2か月ちょっとかかって『人生二毛作』の第一稿を書き上げた。さっそくパソコンの『レイアウト』→『余白』→『ユーザー設定』→『文字数と行数』で400字換算を試みると、148枚と表示された。今まで書いた中では最も多い枚数だったが、応募規定の半分にも達していない。結構しっかり書いたつもりだったが、全然足りなかった。
これの倍か……、
思わず天井を見上げてしまった。まだ3か月近くあるとはいえ、先が思いやられた。
*
「どう、進んでる?」
夕食が終わって、いつものように500円ワインを飲んでいる時、妻が遠慮がちに訊いてきた。わたしは首を振るしかなかった。
「やっと半分」
「そう……」
それで会話が終わるかと思ったが、今夜はそうではなかった。
「1月の旅行、そろそろ決めないとね」
小説を年末までに書き上げて、その後1か月間寝かせておくことにしていたが、その間を利用して妻と海外旅行へ行くことにしていたのだ。正月休み期間を避けて1月10日くらいに出発するつもりなので焦る必要はなかったが、そろそろ行き先を決めないといけない時期になっていた。
「どこか行きたいところはある?」
問われたわたしは首を振った。小説のことで一杯一杯で、それ以外のことに頭がまわっていなかった。
「あなたの卒業旅行なのだから、行きたいところがあったら言ってね」
とりあえず頷いたが、頭に思い浮かぶ場所は皆無だった。休みの日にも会社に出かけるような仕事バカだったので、国内旅行でさえ何回かしか行っていなかった。そんなふうだから海外には1回も行ったことがなかった。なんとなくパリとかウイーンとかヨーロッパがいいかなと思ったりはしたが、1月のヨーロッパは日本以上に寒いはずなので気が進まなかった。だから、季節が正反対の南半球がいいかもしれないと思ってはみたが、具体的にどこに行きたいというのは思い浮かばなかった。南半球のことで知っていることといえば、カンガルーとコアラがいるオーストラリアくらいで、その他の情報は持ち合わせていなかった。もちろん、アフリカや南米が南半球にあるのは知っているが、旅行初心者が行くようなところではないと思っていたので、最初から選外にしていた。
「君はどう?」
「私?」
「うん。どうせなら寒い日本を離れて暖かいところに行きたいから、南半球が良さそうに思うんだけど、どこか行きたいところってある?」
「なくはないけど……」
遠慮しているような口ぶりだったので「言ってみてよ」と向けると、「でも、あなたの卒業旅行だから……」と口を濁した。最後まで本心を明かそうとはしなかった。
それは卒業旅行という言葉に縛られているからだと思った。もちろん、わたしの卒業旅行なのだが、〈本当にそうだろうか〉とふと思った。わたしが無事卒業できたのはわたしだけの努力ではない。妻の支えがなかったらどうなっていたかわからなかった。特に最後の5年間は妻が働いてくれたからこそ不要族を楽しむことができた。
いや、違う。その5年間だけではない。仕事バカで24時間戦い続けたわたしを結婚以来支えてくれたのは妻なのだ。そう思った時、妻についてなんにも知らないことに突然気がついた。
妻は毎日、何をしていたのだろう?
その問いはベッドの中まで続き、まんじりともせずに妻のことを考え続けた。
結婚したのは、わたしが31歳で、妻が28歳の時だった。わたしの知人の紹介でお見合いのようなことをして、半年ほど付き合ってプロポーズをした。「結婚してください」という陳腐な言葉だったが、「はい」とすぐに受け入れてくれた。
新婚旅行は妻の希望で沖縄に行った。2泊3日の短い旅だった。本当は海外へ行きたかったらしいが、仕事の関係で長く休むことができなかったわたしに遠慮して沖縄を選んだというのが真相だった。しかし、それでも「楽しかった」と喜んでくれた。
妻は結婚を機に仕事を辞めて専業主婦になった。当時はそういう女性が多かった。妻はひとりっ子だったので子供を欲しがったが、残念ながら子宝に恵まれることはなかった。
でも、どちらが原因かは調べなかった。原因がわかったからといってどうなるものでもないと思っていたからだ。今なら色々な手を打つことができるが、当時はそんなことを考えもしなかった。排卵に合わせてセックスをすることしか思いつかなかった。だから、ただひたすら排卵日前後のセックスに集中し続けた。
そんな状態だったので、結婚以来わたしは一度もコンドームを付けたことがない。それが男にとって羨ましいことなのかどうかはわからないが、妊娠するためにはわたしの精子と妻の卵子が出会わないといけないので、とにかく精子を注ぎ込み続けたのだ。
だが、妻が妊娠することはなかった。それが続くと、次第に自分のせいだと思うようになった。貧弱な肉体のわたしの精子がパワフルなわけはなく、卵子に到着する前に死に絶えているのではないかと思うようになったのだ。だから、妻の卵子に問題があるなどとは一度も考えたことはなかった。ぽっちゃりとして健康そのものの妻に問題があるはずはなく、検査はしなかったが、すべての原因は自分にあると信じ込んでいた。
妻が40歳になった時、わたしは初めてコンドームを付けた。それには理由があった。妊娠の可能性がゼロではないということと、高齢で出産すると危険性が高まるということだった。もし万が一妻が40歳を超えて妊娠したら、それはとても嬉しい半面、多くの危険を内包することになる。母体や胎児へのリスクが高まり、難産や流産の確率も高くなる可能性を否定することはできない。
だから、妻とは何度も話し合った。数えきれないくらい話し合った。それでもなかなか合意には達しなかった。子供を諦めきれない妻が最後まで難色を示したのだ。それでも、危険に晒したくないという説得に最後は折れて、コンドームの装着を受け入れてくれた。10年以上妊娠しなかったのだからこれからもないだろうと思う人もいるかもしれないが、万が一のことを考えると、そんな危険を冒すことはできなかった。
しかし、それは子供を諦めるという宣言以外の何物でもなかった。話し合って納得してくれた妻だったが、いざわたしがコンドームを付けようとした時、口に右手を当てて目に涙を浮かべた。それだけではなく、今まで一度も聞いたことのないようなくぐもった声が喉の奥から発せられた。幾度も発せられた。それは悲痛というものを超えているように感じた。急速に萎えたわたしにコンドームは必要なくなった。妻を抱き締めたまま二人で泣いた。
そんな辛い思いを打ち消したかったこともあり、わたしは一層仕事に精を出すようになった。脇目も振らず働いた。東京支社長になってからは仕事にすべてを捧げた。24時間働く男になっていったのだ。
一方、妻は専業主婦を続けていたので、朝わたしを会社に送り出したあと、掃除や洗濯、買い物が済めば、することがなくなっていたのではないだろうか。わたしの帰宅が深夜になることが多かったから、長時間一人で過ごしていたことになる。
その間、何をしていたのだろう?
子供がいないし、ママ友もいないから誰とも話す機会がないはずだ。買い物の時に一言二言話すくらいだろう。それ以外の時間は読書やテレビで時間を潰していたのだと思うが、わたしにはわからない。というか、そんなことを気にかけたこともなかった。それどころか、気楽な主婦稼業としか思っていなかった。でも、そんなわけはないに決まっている。今頃気づいても遅すぎるが、毎日、昼食と夕食を一人で食べて、眠い目をこすりながらわたしの帰りを待って、わたしが夕食を食べ終えるのをじっと見てて、そのあと台所で片づけをして、わたしが求めれば夜の営みを受け入れてくれた。それが当たり前と思っていたが、実際に妻はどんな思いで毎日を過ごしていたのだろうか?
わたしには何もわからない。愚痴もなんにも言わなかったし、わたしの心の中はほとんど仕事で埋め尽くされていたから、今まで一度もこんなことを考えたことはなかった。
寂しかったのだろうな……、
そう思うと切なくなった。



