昼食後に走ることにしたし、近所は人の目があるので少し離れた公園まで行くことにした。
昼食のおかずを見て気合が入った。鮭の塩焼きとおひたしと納豆と味噌汁がテーブルに並んでいた。すべて大好きなおかずだった。〈おいしい、おいしい〉と口に出して食べ終え、7年物のトレーナーに着替えて公園まで早足で歩いた。
公園に着くと、屈伸運動や柔軟体操をして体を慣らしてから走り始めた。しかし、体が重くて足が前に進まなかった。太腿はまったく上がらなかった。何年も走ったことがなかったので、足の筋肉がかなり落ちているようだった。これでは幼稚園児にも負けてしまうと気落ちしたが、〈ローマは一日にして成らず〉と叱咤激励して走り続けた。
15分ほど走ると、胸が少し痛くなった。心臓ではなく肺が悲鳴を上げているようだった。最初は呼気と吸気を2回ごとに繰り返していたが、だんだんきつくなって、1回ごとになった頃から違和感を覚えるようになった。肺活量が極端に落ちているのだろう。40歳の頃にタバコを止めて、それから25年ほど経つので肺の機能は改善しているものと思っていたが、いつの間にか老人の肺になっていたようだ。胸板も腹も足も肺もすべて老人仕様に変化しているようだった。
無理は禁物と思い、走るのを止めた。ゆっくり深呼吸をしながらクールダウン歩行に切り替えた。心拍数が落ち着いてくると、ストレッチに移行し、初日の運動は呆気なく終わった。意気込んだ割には情けない結果となり、がっかりして家路についた。
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風呂に入りながら対策を考えた。老人仕様のままでは人並みなジョギングはできないからだ。といって、急に若者仕様にすることもできない。無理なくできることを考えて、頭の中でまとめた。そしてそれを、肺活量増加対策、太腿の筋肉増強対策、胸板強化対策、腹凹まし対策と名付けて、毎日実行することにした。
先ず、肺活量の増加のために深呼吸と息止めをすることにした。これならどこででも無理なくすることができる。毎日続けることも難しくない。
次は、太腿の筋肉増強対策。これは足上げ運動が効果的ではないかと勝手に考えた。立ったままで太腿を90度以上上げるのだ。これを左右50回以上することにした。
その次は胸板強化対策。腕立て伏せが効果があると思って試したが、10回もできずに撃沈した。腕の筋肉も老人仕様になっているようだ。二の腕を触るとフニャフニャだし、力こぶを作っても盛り上がりはほんの僅かだった。これではいけないと思い、別の対策を考えた。そこで思いついた。立ったままの腕立て伏せだ。足を大きく開いて、壁に両手をついて、腕立て伏せの要領で屈伸するのだ。これなら無理なくできそうだ。10回をワンクールにして、日に5クールを課すことにした。
そして最後は腹凹まし対策。すぐに頭に浮かんだのは腹筋運動だった。しかし、何回もしないうちにきつくなって、続けることができなくなった。
では、どうする?
考えたが、単独でやるのは難しい判断し、合わせ技ですることにした。椅子に座って両手を胸の前で合わせて力を入れると同時に腹筋にも力を入れるのだ。これなら胸板と腹筋の両方に効果がありそうだ。息止めも併用できる。一石三鳥のような気がして、俄然やる気が出てきた。
四つの対策運動を日課にし始めて1週間が過ぎると、ほんの少しずつだが走る時間が長くなってきた。スピードを出せるレベルに到達するのはまだまだ先のことだが、例え亀のような速度であっても1時間走れるようになりたいと思えるようになった。それができるようになったら新しいジョギングシューズを買おうと目標を定めて、挑戦を続けた。
2週間後には30分以上走れるようになった。すると、不思議なことに推敲に取り組みたくなった。気分転換ができたせいだろうか、それとも間を置いたのが良かったのだろうか、どちらかはわからないが、推敲に向かう気持ちになったのは嬉しいことだった。



