『人生ラン♪ラン♪ラン♪』~妻に捧げるラヴソング~


 出社後、原稿を読み直して若干修正を入れたのち、乾に送信した。もしかしてこれが最後になるかと思うと微妙に心が揺れたが、それも朝礼が始まるまでだった。その後すぐに営業会議が始まったので、頭から完全に消えていた。

 営業会議は昼を過ぎても終わらなかった。ライバル会社が発売した新製品が予想外に伸びており、その対抗策を検討するのに時間がかかったからだ。結局、結論は出ず、来週再度検討することで終わらせたが、シェアが食われているという分析結果が頭から離れないまま昼飯を食べに外へ出た。

 時計の針は12時30分を指していた。立ち食いそば屋へ直行して、肉蕎麦といなり寿司2個を急いで食べた。

 会社に戻ったのは12時52分だった。1時に来客があるので、歯磨きとトイレをさっと済ませて席で待っていると、時間通りに客が来たので、応接室に向かった。

 1時40分に客を見送って、席に戻った。椅子に座った途端、原稿のことが頭に浮かんだ。急いでメールを確認すると、乾から返信が来ていた。一瞬躊躇った。返信が来ていることは悪いことではないはずなのだが、クリックしようとしても指が動かなかった。

 しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、〈エイヤ〉で開封した。すると、ニコチャンマークが目に入った。それも、3個もついていた。

 やった! 

 思わず机の下で拳を握ったが、よく見るとニコチャンマークの下に「リトマス試験紙は真っ赤に染まっています」と書き添えられていた。

 真っ赤?
 ん? 
 どういう意味だ?

 首を傾げながら、その下の文章に目をやると、「酸性です」と書いてあった。

 酸性? 
 ん? 
 なんだ? 
 酸性?

 しばらく考え込んだ。

 酸性……、
 酸性……、
 酸性……、
 ……、
 そうか、賛成か!

 なるほど、さすが乾。彼女の文才とユーモアは半端ない。感心しながらも、ニコチャンマーク3個をしばらくニヤニヤと見つめてしまった。

 それを閉じると、ジワ~っと喜びがこみ上げてきた。この1か月の苦労が報われたことがとにかく嬉しかった。〈今日はシャンパンで乾杯だ〉と思うと、スキップして酒屋に向かう自分の姿が思い浮かんだが、ハッとして、すぐにその残像を消した。そんなことを考えている場合ではなかった。浮かれている場合ではない。念には念を入れなければならない。文面を再確認するために添付ファイルを開けると、『ご挨拶』の文字が目に飛び込んできた。

『支社長通信:ちょっとよろしいでしょうか』 ご挨拶  東京支社長 三木田幹夫
 
「平素は弊社の各製品をご愛顧いただき、誠にありがとうございます。また、『ゆり通信:共働き女性の喜怒哀楽』をご愛読いただき、重ねて御礼申し上げます。
 さて、この度、わたしも皆様とのコミュニケーションの輪に参加させていただきたく、メルマガ『支社長通信:ちょっとよろしいでしょうか』を始めさせていただくことになりました。『ゆり通信』共々よろしくお願い申し上げます」  

 第1回『もったいない』

「昨今の新聞やテレビのニュースをご覧になってご存知のことと思いますが、食品ロスについて報道がありました。日本の食品ロスは年間600万トンを超えていて、これは国民一人が毎日お茶碗1杯のご飯を捨てているのと同じなのだそうです。つまり、日本全体で1億2,000万杯のご飯が毎日捨てられているということです。なんともったいないことをしているのでしょう。
 食品ロスの内訳は事業系と家庭系に別れていて、それぞれ約300万トンだそうです。事業系では、売れ残りや食べ残しに加えて、店からの返品に伴う廃棄が多いようです。家庭系では、圧倒的に食べ残しによる廃棄が多いようです。もったいないですね。
 世界では飢えに苦しむ人が8億人以上いると言われています。栄養不良で発育が阻害されている子供が1億人以上いるという報告もあります。世界は飢えているのです。それなのに日本人は食品を無駄にし続けています。これでいいのでしょうか?
 いいわけありませんよね。わたしたち日本人は余りにも恵まれ過ぎているために食べ物を粗末に扱いがちで、食べ残してもなんとも思わなくなってしまったことが食品ロスの原因になったと思いますが、ではどうしてそうなったのでしょうか?
 わたしが子供の頃は、ご飯を一粒でも残したら、『(ばち)が当たるぞ。お百姓さんに怒られるぞ』と両親からきつく叱られたものです。今の親は子供にこんなことは言わないのでしょうか。三度三度ご飯が食べられることを有難いと思い、だからこそ、食べ物を大切にしてきた日本人の心はどこに行ったのでしょうか。
 世界の人口が80億人を超え、100億人に到達するのも遠い未来のことではありません。そうなったら、食糧不足が来てもおかしくないのです。今のような無駄な廃棄を続けていたら人類は破滅してしまうかも知れません。ですから、すべての資源には限りがあり、大切にしなければならないという認識を一人でも多くの人が持たなければなりません。そして、行動を変えていかなければならないのです。
 一人一人の『もったいない』という気持ちと行動が、人を、そして、地球を救います。ですので、ご飯を一粒も残さず食べることから始めませんか。                    
 最後までお読みいただき、ありがとうございました」

        *

 その後、乾がメール配信システムを使って一斉送信すると、メルマガ『支社長通信:ちょっとよろしいでしょうか』がわたしにも届いた。その途端、気になってもう一度、開いた。今度は読む側として読み返した。すると、どんな風に受け取られるのか、急に不安になった。

 ちょっと偉そうかな、
 お叱りを受けるかな、
 それとも無視されるかな、

 さっきまでと違って、不安がどんどん増幅してきた。

 止めときゃよかったかな、

 不安が後悔に変わった。文面から目を離せなくなり、何度も読み返した。

 やっぱり止めときゃよかったかな、

 後悔に押しつぶされそうになった時、誰かが近寄ってくる気配を感じた。

「支社長、そろそろお時間です」

 取引先への同行に出発する時間になっていた。心の整理はついていなかったが、仕方がないのでパソコンを閉じて、背広の上着を着て、バッグを手に持った。

 会社を出る時に乾の顔にそっと目をやったが、彼女は普段通りの表情でパソコンに向かっていた。それでほんの少しホッとしたが、不安な気持ちが消え去ることはなかった。

 取引先へ向かう電車の中や道すがら、部下から何度も話しかけられた。でも、曖昧な返事しかできなかった。メルマガの反応のことで頭がいっぱいになっていた。