第七話 島を出る日
夏の終わりが、指先の温度に出る。朝いちばんの空気はもう、皮膚に張りつくほど濃くはなく、潮の匂いも一度水で割ったみたいに薄まっている。台風が連れてきた大きな音は去り、残された島は、日々の仕事という細かな音で自分を埋め戻していた。網は干され、割れた瓦は土嚢の上で順番を待ち、路地の角には、昨日の風の記憶がまだ埃のかたちで残っている。
浜マツの葬儀は、午前の淡い光の中でひっそりと営まれた。集会所の畳に白布が渡され、香の煙が真っ直ぐに立ち上がる。煙は途中でふっと曲がり、窓からの風に乗って部屋の隅を撫で、また真っ直ぐになる。その曲がり方が、まるで人の生き方のように見えた。まっすぐだけでは長く持たない。曲がって、戻って、続く。
孫娘は喪服の袖をぎゅっと握り、やがて手を離して、胸の高さでそっと合掌した。祖父は礼をし、短い言葉で順番を整える。誰から線香をあげるか、誰がどのくらいの時間、ここに座るか。言葉は少なく、すべてがもう合意されているかのように進むのが、この島のやり方だった。
やがて、野辺送りの列がゆっくりと港へ向かった。小さな精霊舟に白い花と短冊が乗せられ、孫娘が火を移す。火は紙の端を静かに舐め、橙の輪郭を残して灯になる。潮は高くない。灯はゆるやかに水面を進み、波の皺で少し揺れる。孫娘の頬が濡れているのは潮の風のせいだと誰かが言い、誰も反論しない。灯の列が港の外の緩いカーブを曲がると、見えなくなる。見えなくなることで、胸の奥のどこかで、逆に強く光る。
冬馬はその列から少し離れたところに立ち、胸に骨壺を抱いていた。骨壺の白は、島の白壁の白とは違い、やけに冷たく、輪郭が鋭い。潮が打ち寄せ、冬馬のズボンの裾を濡らす。額の汗も、潮も、同じ塩味がするのだと、彼はやっと覚えたように舌を湿らせた。
「父ちゃん」
冬馬は低く呼んだ。呼ぶというより、穴に向けて音を投げるように。胸の真ん中の、形の合わない穴。台風の夜からずっと、呼吸のたびに擦れていた穴。
「形が、合わん。合わんけど、俺は——」
言葉が波に切られて散った。次の言葉がすぐに追いついた。
「俺はここで働く」
祖父は近づいて、帽子のつばを指で上げた。「お前の手は人を支えられる」と、短く、それだけ言った。冬馬は頷いた。頷き方は、泣き方と同じだけ難しかったが、うまくいった。
葬儀のあと、診療所に戻る。外の光は少しだけ傾き、待合のベンチの合皮に窓の格子が細く重なっている。祖父の容態は、台風の夜のあと、波の引いた砂地のように落ち着きを取り戻しつつあった。息の速さは整い、足の甲のむくみは引いた。利尿薬の量は最小限、塩分は控えめ、昼の「止まらずに座る」がメニューに入る。午後には、民生委員が顔を出し、役場の保健師も「週一の巡回記録、オンラインで共有しましょう」と言った。祖父は頷き、紙のメモに「共有」と大きく書いた。紙に書くことで、未だ身体に馴染まない新しい言葉を自分の手に移すつもりなのだろう。
「先生、少し時間いいですか」
蓮がノートパソコンを持ち出した。診療所の机に置くと、液晶の光が古い木の天板に薄く映る。
「クラウドファンディング、やってみませんか。診療所の非常用電源を更新する資金を集めたい。台風の夜みたいなときに、ここが島の肺になるってこと、伝えれば届くと思うんです」
祖父は「肺」という言葉を面白がるように口の中で転がし、それから笑った。
「今どきは雲からお金が降るとね」
「雲というより、支援してくれる方々のポケットから少しずつ」
蓮は画面を繰り、別の企画書を開く。「地域連携の案もあります。看護学校の実習枠を島で受け入れて、オフシーズンに二週間ずつ。宿は空き家改修をして使う。冬馬たちみたいな若い人の仕事を、医療と漁の間で作る。テレ診療の枠は、週に一度、循環器の先生に覗いてもらえるよう、町立病院と話します」
静は背後で聞きながら、胸のどこかが温かくなるのを感じていた。自分たちは「治す」ことだけじゃない。「支える仕組み」を考える世代になった——そう気づくと、これまでの夏が別の角度から見えた。吐けば入る、の向こうに、吐くための器を作る仕事がある。
祖父は椅子の背にもたれ、「おいは古かばってん、あんたたちは新しか」と言った。「古かとは邪魔じゃなか。古かもんは、燃え残る。燃え残りが火種になる。新しかとは、風たい。風のおらんば、火は回らん」
「じゃあ、俺らは風担当で」
「風ばかり吹かすな。火も見ろ」
祖父は笑い、咳払いをひとつして、湯呑みに口をつけた。湯の縁を超える香りは、発電機の唸りが止んだ夜には得がたい贅沢に思えた。
午後、港へ降りる。海は穏やかで、岸壁の破れ目に短い波が順番に入ってくる。島の背骨——山の稜線は青い線になっていて、真上の空はもう秋の青に傾く手前だった。今日、二人は島を出る。夏休みはカレンダーの枠に従う。カレンダーは、人の呼吸に同情しない。だからこそ、人は別の枠を自分の胸に作るのかもしれない。
港の見送りは、思っていたよりも大きな列になった。体育館で素振りを一緒にした子どもたちが、新聞紙の棒をまた持ってきて、桟橋の端で一列に並ぶ。蓮が手を挙げると、掛け声が勝手に揃う。
「めん!」
風にほどける声。ほどけても、どこかで集まる。掛け声は潮に解け、泡のように光って消えた。男の子が胸の前で青い吸入器のケースを掲げ、小さく振って見せる。静は笑って親指を立て、胸に手を当ててふーっと吐く仕草をする。男の子も真似をして、やっぱり笑った。
冬馬は港の反対側に立ち、作業着の胸ポケットに短い鉛筆を挿していた。骨壺はもう寺に預け、手には新しい軍手。昨日の穴は、まだ合ってはいない。けれど、穴の縁は、少しだけ柔らかくなっているように見えた。
「冬馬」
蓮が呼ぶ。冬馬は顎を上げ、まっすぐ二人を見る。
「書けよ」
「書く。字は汚いけど」
「汚い字は、強いことがある」
冬馬の口元が、わずかに笑いになった。「帰ってこい」
「行ってくる」
「行ってこい」と、今度は祖父が言った。祖父はゆっくり歩いて二人に近づき、胸ポケットから封筒を出す。薄い紙の束——往診ノートのコピーだ。戦後からの出生と死亡、疫痢や台風、助けた命と看取った命の走り書きが、縮小され、頁ごとに綴じられている。
「これは記録ではない。呼吸の地図だ」
祖父は静の胸のポケットに封筒を差し入れた。封筒の角が、肋骨の上で固く当たる。静は両手で祖父の手を包み、そのまま強く握り返した。初めての握り方だった。強く握ることは、離すための準備でもある。強く握らないと離せない。
祖父の手は乾いて温かく、掌の皺が潮の地図みたいに走っている。静は、その皺に指の腹でそっと触れ、言葉を選ばずに言った。
「帰ってきます」
「来い」と、祖父は短く返した。
出航のサイレンが鳴り、フェリーの腹が低く震えた。ロープが外され、甲板に巻かれていく。港の人々は手を振るが、島の人の手の振り方は派手ではない。肩から先だけが静かに上下する。遠くから見れば分からないくらいの動き。でも、それが長く続く動きだと二人は知っている。
フェリーの甲板に出る。風はもう秋の入口の匂いを持っていた。静は柵にもたれ、胸のポケットの封筒に手を当てた。紙の重さが、思ったよりも確かだった。紙は軽い。だが、地図は重い。
「行こう」
背中に蓮の掌が置かれた。押すというより、支えるための重さ。
「息が続く限り」
静は頷いた。頷くたび、ポケットの封筒が胸に小さく当たる。「呼吸の地図」という言葉が、紙から音になって心拍と重なった。
フェリーが桟橋を離れる。水が船腹に押され、白い帯を作る。帯はすぐにちぎれ、また繋がり、遠くへ届く。港の列の中で、子どもたちがもう一度、新聞紙の棒を振った。手首が柔らかい。手の内がある。蓮は無意識に残心を置き、静も同じように置いた。置く先は、海の真ん中ではなく、自分の胸の奥。終わりのためではなく、続けるために。
島の稜線が低くなる。白壁の診療所は見分けがつかなくなり、代わりに、屋根の一枚が台風で鳴っていた音だけが、耳の奥に残った。発電機の唸りのリズムも、もう聞こえない。切れて、戻って、続く。そのリズムは、いまや二人の中で鳴る。
静は海を見た。海は単純で、複雑だ。単純なのは、ただ在るということ。複雑なのは、その在り方が、こちらの呼吸で変わって見えるということ。昨日の海は重く、今日は軽い。重いことと軽いことが、同じ海の表情のうちにある。
「マツさん、うまく帰れたかな」
風に負けない音量で、静が言う。
「帰れたよ。『ここが帰り道です』って、先生が言ったから」
「そうだね」
「冬馬の穴は」
「すぐには合わない。でも、穴の縁は柔らかくなる。柔らかくなると、別の形が、少しずつ収まる」
「俺らの穴は」
「ある」
「どこに」
「たぶん、ここに」
蓮は自分の胸を、手の平で軽く叩いた。音は小さかったが、確かな音がした。
甲板の反対側で、観光客らしい家族が写真を撮っている。島の名前を口にして笑い、すぐに別の話題へ移る。誰も悪くない。誰も責める理由はない。島は、そういう通過のための顔も持っている。通過の顔と、住まう顔。その両方が重ねて見えるのは、船の上にいるときだけだ。
静はポケットから封筒を出し、そっと一枚、コピーのページを抜いた。白黒の文字が風に揺れる。行間には、祖父の癖のある筆圧が縮小されてもなお、力を残していた。
——一九五二年、出生。——一九五三年、疫痢。——二〇二五年、台風、刻みで電を回す。マツ、帰路に至る。
紙を見ていると、胸の中の地図が少しだけ繋がった。点と点が線になる。線は、海の上に見えない橋を架ける。橋は強くない。けれど、渡れる。渡るとき、誰かの肩が、まっすぐ前を向いたまま、ほんの少しだけ自分の方へ寄ってくる。寄ってきた重さが、渡る力になる。
「蓮」
「うん」
「俺ら、来年も来よう」
「来よう」
「冬馬の字、読みに」
「読む」
「じいちゃんの『止まらずに座る』が、続いてるか見に」
「見に」
「体育館で、素振り」
「やろう」
会話は短い。短さは、約束の形に似ている。長い約束は折れやすい。短い約束は、胸の奥で何度も折りたためる。
海の上に、小さな灯が見えた。誰かが、遅れて流した灯かもしれない。あるいは船の反射が、偶然そう見えただけかもしれない。どちらでもよかった。灯は、見ようと決めた人の胸に灯る。灯りはいつまでも揺れていた。風の加減で大きさが変わり、波の皺で方向がずれ、また元に戻る。切れて、戻って、続く。
静は目を細め、灯の揺れに合わせて息を吐いた。遠くの灯と近くの呼吸が、見えない糸でゆるく結ばれる。結び目は堅くない。ほどける前提で結ぶ。ほどけるから、また結べる。
蓮は横で、静の吐く時間に自分の吐く時間を合わせた。合わせるのは、負けることではない。続けるためのやり方だ——あの夜に言った言葉が、いままた胸の裏で鳴った。
島は低くなり、やがて線になった。線の向こうに、街の輪郭が薄く浮かび始める。あの輪郭の中で、二人の夏は別の形に折りたたまれ、必要なときに広げられる。折り目は増える。増えた折り目は、紙を弱くするのではなく、紙を地図にする。
静は封筒をポケットに戻し、蓮の肩に額をしばらく預けた。船は揺れ、揺れは呼吸を奪う代わりに、別の呼吸をくれる。奪われたぶんだけ、受け取る。受け取ったぶんだけ、渡す。
「行こう」
蓮がもう一度、同じ言葉を置いた。
「うん」
静は答え、目を閉じた。
目の内側に、灯がひとつ、またひとつ、遅れて現れ、遠ざかり、そして、まだそこにあった。
夏の終わりが、胸の位置をほんの少し下げた。呼吸がそこへ降りていく。降りて、また上がってくる。
島を出る日。二人の息は、海の上で、ゆっくりと、次の形に合っていった。
夏の終わりが、指先の温度に出る。朝いちばんの空気はもう、皮膚に張りつくほど濃くはなく、潮の匂いも一度水で割ったみたいに薄まっている。台風が連れてきた大きな音は去り、残された島は、日々の仕事という細かな音で自分を埋め戻していた。網は干され、割れた瓦は土嚢の上で順番を待ち、路地の角には、昨日の風の記憶がまだ埃のかたちで残っている。
浜マツの葬儀は、午前の淡い光の中でひっそりと営まれた。集会所の畳に白布が渡され、香の煙が真っ直ぐに立ち上がる。煙は途中でふっと曲がり、窓からの風に乗って部屋の隅を撫で、また真っ直ぐになる。その曲がり方が、まるで人の生き方のように見えた。まっすぐだけでは長く持たない。曲がって、戻って、続く。
孫娘は喪服の袖をぎゅっと握り、やがて手を離して、胸の高さでそっと合掌した。祖父は礼をし、短い言葉で順番を整える。誰から線香をあげるか、誰がどのくらいの時間、ここに座るか。言葉は少なく、すべてがもう合意されているかのように進むのが、この島のやり方だった。
やがて、野辺送りの列がゆっくりと港へ向かった。小さな精霊舟に白い花と短冊が乗せられ、孫娘が火を移す。火は紙の端を静かに舐め、橙の輪郭を残して灯になる。潮は高くない。灯はゆるやかに水面を進み、波の皺で少し揺れる。孫娘の頬が濡れているのは潮の風のせいだと誰かが言い、誰も反論しない。灯の列が港の外の緩いカーブを曲がると、見えなくなる。見えなくなることで、胸の奥のどこかで、逆に強く光る。
冬馬はその列から少し離れたところに立ち、胸に骨壺を抱いていた。骨壺の白は、島の白壁の白とは違い、やけに冷たく、輪郭が鋭い。潮が打ち寄せ、冬馬のズボンの裾を濡らす。額の汗も、潮も、同じ塩味がするのだと、彼はやっと覚えたように舌を湿らせた。
「父ちゃん」
冬馬は低く呼んだ。呼ぶというより、穴に向けて音を投げるように。胸の真ん中の、形の合わない穴。台風の夜からずっと、呼吸のたびに擦れていた穴。
「形が、合わん。合わんけど、俺は——」
言葉が波に切られて散った。次の言葉がすぐに追いついた。
「俺はここで働く」
祖父は近づいて、帽子のつばを指で上げた。「お前の手は人を支えられる」と、短く、それだけ言った。冬馬は頷いた。頷き方は、泣き方と同じだけ難しかったが、うまくいった。
葬儀のあと、診療所に戻る。外の光は少しだけ傾き、待合のベンチの合皮に窓の格子が細く重なっている。祖父の容態は、台風の夜のあと、波の引いた砂地のように落ち着きを取り戻しつつあった。息の速さは整い、足の甲のむくみは引いた。利尿薬の量は最小限、塩分は控えめ、昼の「止まらずに座る」がメニューに入る。午後には、民生委員が顔を出し、役場の保健師も「週一の巡回記録、オンラインで共有しましょう」と言った。祖父は頷き、紙のメモに「共有」と大きく書いた。紙に書くことで、未だ身体に馴染まない新しい言葉を自分の手に移すつもりなのだろう。
「先生、少し時間いいですか」
蓮がノートパソコンを持ち出した。診療所の机に置くと、液晶の光が古い木の天板に薄く映る。
「クラウドファンディング、やってみませんか。診療所の非常用電源を更新する資金を集めたい。台風の夜みたいなときに、ここが島の肺になるってこと、伝えれば届くと思うんです」
祖父は「肺」という言葉を面白がるように口の中で転がし、それから笑った。
「今どきは雲からお金が降るとね」
「雲というより、支援してくれる方々のポケットから少しずつ」
蓮は画面を繰り、別の企画書を開く。「地域連携の案もあります。看護学校の実習枠を島で受け入れて、オフシーズンに二週間ずつ。宿は空き家改修をして使う。冬馬たちみたいな若い人の仕事を、医療と漁の間で作る。テレ診療の枠は、週に一度、循環器の先生に覗いてもらえるよう、町立病院と話します」
静は背後で聞きながら、胸のどこかが温かくなるのを感じていた。自分たちは「治す」ことだけじゃない。「支える仕組み」を考える世代になった——そう気づくと、これまでの夏が別の角度から見えた。吐けば入る、の向こうに、吐くための器を作る仕事がある。
祖父は椅子の背にもたれ、「おいは古かばってん、あんたたちは新しか」と言った。「古かとは邪魔じゃなか。古かもんは、燃え残る。燃え残りが火種になる。新しかとは、風たい。風のおらんば、火は回らん」
「じゃあ、俺らは風担当で」
「風ばかり吹かすな。火も見ろ」
祖父は笑い、咳払いをひとつして、湯呑みに口をつけた。湯の縁を超える香りは、発電機の唸りが止んだ夜には得がたい贅沢に思えた。
午後、港へ降りる。海は穏やかで、岸壁の破れ目に短い波が順番に入ってくる。島の背骨——山の稜線は青い線になっていて、真上の空はもう秋の青に傾く手前だった。今日、二人は島を出る。夏休みはカレンダーの枠に従う。カレンダーは、人の呼吸に同情しない。だからこそ、人は別の枠を自分の胸に作るのかもしれない。
港の見送りは、思っていたよりも大きな列になった。体育館で素振りを一緒にした子どもたちが、新聞紙の棒をまた持ってきて、桟橋の端で一列に並ぶ。蓮が手を挙げると、掛け声が勝手に揃う。
「めん!」
風にほどける声。ほどけても、どこかで集まる。掛け声は潮に解け、泡のように光って消えた。男の子が胸の前で青い吸入器のケースを掲げ、小さく振って見せる。静は笑って親指を立て、胸に手を当ててふーっと吐く仕草をする。男の子も真似をして、やっぱり笑った。
冬馬は港の反対側に立ち、作業着の胸ポケットに短い鉛筆を挿していた。骨壺はもう寺に預け、手には新しい軍手。昨日の穴は、まだ合ってはいない。けれど、穴の縁は、少しだけ柔らかくなっているように見えた。
「冬馬」
蓮が呼ぶ。冬馬は顎を上げ、まっすぐ二人を見る。
「書けよ」
「書く。字は汚いけど」
「汚い字は、強いことがある」
冬馬の口元が、わずかに笑いになった。「帰ってこい」
「行ってくる」
「行ってこい」と、今度は祖父が言った。祖父はゆっくり歩いて二人に近づき、胸ポケットから封筒を出す。薄い紙の束——往診ノートのコピーだ。戦後からの出生と死亡、疫痢や台風、助けた命と看取った命の走り書きが、縮小され、頁ごとに綴じられている。
「これは記録ではない。呼吸の地図だ」
祖父は静の胸のポケットに封筒を差し入れた。封筒の角が、肋骨の上で固く当たる。静は両手で祖父の手を包み、そのまま強く握り返した。初めての握り方だった。強く握ることは、離すための準備でもある。強く握らないと離せない。
祖父の手は乾いて温かく、掌の皺が潮の地図みたいに走っている。静は、その皺に指の腹でそっと触れ、言葉を選ばずに言った。
「帰ってきます」
「来い」と、祖父は短く返した。
出航のサイレンが鳴り、フェリーの腹が低く震えた。ロープが外され、甲板に巻かれていく。港の人々は手を振るが、島の人の手の振り方は派手ではない。肩から先だけが静かに上下する。遠くから見れば分からないくらいの動き。でも、それが長く続く動きだと二人は知っている。
フェリーの甲板に出る。風はもう秋の入口の匂いを持っていた。静は柵にもたれ、胸のポケットの封筒に手を当てた。紙の重さが、思ったよりも確かだった。紙は軽い。だが、地図は重い。
「行こう」
背中に蓮の掌が置かれた。押すというより、支えるための重さ。
「息が続く限り」
静は頷いた。頷くたび、ポケットの封筒が胸に小さく当たる。「呼吸の地図」という言葉が、紙から音になって心拍と重なった。
フェリーが桟橋を離れる。水が船腹に押され、白い帯を作る。帯はすぐにちぎれ、また繋がり、遠くへ届く。港の列の中で、子どもたちがもう一度、新聞紙の棒を振った。手首が柔らかい。手の内がある。蓮は無意識に残心を置き、静も同じように置いた。置く先は、海の真ん中ではなく、自分の胸の奥。終わりのためではなく、続けるために。
島の稜線が低くなる。白壁の診療所は見分けがつかなくなり、代わりに、屋根の一枚が台風で鳴っていた音だけが、耳の奥に残った。発電機の唸りのリズムも、もう聞こえない。切れて、戻って、続く。そのリズムは、いまや二人の中で鳴る。
静は海を見た。海は単純で、複雑だ。単純なのは、ただ在るということ。複雑なのは、その在り方が、こちらの呼吸で変わって見えるということ。昨日の海は重く、今日は軽い。重いことと軽いことが、同じ海の表情のうちにある。
「マツさん、うまく帰れたかな」
風に負けない音量で、静が言う。
「帰れたよ。『ここが帰り道です』って、先生が言ったから」
「そうだね」
「冬馬の穴は」
「すぐには合わない。でも、穴の縁は柔らかくなる。柔らかくなると、別の形が、少しずつ収まる」
「俺らの穴は」
「ある」
「どこに」
「たぶん、ここに」
蓮は自分の胸を、手の平で軽く叩いた。音は小さかったが、確かな音がした。
甲板の反対側で、観光客らしい家族が写真を撮っている。島の名前を口にして笑い、すぐに別の話題へ移る。誰も悪くない。誰も責める理由はない。島は、そういう通過のための顔も持っている。通過の顔と、住まう顔。その両方が重ねて見えるのは、船の上にいるときだけだ。
静はポケットから封筒を出し、そっと一枚、コピーのページを抜いた。白黒の文字が風に揺れる。行間には、祖父の癖のある筆圧が縮小されてもなお、力を残していた。
——一九五二年、出生。——一九五三年、疫痢。——二〇二五年、台風、刻みで電を回す。マツ、帰路に至る。
紙を見ていると、胸の中の地図が少しだけ繋がった。点と点が線になる。線は、海の上に見えない橋を架ける。橋は強くない。けれど、渡れる。渡るとき、誰かの肩が、まっすぐ前を向いたまま、ほんの少しだけ自分の方へ寄ってくる。寄ってきた重さが、渡る力になる。
「蓮」
「うん」
「俺ら、来年も来よう」
「来よう」
「冬馬の字、読みに」
「読む」
「じいちゃんの『止まらずに座る』が、続いてるか見に」
「見に」
「体育館で、素振り」
「やろう」
会話は短い。短さは、約束の形に似ている。長い約束は折れやすい。短い約束は、胸の奥で何度も折りたためる。
海の上に、小さな灯が見えた。誰かが、遅れて流した灯かもしれない。あるいは船の反射が、偶然そう見えただけかもしれない。どちらでもよかった。灯は、見ようと決めた人の胸に灯る。灯りはいつまでも揺れていた。風の加減で大きさが変わり、波の皺で方向がずれ、また元に戻る。切れて、戻って、続く。
静は目を細め、灯の揺れに合わせて息を吐いた。遠くの灯と近くの呼吸が、見えない糸でゆるく結ばれる。結び目は堅くない。ほどける前提で結ぶ。ほどけるから、また結べる。
蓮は横で、静の吐く時間に自分の吐く時間を合わせた。合わせるのは、負けることではない。続けるためのやり方だ——あの夜に言った言葉が、いままた胸の裏で鳴った。
島は低くなり、やがて線になった。線の向こうに、街の輪郭が薄く浮かび始める。あの輪郭の中で、二人の夏は別の形に折りたたまれ、必要なときに広げられる。折り目は増える。増えた折り目は、紙を弱くするのではなく、紙を地図にする。
静は封筒をポケットに戻し、蓮の肩に額をしばらく預けた。船は揺れ、揺れは呼吸を奪う代わりに、別の呼吸をくれる。奪われたぶんだけ、受け取る。受け取ったぶんだけ、渡す。
「行こう」
蓮がもう一度、同じ言葉を置いた。
「うん」
静は答え、目を閉じた。
目の内側に、灯がひとつ、またひとつ、遅れて現れ、遠ざかり、そして、まだそこにあった。
夏の終わりが、胸の位置をほんの少し下げた。呼吸がそこへ降りていく。降りて、また上がってくる。
島を出る日。二人の息は、海の上で、ゆっくりと、次の形に合っていった。



