『人生ラン♪ラン♪ラン♪』~妻に捧げるラヴソング~


 ん? 

 突然鳴ったチャイムに、我に返った。顔を上げると、壁に掛けてある丸時計が12時を指していた。長いこと思い出に浸っていたようだ。

 ふ~、

 不意に大きな息が漏れた。パソコン画面に目を戻して、『支社長の喜怒哀楽日記』という乾から送信されたメールに手を這わせた。

 ありがとう、

 囁くように口に出して、頭を下げた。そして、〈君のお陰で自分の想いを表現する楽しさに目覚めることができた。プロになれるかどうかわからないが、小説を書く喜びを知ることができた。これも、あの時君が勧めてくれたお陰だ。本当にありがとう〉と感謝の言葉を胸のうちで呟いた。すると乾の顔が一瞬浮かんできたが、別れを告げるようにスーッと消えた。それに促されるように二つ目のメールを削除した。

 あと一つか……、

 最後のメールを開けた。タイトルは、『バカ野郎!』だった。現支社長宛てのメールだった。でも、発信はしなかった。《下書き》のフォルダにとどめていた。本文には、『バカ野郎!』という文字が99個連なっていた。そのフォントが煮えくり返っていた。それを見ていると、あの時の支社長のクソ顔とクソ声が蘇ってきた。

        *

「送別会も最終日の花束も用意していませんが、最後の挨拶はされますか?」

 トイレを出たところで支社長からそう言われたのは、最終出社日の1週間前だった。その瞬間、〈ぞんざい〉という言葉が浮かんできた。〈邪険〉という言葉も浮かんできた。
 それにしても、あんまりだ。会社のために尽くし続けてきた自分が最後にこんな仕打ちを受けるなんて。信じられない思いで支社長の言葉を反芻した。

〈送別会なし。花束なし〉

 心の中で呟いてから足元に目を落とすと、床がぐらぐら揺れているように感じた。
 何か言いたかった。しかし、何を言っても無駄なことはわかっていた。
 こんな野郎に、
 こんなクソ野郎に、
 こんなド・クソ野郎に!
 感情が(たかぶ)ると、自分でもわかるほど(はらわた)が煮えたぎってグツグツと音を立て出した。口を開けたら熱湯が飛び出しそうになった。しかし、喧嘩をしても意味がないことはわかっていた。誠意のない相手に何を言ったところで響くことはないのだ。というより無駄なのだ。腹を立てるだけ馬鹿々々しいのだ。そう思うと、支社長の顔が(ぬか)に見えてきた。思わずキュウリと茄子(なす)を突っ込みたくなったが、キュウリと茄子が〈勘弁してくれ〉と拒絶する姿が思い浮かんだ。その途端バカバカしくなった。怒りはどこかへ行ってしまった。こんな糠野郎のことなんか、もうどうでもよくなった。

「挨拶はしない」

 わたしは支社長の目を見ずに言った。

「わかりました」

 支社長はトイレのドアを開けて、中に入った。

        *

 ん?

 大きな声が耳に飛び込んできて現実に戻った。支社長の声だった。厳しい顔で𠮟責しているようだった。机の前に立つ若い男性社員が青白い顔でうな垂れていた。

「同じ間違いをするんじゃない、バカ野郎!」

 ひと際大きい声が響き渡った。男性社員は身をすくめていた。

 可哀そうに……、

 面前で怒鳴り散らす支社長の横柄な態度に反吐が出そうになった。

 どっちが馬鹿野郎だ、

 支社長に軽蔑の目を向けたが、そんな事に気づくはずもなく、叱責は続いた。

 ……馬鹿に付ける薬はない、

 どうでもよくなったわたしは視線をパソコンの画面に戻した。そこには、99個の『バカ野郎!』が連なるメールがわたしを見つめていた。

 もうどうでもいい、

 右手の人差し指でDelキーを押して削除すると、メールボックスが空になった。すべてが終わった。パソコンを閉じたあとは、窓を伝わり落ちる雨粒をずっと見ていた。出社最終日の雨、それは、わたしの会社人生を洗い流してくれる雨のように思えた。本当に色々な事があったが、それをすべて洗い流してくれているのだ。そんなことを思いながら見つめていると、窓にしがみついていた小さな雨粒にその上から流れてきた雨粒がぶつかり、大きな塊となってそのまま下の方へ流れ落ちた。

 そういうことだ、
 そういうことなんだ、

 見えなくなった雨粒に自らの姿を重ねた。

 明日になれば……、

 わたしが出社していないことに誰も気づかない。わたしという存在はどこにもないのだ。まるで最初から居なかったように。

 ふう~、

 視線を室内に戻して、オフィス全体を隅々まで見渡した。しかし、誰もわたしのことを見ていなかった。パソコンの画面を食い入るように見つめていた。

 そんなものだ、

 特になんの感慨もわかなかった。

「さて」

 自らに言い聞かせるように呟いてから立ち上がり、ゆっくりと出口へと向かった。

 出口の手前で立ち止まり、そして、振り返った。

「みなさん、さようなら。お元気で」

 社員に対する最後の言葉だった。

「ありがとうございました」と誰かが言ってくれると思っていた。しかし、社員は黙々と仕事をするだけで、誰もわたしのことを見ていなかった。

 あんなに親身になって皆のために頑張ってきたのに……、

 自分が情けなくなった。送別会もなく、花束もなく、御礼の言葉もなく、こんな形で終わるなんて、わたしの会社人生はなんだったのだろうか? 
 また怒りが込み上げてきた。グツグツと沸騰しそうになった。それでも、無理矢理静めた。もうどうでもいいのだ。

 ドアを閉めて、それにもたれかかった。すると背中がドアに張り付き、そのまま動けなくなった。どうでもいいはずなのに、でも、やはり辛かった。目が充血してきたように感じると、握った拳が震えてきた。悔しくてたまらなくなった。それでも耐えた。目を瞑ったら流したくない涙が溢れそうなので、上を向いて必死に目を開け続けた。

「上を向いて歩こう。涙がこぼれないように……」

 坂本九の歌が耳の奥に流れてきた。

「一人ぼっちの夜……」

 無念が、胸の奥から込み上げてきた。我慢するのはもう限界だった。〈バカヤロー!〉という叫び声が喉の奥からせりあがってきた。しかしその時、女性用トイレのドアが開いた。

 もしかして、

 マタハラ被害から復帰した女性社員たちが花束を持って現れるかもしれないと淡い期待を抱いた。でも、そんなことは起こらなかった。最近入ったらしい派遣社員が視線を合わさないようにして社内に入っていった。
 淡い期待を抱いた自分が馬鹿に思えた。一瞬でも色紙やアルバムや花束や女性社員の涙を期待した自分が滑稽に思えた。それでも、未練は続いていた。男性用トイレで誰かが待っているかもしれないと思い、そっとドアを押して中に入った。

 誰もいなかった。鏡に映っているのは酷い顔をした哀れな姿だけだった。ため息をついたが、鏡さえも慰めてはくれなかった。今度こそ本当にどうでもよくなった。

 蛇口のレバーを上げて水を出した。流れる水を見ていると、何故か清めの儀式の特別な水のように感じた。

 そうだ、清めなければならない、

 そう思うと居ても立ってもいられなくなり、一気に洗い流した。バシャバシャとすべてを洗い流した。すると少しはましな顔になった。ハンカチで拭いて髪を整えた。

「もうおしまい!」

 言い聞かすように鏡に向かって呟いた。そして振り向き、トイレから出てエレベーターに乗り込んだ。1階のボタンを押すと、扉が閉まった。40余年に渡る会社員人生が終わりを告げた。