第八話 夏の診療所(エピローグ)

 新学期の体育館は、乾いていた。島の体育館がいつも潮の粒を抱え、床板の奥まで湿りを隠していたのに対して、都会の床はワックスの匂いを鋭く返し、足裏の水分をあっという間に持っていく。靴底のゴムは軽い高音で鳴り、声は天井の梁を跳ね返って、細く、よく通る。
 蓮は部室のホワイトボードに新しい目標を書いた。黒いマーカーを走らせる手の動きが、自分の呼吸の速度とぴたりと合っているのを感じながら、四角い枠の中に大きく三つの文字を置く——「残 心」。
「読み方は知ってるな」
 部員たちが頷き、何人かは気恥ずかしそうに笑った。新しい一年は、顔つきもまだ春の薄さを残している。
「でも、意味は人によって違う。今日は、俺の意味を言う」
 蓮はキャップを閉め、板書から一歩離れる。
「勝っても負けても、呼吸を置いてくるな」
 部室が一瞬、静かになる。外ではバスケットボールが硬い音を響かせ、遠くの廊下を走る靴の足音が重なる。
「一本が決まったあと、礼をするまでのあいだ。旗が上がって笑いたい瞬間や、負けて肩が落ちそうな瞬間でも、呼吸は続く。切るな。切れて、戻って、続く。それを自分でやれるようになったら、試合の勝ち負けより前に、次の一手を自分で選べる」
 前列の一年が手を挙げた。「勝たなきゃって思って、すぐ息が早くなるのは、どうすれば」
「吐く」
 蓮は笑って、部室の隅の窓を少し開けた。街の乾いた空気が入り込み、埃が小さく揺れる。
「吐けば、入る。吐いて、前の一本を手放す。手放して、次に足を置く。島で学んだことだ」
 島、という言葉に、何人かの顔がわずかに向きを変えた。蓮はその視線を受け止め、薄いチョークの粉が指先に乗ったままの感覚で、合宿計画の紙を掲げる。
「この冬、海の向こうで素振りをする。潮の風で肩甲骨が勝手に動く場所だ。行きたい者は来い。行けない者も、ここでやれることをやる。残心は、場所に依らない」
 声の高さをひとつ落とすと、部室の空気が少し沈み、蓮はそれを合図に「解散」と言った。解散の合図は軽く、しかし、軽さの中に次の稽古の重さがあった。
 同じ頃、静は保健室で吸入器の蓋を開けていた。白いプラスチックのキュッという音が、都会の校舎の静けさにすっと混じる。保健室のベッドは綺麗に並べられ、白いカーテンは真っ直ぐで、島の診療所の網戸が風に鳴らすような音はここにはない。
「沖田先輩、これで合ってますか」
 机の向こうで、二年の男子が吸入器を握っている。彼の指先は少し汗ばんで、ボタンに触れるのをためらう。
「合ってる。けど、吸う前に、吐く」
「吐く……」
「そう。まず、ふーって長く。肩を上げない。お腹の奥に風船をゆっくりしぼませる感じ」
 静は椅子から立ち、彼の背中に手を置いた。肩甲骨の下、島で何度も触れた場所。指先で呼吸を聴く。
「吐けば、入る。入る空気は、こっちが用意する」
 男子は真剣に頷き、ふーっと吐く音が保健室の時計の針と重なった。
「いい。じゃあ、吸う。秒を数えるぞ。いち、に、さん」
 保健室の先生が隣で見守りながら、「その言い方、いいね」と小さく笑った。
「島で?」
「はい。じいちゃんに教わって」
 島の孫娘の笑い声が、一瞬だけ保健室の白い天井に浮かんで消えた。静は彼に吸入後のうがいを教え、記録の用紙に丸をつける。
「“吐けば入る”って合言葉、部活にも広めたいです」
「広めすぎると、安くなる」
「じゃあ、必要な人にだけ」
「それがいい」
 男子は笑い、ケースをポケットに戻した。「ありがとう、先輩」
 その笑顔の軽さが、静の胸にゆっくり沈み、島の重い湿り気と混ざってちょうどよくなった。
 放課後、二人は河川敷に降りた。街の河川敷は、島の堤防より匂いに薄く、風は埃を細かく砕いて運ぶ。がらんとした空き地に、二人は面と胴を置いた。川面は陽を貼り付けたままゆっくり動き、遠くの高架を走る電車の音が海鳴りの代わりに胸を叩く。
「やるか」
「やろう」
 面紐を結びながら、静は指の腹に島の塩を探した。見つからなかったが、代わりに、夏の夜の発電機の低い唸りが喉の奥に戻ってきた。蓮は竹刀を握り、足の裏で地面の微かな傾斜を確かめる。
 合図はない。間が、合図になる。
 すり足が砂利の上で小さく鳴り、二人の影が寄っては離れる。蓮の気、静の気。風を挟んだ距離が、突然、海の見えない水脈のように繋がる瞬間——
「面!」
 竹刀が触れ合う瞬間、海鳴りの残響が胸を打った。島の堤防の風、あの日の灯、台風の夜の刻み。音が重なって、ひとつにほどける。
 静は一本を取られ、面の中で笑った。「負けるのがこんなに嬉しいのは、お前だけだ」
 蓮は面を上げ、汗を拭いもしないで息を合わせた。「俺らは勝ち負けでつながってない」
「知ってる」
「でも、勝ちたいのも、知ってる」
「うん。勝ちたい」
 二人はもう一度構え、今度は静が、蓮の踏み込みの音の半拍前に、自分の息を置いた。竹刀が擦れて、空気が鳴る。互いの残心が、川面の光の上で目に見えない線を描いた。
 夜、静の机には祖父のノートのコピーと、島の子どもたちからの手紙が並んだ。封筒は色とりどりで、猫のシールや、釣り針の絵が無邪気に貼られている。便箋の端に書かれた文字は大きく、ところどころに波の絵や灯の絵が混ざる。
「しずにいちゃん、ふゆにまたきて。ふゆのかぜはいたいよ」
「はくのがさき、まいにちやってる」
 読みながら、静は胸の奥が少しだけ痛くなるのを、痛みとしてではなく、力の使い道を教える信号として受け取った。机のライトは柔らかく、紙の白さを過剰に強くしない。
 ノートの余白に、静は自分の字で書き加える。
——二〇二五年夏、精霊流し、台風の夜、手で押した呼吸。蓮の手の温度。
 ペン先が紙の繊維に触れ、すこしだけ引っかかる。そのひっかかりごと、呼吸が頁に写る。
 さらに書く。
——冬馬の穴、形、いまも合わず、縁はやわらかく。孫娘の「こわい」を分けた、アンブバッグの弾力。じいちゃんの「止まらずに座る」。
 言葉を置くたび、ノートが地図の精度を高めていく音がする。線と線が交わり、知らない道が増える。地図は、未来に向けて描かれる過去だ、と静は思った。過去を地図にすることで、未来の呼吸の仕方を準備する。
 勉強机の反対側で、蓮がノートパソコンを閉じる音がした。
「何、見てた」
「大学の公開講座。地域医療の枠が思ったより開いてる。公衆衛生、疫学、地域包括。どれも、現場に戻るための言葉みたいだった」
「帰り道に、言葉があるのは、いい」
「うん。俺、剣道を続けながら、地域の肺になる場所を作りたい。島だけじゃなく、どこかの町でも」
「風と火だな」
「風と火?」
「じいちゃんが言ってた。古いものは燃え残り、火種になる。新しいものは風。風がおらんと、火は回らない」
「じゃあ、お前は?」
「火を見ていたい。火を見ながら、言葉を置く仕事。教育か、地域支援か、書くことか。医者じゃないけど、そばにいるやり方を、増やす係」
 蓮は「いい」と言って笑い、机に広げた旅程表に手を置いた。
「冬の便、調べた。フェリーは減便だけど、年末直前は動く。あっちの宿、空き家のほう、冬は寒いけど布団が増えるって」
「体育館、使えるかな」
「使える。町内会長が『薪ストーブ持ってきたらいい』って」
「持ってく?」
「火災報知器が鳴るからやめろって保健師さんに言われた」
 二人は同時に笑った。笑いは軽く、笑いの軽さを支える厚みは夏より増している。
 計画を詰める合間、静のスマホに新しいメールが届いた。件名だけで誰からか分かる——島の孫娘からだ。
「“おばあちゃん、海の道を見つけたと思います”」
 静は声に出して読み、胸の真ん中で文字を一つずつ噛みしめた。
「返信、どうする」
「“灯は、胸からも流れる”って書く」
 送信を押す指先が一度だけ震え、震えが収まるのを待ってから押した。その一拍が、台風の夜の刻みと重なる。
 窓の外が静かになった。冷たい空気が、ベランダの古い金物をひんやりさせ、遠くの交差点の信号が色だけで踊る。テレビの天気予報の声が階下から薄く上がり、「今夜、都心でも初雪の可能性が」と言った。
 ふたりでベランダに出る。夜の空は浅く、しかし、星は見えない。雲が街の光を返している。照り返しのオレンジの下で、吐いた息が白くなる。
「降ってきた」
 蓮が肩をすくめると、黒い袖に小さな白がひとつ、そしてまたひとつ、溶ける前の短い形でとどまった。
 静は吸気を深く取り、ゆっくり吐いた。
「俺はこれからも、生きたい。お前と」
 言い終える前から、胸が痛く、しかし、痛みの向こう側に座る椅子が確かにあるのが分かった。
 蓮は頷き、肩を並べる。並べた肩が、冬の乾いた空気に適応するまで、しばらく黙った。
「生きよう」
 短い言葉が、雪の粒の落ちる音と重なった。雪の音は聞こえない。それでも、確かに、聞こえた。
 部屋に戻ると、机の上のノートの余白がまだ呼吸しているように見えた。静はペンを取り、最後の一行を置いた。
——灯は遠いまま、消えない。胸の奥で、誰かの息を支えた熱として、今も微かに揺れている。
 ペン先を離すと、紙が乾く音がした。
 蓮は旅程表を折りたたみ、封筒に入れた。封筒は軽い。だが、その軽さに、船の重さが結びついている。
「明日、顧問に許可もらう。冬の稽古計画、地域の公民館への打診、冬馬への連絡」
「冬馬、字は汚いけど」
「強い字だ」
「うん」
 二人は笑い、時計の針を見た。秒針が一周するたび、夏のどこかの時刻が胸の中で薄く明滅する。夏は終わったのに、終わらない。終わらないから、折りたためる。折りたたんだ紙は、地図になる。折り目は増え、折り目は道になる。
 翌日から、蓮は部活のメニューに「呼吸のドリル」を入れた。足捌きの合間に、吐く秒、入る秒、残心の秒。秒針は体育館の最上段の観客席まで響き、その響きがやがて選手の胸に移った。
 静は保健室の掲示板に小さなカードを貼った。「吸入の前に“吐く”を」。カードの下に手書きの矢印を加え、矢印の先に「私がいます」と書いた。誰かが来る。来ない日もある。来ない日は、島の診療所の木の匂いを思い出し、来る日は、都会の保健室の白さに新しい匂いを混ぜる。
 冬の準備は、紙の上で確実に進んだ。役場の保健師から返信が来る。「素振りの会、歓迎。体育館、夕刻なら開放可。高齢者の転倒予防の体操も一緒にどう?」
「やろう」
 蓮はすぐに返し、静は「言葉の講座も一回。記録の書き方、怒りの書き方」と続けた。
 冬馬からは短いメッセージ。「屋根、なおった。灯台の横、風、つよい。来い」。
「行く」
 返す言葉は短い。しかし、短さが長さを内包している。短い言葉ほど、胸の中で長く響く。
 期末の試験勉強の合間に、静は祖父とビデオ通話をした。画面の中の祖父は、相変わらず背筋がまっすぐで、目の下の影は薄く、しかし完全には消えていない。
「座っとるか」
「止まらずに座ってる」
「よか」
「じいちゃん、冬、行くよ」
「来い。冬は魚がうまかぞ」
「冬馬の字、読む」
「笑え」
 祖父が笑い、画面が小さく揺れた。発電機の音は聞こえない。代わりに、台所の湯が沸く音がした。湯の音は細く、しかし、熱を持っていた。
 初雪は昼過ぎから本降りになった。教室の窓に白い粒が斜めに当たり、板書のチョークは湿った粉で太る。放課後の道は濡れて、滑りやすい。河川敷はさすがに稽古に向かず、二人は駅前の小さな喫茶店に入った。店内は暖かく、コーヒーの匂いが島の麦茶とは違う種類のやさしさで鼻を打つ。
「冬の海、怖いかな」
「怖い。だから、行く」
「怖いを分ける」
「うん」
 静は窓の向こうの雪を見ながら、ゆっくり息を吐いた。吐いて、入る。入って、吐く。胸の中にある灯は、遠いまま消えない。いくつかの灯は、もう誰のものだったか指で辿れる。マツの灯、冬馬の灯、子どもたちの灯、祖父の灯。そして、蓮の灯。
 灯は発電機のようには轟々とは鳴らない。小さく、しかし確かに。
 その揺らぎを抱いたまま、二人は、同じ方向に椅子を回した。窓の外に、白い線が積もっていく。線は、やがて道になる。道は、帰り道であり、行き道でもある。
 夜、部屋に戻ると、静は机にノートを開いた。余白は、まだたっぷりとある。手紙の束は隅に揃え、旅程表は封筒の中で眠っている。
 静はペンを持ち、しばらく何も書かなかった。書かない時間が、呼吸の間に似ていた。
 やがて、書く。
——冬の計画。体育館で素振り。吐く練習。言葉の練習。雪のない島に、白い線を引く。
——将来の計画。蓮、公衆衛生。地域の肺。私は、そばにいる仕事。火を見る係。言葉を置く係。
——今、ここ。初雪。吸って、吐く。
 ペン先が止まる。止まるのは終わりではない。次のための残し。
 ノートを閉じ、胸の上に置く。紙の重さが肋骨に乗り、肋骨は呼吸に合わせてわずかに浮き沈みする。ノートが上下し、灯の影が紙の上に微細に揺れる。
 蓮が隣で、静の肩に毛布をかけた。
「寝ろ。明日、また吐く練習だ」
「うん」
「息が続く限り」
「続ける」
 静は目を閉じ、夏の波の音をひとつ思い出してから、冬の雪の音に置き換えた。どちらも、同じリズムの上にあった。切れて、戻って、続く。
 灯は消えない。遠いまま、しかし、胸の底には常に近い。
 その灯を抱いて、二人は未来へ歩き出す。歩幅は違う日もある。違う日には、どちらかが少しだけ前に出て、どちらかが少しだけ後ろで呼吸を支える。
 残心は、いつも二人の間に置かれている。勝っても負けても、呼吸を置いてくることは、しない。
 夏の診療所の匂いは、もう部屋にはない。代わりに、ノートのインクの匂いと、コーヒーと、雪の冷たい匂いがした。
 それでいい。
 それでも、よく、やっていける。
 灯は揺れ、揺れは、前を照らす。
 そして、ふたりは、歩く。