『人生ラン♪ラン♪ラン♪』~妻に捧げるラヴソング~


 3日後の午後3時、わたしは本社の役員会議室で常務に向き合った。
 丁寧に挨拶したが、ニコリともしなかった。余り機嫌はよくないようだった。穏やかに会話をする雰囲気ではなかった。いたたまれなくなって説明を始めたが、腕組みをして、口をへの字に曲げている姿は、ちょっとでも隙があれば見逃さないぞというような雰囲気を漂わせていた。

 案の定だった。説明を終えると、すかさず厳しい声で責められた。

「考えが甘いんじゃないか? 歳暮限定品を通販で通年販売だと? なんだ、それ。夏のクソ暑い時に3,000円もするおでんセットを誰が買うんだ。冷製おでんなんて売れるわけないだろ。それに、美容だって? おでんに美容を期待する客がいると本気で思っているのか? そんなわけないだろう。なんの検証もできずに終わるのが目に見えているのに、それがわからないのか。それより、もっと心配なことがある。百貨店のバイヤーの怒りだ。スーパーのバイヤーだって何を言ってくるかわかったもんじゃない。そもそも君は彼らに理屈が通用するとでも思っているのか? そんなことはあり得ない。バイヤーを漢字に直すと〈理不尽〉と書く。冗談を言っているんじゃないぞ。なんでもかんでもクレームをつけてくるのが奴らの習性なんだ。侮ったらひどい目に遭うぞ!」

 威圧するような表情に一瞬固まりかけたが、それでもなんとか声を絞り出した。

「仰ることは、その通りだと思いますし、十分に理解しております。バイヤーを甘く見てはいけないと思っています」

 常務の気を落ち着かせるために、従順さをアピールして言葉を継いだ。

「しかし、彼らもビジネスマンです。自社に被害がないと思われることにまで口を出してくるとは思えません。それに、彼らは暇ではありませんから、自分の守備範囲外のことには関心がないと思います。ですので、もしクレームが来たとしても、しっかり説明すれば必ずご理解いただけると思います」

 それでも、常務は納得しなかった。というよりも、〈わかってないな〉というような表情になって、貧乏ゆすりを始めた。

「だから君は甘いんだよ。楽観的過ぎるんだよ。もっとシビアに考えないと足元をすくわれるぞ」

 結局、その日は常務の承認を得ることができなかった。帰りの新幹線で飲んだビールは苦かった。

        *

「見本を作りましょう」

 翌日、常務が反対していることを伝えても,乾は諦めようとはしなかった。

「バイヤーに対する心配がお強いようですので、その懸念を取り除くことが最優先だと思います。そのためにも、ネーミングと包装、JANコードを変えた商品を見ていただく必要があります。実際に見ていただければ、その違いを理解していただけるはずです。〈百聞は一見に如かず〉と言うではありませんか」

        *

 早速、彼女は印刷業者に頼み込んで、1週間でその見本を作り上げた。

「四季の花々をデザインしてみました」

 包装紙には、桜、バラ、ユリ、シクラメンが美しく咲いていた。モノトーンで何の変哲もない歳暮用の包装紙とは比べものにならないくらい素敵だった。それだけでなく、予想外の提案をぶつけてきた。

「百貨店の歳暮用セットは『プレミアムおでんセット』というネーミングですけど、通販用は『健やかに美しく素敵なあなたへ』というネーミングにしてみました」

 どうでしょう、というような表情になったあと、自信ありげな笑みを浮かべた。わたしにはまったく考えつかないネーミングであり、包装紙のデザインだった。しかし、それがいいように思えた。女性の心をつかむには女性の声を反映させるのが一番に違いないからだ。

「これなら百貨店のバイヤーがクレームをつける心配もないし、スーパーマーケットのバイヤーも、自社の店頭で扱う製品ではないことを理解してくれると思う。さっそく、担当役員に見せてくる」

        *

 アポを取って、その日の内に大阪へ移動した。そして、ホテルで何度も説明の練習を繰り返した。今度「NO」と言われたら後がないからだ。酒を一滴も飲まず、深夜までそれを続けた。

 翌朝、ホテルの窓から外を覗くと、どんよりと曇っていた。嫌な予感がしたが、ブラックコーヒーでそれを飲み込んで、会社へ向かった。

 常務は今日も不機嫌そうな顔だった。見た瞬間、嫌な予感が蘇ってきたが、〈この人には機嫌のいい時がないのだから気にすることはない〉と言い聞かせて、説明を始めた。

 その間、常務は歳暮専売品と通販専売品の包装紙を見比べながら、前回と同じように口をへの字に曲げて聞いていた。それでも、説明が終わっても速射砲の非難が飛び出してくることはなかった。目の前の商品を睨みつけて、どうイチャモンを付ければよいかと、考えあぐねているようだった。わたしは恐る恐る口を開いた。

「スーパーマーケットで売っている商品とは別物だということは一目瞭然ですから、スーパーのバイヤーはクレームの付けようがないと思います。そして、百貨店のバイヤーも、見た目がこれだけ違って、更にネーミングとJANコードが違うのですから、クレームはつけられないと思います。いかがでしょうか」

 しかし、問いには答えず、常務は眉間に皺を寄せた。一気に不安になったが、もう一押し頑張った。

「テスト・マーケティングということで、ご承認いただけないでしょうか?」

 じっと待ったが、またもや返事はなかった。心が凍りそうになったが、ふと、あることに気がついた。常務が貧乏ゆすりをしていないのだ。もしかして、と思っていると、苦虫を噛み潰したような声が耳に届いた。

「何かあったら君の責任だからな。俺は責任を取らないからな」

 常務はわたしを一瞥して、部屋を出て行った。

 ドアが閉まった瞬間、ほっとして腰が抜けたようになった。そのまましばらく動けず、次に予約している人がドアをノックするまで応接室に居続けた。

 会社を出ると、雲間から太陽が顔を出していた。祝福してくれているように感じたので「ありがとう」と呟くと、乾の顔が浮かんできた。彼女のおかげだった。今度は東京の方に向かって「ありがとう」と呟いた。