「次は、」
車内のアナウンスで現実に戻った。よく通る声で降りる駅の名を告げた。それは毎日聞き馴染んだ駅名だったが、明日からは聞くことのない駅名だった。この駅で降りるのは今日が最後なのだ。もう二度とこの駅で降りることはない。
電車のドアが開き、ホームに押し出され、煽られるように階段を上り、押されるように改札口を出た。すると、ム~っと纏わりつくような湿気が襲ってきて、耳のうしろから汗がじわ~っと浮いてきた。思わずハンカチを当てた。
改札口の先の上り坂を傘をさして前傾姿勢で歩くと、額に汗が浮いてきた。でも両手が塞がっているので我慢していると、流れてきた汗が目に入って沁みた。慌てて雨に濡れないところに駆け込んで、ハンカチで拭った。
駅と会社の中間くらいのところまで歩いていくと、何かまごつくような動きをしている人を見かけた。目の不自由な人のようだった。傘は持たず、フード付きのレインコートを着ていた。
「なにかお手伝いできることはありますか?」
その人を驚かせないように慎重に声をかけた。すると、「駅の方角がわからなくなりました」とその人は訴えた。
「お連れしましょう」
杖を持っていない方の手をわたしの腕にかけてもらって、駅まで引き返した。
なんとか駅までお連れし、改札口で「お気をつけて」と声をかけると、わたしの方に向って何度もお辞儀をした。〈少しでもお役に立ててよかった〉と思いながら、その人の姿が見えなくなるまで改札口で見送った。
もう一度会社へ向かうと、雨は強くなっていた。会社に着いた時には、靴だけでなくズボンの膝から下がびっしょりと濡れていた。ビルの玄関口で傘の水滴を振り落としたあと、妻が持たせてくれた小さなタオルでズボンと鞄と靴を拭き、エレベーターに乗った。
*
「おはよう」
いつものように声をかけて、自分の席に座った。そして、「ありがとう」と机と椅子に頭を下げた。
明日からは誰が主になるのだろうか?
ふとそんなことが頭を過ったが、意味がないのでその考えを消し、机の引き出しを開けた。空っぽだった。机脇の棚の中も空っぽだった。紙の資料や書籍はすべて処分が終わっていた。
パソコンを立ち上げた。ファイルはほとんど残っていなかった。ワードの文章も、エクセルの表も、パワーポイントもすべて削除していた。
あとは、メールだけ。メールが3通だけ。削除できなかったメールが3通残っていた。それらのメールはどうしても削除できなかった。血と汗と涙が詰まったメールであり、分身のようなメールだったからだ。そう簡単に削除することなどできるはずはなかった。それでも、いつまでも残しておくことはできない。今日が出社最終日なのだ。
日付の一番古いメールを開けた。『ネット通販への取り組み』というタイトルだった。それは、わたしの想いが詰まったメールだった。読み進めるうちに、苦楽を分かち合ったメンバーの顔が浮かんできた。



