次の日、家を出る前に原稿を妻に手渡した。感想を聞かせてもらうためだ。妻のバイトが休みの日なので、しっかり読んでもらうには最適だった。
「本当に読んでいいの? 辛口なことを言うかもしれないわよ」
「うん。そのほうがありがたい。率直な感想を聞かせて欲しい」
わたしは眠い目をこすりながら家を出て、バス停に急いだ。
*
その日は時間が止まっているように感じた。妻の感想が早く聞きたいのに、いつまで経っても定時にならないのだ。こんなに長い半日を過ごしたことはなかった。
やっと定時1分前になった。することのないわたしはとっくに帰り支度を済ませていた。定時のチャイムが鳴ると同時に会社を飛び出した。
*
「どうだった?」
玄関のドアを閉めるなり台所に急いで、妻に問うた。少しはいいことを言ってくれるかなと淡い期待を抱いていたが、妻は無言のままリビングに向かった。
嫌な予感がした。
あとを付いてリビングに入ると、テーブルの上に原稿が置かれていた。
「これって、何が言いたいの?」
「何って……」
質問の意味がわからなかった。
「読者に伝えたいことは何?」
「伝えたいこと?」
「そう。主題と言い換えてもいいんだけど、何を訴えたいの?」
「何をって……、それは……、タイトルの通り『欲望の代償』ということだけど」
「悪いことをしたら罰せられるということ?」
「うん。そうだけど」
妻は首を傾げた。
「気を悪くしないでね」
そこで妻は間を置いた。気まずい雰囲気がじわ~っと広がったように感じた。
「読んでいて何も感じなかったの。単にインサイダー取引の事例が書いてあるだけで、はっきり言って面白くもなんともなかったの。きついこと言って悪いけど、このレベルでは小説とは言えないと思うわ」
グサッと来た。結構自信があったからそこそこの評価をしてもらえると思っていたが、そうではなかった。バッサリと切り捨てられた。
「事実を書いているだけでは小説とは言えないと思うの。その裏側にある登場人物の内面を描かないと何も伝わってこないと思うの」
「内面?」
「そう、内面。葛藤とか悩みとか色々な心情があるでしょう? それが書いてあるから読者は物語に惹き込まれるし、登場人物に思いを寄せることができるのよ」
う~ん、
「次はそういうことを考えながら書いてみて。そうすれば小説らしくなると思うわよ」
それだけ言い残して妻は台所に戻っていった。
夕食は大好物のおでんカレーだったが、味蕾はすべての味覚を拒否していた。〈砂を噛むよう〉という表現が実感としてわかったのが今日唯一の収穫だった。
*
その週末の夜、高校生の時にバンドを組んでいた友人と久々に夜の街に繰り出した。気心が知れた彼との食事は楽しくてつい酒が進んでしまい、気づいたら10時になっていた。慌てて店を出た。
駅に急ぐと、うまい具合に快速電車が来て乗ることができた。これを逃すと最寄り駅からの最終バスに間に合わないのでほっと胸を撫で下ろした。
吊革に掴まって車内を何気なく見ていると、ドア付近にいる二人の男性が目に留まった。真っ赤な顔をした中年男性と青白い顔色の若者だった。上司と部下のような感じで、何やら話していた。わたしは思わず耳をそばだてた。すると、
「だ・か・ら、お前はダメなんだよ!」
若者のおでこを小突きながら中年男が言い放った。かなり酔っているようで、呂律が怪しかった。
「はい、すみません」
小柄で細身の若者が上目遣いに中年を見た。青白い顔の彼は神経質そうに頬を引きつらせていた。
パワハラに違いない!
わたしは確信した。会社で虐めて、飲み会で虐めて、帰りの電車の中でも虐めているに違いなかった。立場を利用して弱い者虐めをしているに違いなかった。
その後も二人のやり取りを聞いていたが、次第にムカムカしてきて、パワハラオヤジを成敗したくなった。しかし、電車の中で何かができるわけではない。握った拳の持っていきようがなかった。仕方がないので、頭の中で成敗することにした。二人を主人公にした掌編を考えて、その中で成敗するのだ。
パワハラオヤジの顔をじっくりと観察した。すると、悪代官という言葉が浮かんできた。
悪代官か……、
そうだ、間違いなく悪代官だ。とすれば、彼の名前は〈亜久台貫太郎〉がいいかもしれない。よし、そうしよう。
では、青白い顔色の若者はどうだ?
気弱そうで頼りなさそうな感じしかしない。でも、パワハラオヤジに対していつか仕返しをしてやろうと思っているのではないだろうか。多分そうだ。それなら、彼の名前は〈離弁次郎〉がいいかもしれない。よし、そうしよう。
二人の名前が決まったので、吊革につかまりながら目を瞑った。その瞬間、想像と空想と妄想に掻き立てられて、亜久台と離弁の物語が始まった。



