翌日の夕方、アルバイトから返ってきた妻は、躊躇いが消えたような表情で「もうしばらく続けるわ」と言った。そして、「変だと思うかもしれないけど」と継いで、本の整理をしているとタイトルや表紙を見るだけで秀作かどうかわかるようになったのだと言った。
「5年も続けているとね、なんとなくわかるようになるの。私より長く勤めている人もそう言ってた。本がね、私に呼び掛けているように感じるの。『ほら、ここに素晴らしい小説がありますよ』って」
そうなんだ……、
その感覚はよくわからなかったが、ちょっと羨ましい気がした。
「それと、あなたの応募作を読んで感想を言うためにも、私自身が優れた読者でいなければいけないでしょう。だから、応募作が完成するまでは続けた方がいいかなって思って」
今度はちょっとグッと来た。まだ新人賞に応募するための小説を書き始めてはいなかったが、妻のためにも受賞できるレベルの小説を書きたいと心底から思った。
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一行も書いていないにもかかわらず、ペンネームは決めていた。それは本名に因んだものだった。
わたしの本名は、三木田幹夫。付いたあだ名が『ミキミキ』。小学4年生の時に悪友が言い始め、中学を卒業するまで友人達から本名で呼ばれることはなかった。
わたしは『ミキミキ』と呼ばれるのが嫌で嫌で仕方がなかった。女性アイドルのニックネームのようで、呼ばれる度に恥ずかしさを覚えた。そもそも、名字が〈ミキ〉で始まるのに、なんで名前まで〈ミキ〉で始めるのか、親のセンスが信じられなかった。
せめて、三木田勇とか、
三木田光とか、
三木田亮とか、
カッコいい名前にしてくれれば良かったのにと、いつもそう思っていた。
それでも、ペンネームを考え始めた時、何故か真っ先に浮かんできたのが〈ミキミキ〉という言葉だった。〈ミキミキ〉という名前の作家は聞いたことがないし、なんといっても覚えやすい。語呂がいいから、一度聞いたら忘れられないと思うし、絶対いけると確信したのだ。
ただ、問題があった。漢字だ。どの字を当てはめるかで迷いに迷った。どうせならカッコ良い漢字にしたかったから、イケてる歌手や俳優の顔を思い浮かべながら字を当てはめていった。
『美木美樹』
『美希美輝』
『美貴美姫』
……、
色々な漢字を当てはめながら、有名な文学賞を受賞している自分を思い浮かべた。カメラのフラッシュを浴びて、インタビューに答えるナイスな自分を夢想した。
しかし、ある時、ふっと我に返った。20代や30代ならまだしも、65を過ぎたジジイが何を浮かれているんだ、と自分を恥じた。
『三木幹』
これに決めた。わたしが生まれてから65年間ずっと一緒だった本名を外すわけにはいかなかった。



