不要族になってから3か月が過ぎた。部下なし、仕事なしの生活にもだいぶ慣れてきたので、「おはよう」と今日も普通に挨拶をして自席についた。
パソコンを開けた時、ふと視線を感じたので顔を向けると、後任の支社長が訝しげな表情でこちらを見ていた。〈一切仕事を与えなければたまらなくなってすぐに辞める〉と思っていたのだろうが、いつまで経ってもわたしが元気なので不可解なのだろう。
まあ、一般的には奴の考える通りだ。会社に行っても仕事がないことは苦痛以外の何物でもない。針のむしろに置かれればどんどん追い詰められて、精神的に参っていく。そして居たたまれなくなって、辞めざるを得なくなるだろう。
しかし、5年後の目標があるわたしにはそれは当てはまらない。無限の自由時間が与えられたのと同じだからだ。なんと言っても作家修行にすべての時間を当てられるのはありがたい。それも給料を貰ってだからたまらない。これを幸運と言わずしてなんと言えよう。奴には到底わからないだろうが、わたしは今最高に幸せなのだ。
内心ほくそ笑みながら、パソコンを見る振りをしながら作家修行を続けた。人物描写の研究のために社員たちの言動を注意深く観察するのだ。ちらちらとフロアに目を向けながら今日のターゲットを探した。すると、また支社長と目が合った。
そんなに早く辞めてもらいたいのか、
そう思ったら胸糞が悪くなって唾を吐きたくなった。〈そっちがそうならこっちだって〉という気になった。といっても目に見える形で何かができるわけではない。空想の中で仕返しをすることにした。習作の主人公にして嘲笑ってやるのだ。
そうと決まれば善は急げで、両手をキーボードの上に置いて臨戦態勢に入った。しかし、指が動かなかった。奴のことをほとんど知らないことに気づいたからだ。同じ部署で働いたことがなかったし、個人情報保護法の観点から社内の人事データは厳密に管理され、奴の履歴を見ることもできないのだ。
これでは書けない、
せっかく習作の中でいじめ倒そうとしたのに、当てが外れてしまった。しかしその時、妻にプレゼントされた本の言葉がふと蘇ってきた。それは、『小説は何を書いても構わない』という一文だった。
そうか、何を書いても構わないのだ。
なんだっていいのだ。
ということは、事実に基づかなくてもいいのだ。
想像力を働かせばいいのだ。
奴がどんな人間か、それをわたしが想像すればいいのだ。
そう思うと一気に気が楽になり、頭が働き始めた。
まずは名前から。もちろん小説上の名前だ。どういうのにすればいいかすぐには思いつかなかったが、まともな名前を付けても面白くないので、滑稽な名前を考えることにした。
初めに思い付いたのは〈礼無失男〉だった。上辺は丁寧だが一皮むけば礼儀の欠片もない奴だからというのが理由だ。次に思い付いたのが〈中空管吉〉。中身がない奴だからだ。しかし、どれも〈これだ!〉という感じではなかった。もうひと捻りしたかった。
唸り続けて30分ほど経った。それでも納得できる名前は思いつかなかった。考えるのも疲れてきたので、リフレッシュするために濃いコーヒーでも飲もうと給湯コーナーへ向かった。
カップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注いでかき混ぜている時だった、どういうわけか突然降りてきた。〈蔭木侮太夫〉。慇懃無礼な奴にぴったり当てはまる名前だった。
よし決めた。
これにしよう。
名前が決まれば一気呵成だ。
すぐに始めよう。
奴の日常を想像しまくるのだ。
あとは人称を決めればいい。一人称か三人称か、ちょっと悩んだが、三人称一元視点に挑戦することにした。急いで席に戻って、目を瞑って掌編習作を頭に描いた。
*
45歳で支社長になった蔭木侮太夫は、自分が出世頭だと自惚れていた。その上、顔もスタイルも申し分ないから、女性社員からは憧れの目で見られているはずだと思い込んでいた。それと、自分の命令に逆らう部下はいないので、全員が自分に対して一目置いていると確信していた。それに、本社も自分のことを高く評価しているので、役員になるのも間違いないと信じて疑わなかった。順調というただ一つの言葉が頭の中に居座っていた。蔭木はそれを自惚れだと思ったことはなかったし、一度も疑ったことがなかった。順調、快調、絶好調なのだ。しかし、会社を一歩出ると、それはガラガラと崩れ落ちた。家では誰にも相手にされないのだ。
「トイレで新聞読むのは止めてよ」
妻が甲高い声を発した。
「もう、お父さん、オナラしないで」
高校生の長女が鼻をつまんだ。
「私がご飯食べている時に爪楊枝でシーハーしないで」
中学生の次女が顔をそむけた。それだけではない。妻と娘二人が楽しそうに話している時に仲間に入ろうとすると、「お父さんには関係ないの」と弾き飛ばされた。家ではどこにも居場所がなかった。
「次の出張はいつ?」
妻と娘たちは彼の不在を期待した。
「あんまりだよな~」
蔭木はふてくされて寝るしかなかった。
翌朝、妻はいつものように起きてこなかった。たまらなくなって朝ご飯を催促すると、「冷蔵庫におかずを作り置きしてあるからチンして」と布団を頭まで被って横を向いた。 弁当は今日もなかった。妻が弁当を作ってくれたのはいつの頃だったか思い出すことはできなかった。仕方なくレンジでチンしたおかずを食べたあと、コーヒーを飲んで、トイレに向かった。いつもの習慣、個室で新聞を読むためだ。しかし、便座に座った途端、ドアを激しく叩かれた。
「早く出て」
長女からの催促だった。まだ用を足していなかったが、しぶしぶ出ると、長女が睨んでいた。それだけでなく、妻の口癖を真似て、「トイレで新聞読まないでって言ってるでしょ!」と一瞥された。それが余りにも似ていたので呆然としていると、すぐに次女がやって来て叫んだ。
「お姉ちゃん早く!」
「そんなこと言ったって……」
ドアの向こうからくぐもった声が聞こえた。
「なんで家にはトイレが一つしかないのよ。支社長だったらトイレが二つある家を建ててよ」
次女の怒りの矛先が蔭木に向かった。
「なんで俺が責められなきゃいけないんだ」
便意を我慢するために肛門をぐっと締めた蔭木が、青白い顔で呻いた。
*
『蔭木侮太夫の惨めな日常』とタイトルを付けて、目を開けた。その瞬間、笑いが込み上げてきたが、ぐっと堪えてパソコンを覗き込んでいる奴の横顔をちらりと見た。すると、「はっくしょん」といきなり大きなクシャミをして、キョロキョロと辺りを見回した。それを見てまた可笑しくなったが、口に手を当てて我慢した。人の噂とクシャミは関連がありそうだと改めて納得しながら。



