第六話 見えない喘鳴
台風の翌朝は、島全体が一枚の薄い膜で覆われているようだった。光はあるのに、輪郭がどれも柔らかい。波の音は遠くへ引き、代わりに、濡れた葉が触れ合う音や、重たくなった縄が桟橋に当たる鈍い音が、いつもよりよく聞こえた。
診療所の前では、漁網の切れ端と椰子の葉とがいっしょに積み上がり、誰かがそこに足を掛けている。島の人の手は、朝一番から動き続け、塩に濡れた道は、掃く音と笑いと、少しのため息で乾かされつつあった。
祖父は、往診バッグを肩に掛け、いつものように玄関を出た。だが、足の運びがほんのわずか、いつもと違った。踏み出すたびに、地面と靴のあいだに気配が挟まる。
蓮はそれを見て、声にするかどうか、喉の奥で迷った。声にしてしまうと、言葉が現実を固定する。固定してしまうと、何かが動かなくなる気がした。だが、動かないのはもっとよくない。
静は迷わなかった。迷わないと決めたのだと、顔を見れば分かった。昨夜、目の通り過ぎる静けさの中で、マツの呼吸に寄り添いながら、彼は見ないふりを控えることを今日の仕事にすると決めたはずだった。
「じいちゃん」
玄関の引き戸に手を残したまま、静が呼んだ。
「なんや」
「検査しよう」
祖父は片眉だけを少し持ち上げ、笑うのか怒るのか、どちらともつかない顔をしてから、肩を落とした。
「患者が待っとる」
「分かってる。でも、俺たちのためにも。俺と蓮のためにも」
祖父の目が、ほんの少し柔らかくなった。
「言い方のずるか」
「ずるいのは分かってる」
静は笑わなかった。
沈黙が一呼吸ぶんだけ続いたあと、祖父は往診バッグを椅子に置いた。
「心電図と採血。自分でやる」
「俺がやる」蓮が言った。
「お前は手の厚か。テープの皺になる」
「なるほど」
こんなときでも、冗談は形を保てるのだと、蓮は安心した。
処置室に、古い心電図の機械を引っ張り出した。紙は少し黄ばんでいる。電極の吸着盤をアルコールで拭き、祖父はシャツのボタンを二つ外して胸を出した。胸骨の上の皮膚は思ったより薄く、骨の角度がすぐに見える。
静が粘着パッドを貼り、電極を置く。蓮はケーブルを整理しながら、祖父の胸の上下を目で追った。
「動くなと言われると、動きとうなる」祖父が呟く。
「動いていい。規則的に」静が返す。
機械が紙を送りはじめ、細い線が波を描く。波は整っていたが、どこかでほんのわずか躓く場所を持っている。
採血は祖父自身が行い、試験管に血が溜まる間、蓮は時計を見るふりをして、祖父の顔色を見た。瞼の下の薄い影は、夜よりは浅い。だが、浅くなった影の脇には、疲れとは別の色が加わっている。
化学分析は、診療所の小さな機械に頼った。出てくる数値は、病院ほどの精度はないが、傾向は分かる。BNPが少し高い。胸の音は微細に湿っている。足の甲にわずかなむくみ。
「軽度の心不全。——まあ、年齢相応という言い方もできる」祖父はシーツの皺を指で伸ばしながら言った。「利尿薬を少し。塩分、控える。水は一気に飲むな。わしはまだ診療をやめん」
「やめてとは言ってない」静が言う。
「休むとか、座るとか、あります」蓮が続ける。
「座るのは嫌いじゃなか」祖父は笑った。「だが、止まるのは嫌いだ」
「止まらずに座ればいいじゃん」静が言う。
「日本語として矛盾しとる」
「剣道の“残心”が、それです」
祖父は目を細め、「なるほど」とだけ言った。
午前の回診は、台風一過の島を縫うように行われた。屋根のトタンが一枚、朝の風で鳴る家。濡れた畳を陽に当てるため、座敷に板を渡している家。窓ガラスに張った養生テープがまだ十字に残る家。
祖父は歩いた。歩幅はいつもより少し狭く、階段の上り下りでは手すりを使った。静は先に昇り、蓮は後ろから影を重ねるようにしてついた。
途中の路地で、洗濯物を干す手を止めて老婆が声をかけた。「先生、顔色の悪か」
「褒め言葉として頂戴する」
老婆は笑い、「なら、今日のところは座って茶でも飲んでいかんね」と言った。
「座るのは嫌いじゃない」祖父はまた同じことを口にし、椅子に腰を落とした。
その座り方が、いつもより深かった。深さが、少しだけ、静の胸を軽くした。
昼過ぎ、小学校の体育館が臨時集会所になった。避難所としての役目を終えたあとも、床はまだ湿った空気を含み、ところどころに砂が光っている。ステージ側には回収した支援物資の箱が積まれ、壁際にはロープで作った即席の洗濯紐が渡っていた。
そんな場で、町内会長に頼まれて、蓮と静は子どもたちに剣道の素振りを教えることになった。台風で乱れた一日の中に、体の真ん中に芯を通す時間を、という大人たちの考えだろう。
体育館の床に白いテープで線が引かれ、子どもたちはその上に並んだ。裸足。足の裏が木の床の温度を吸い取る。
「まず、立つ」
蓮は声を低くして言った。「立ったら、床を踏みすぎない。床に乗る。ここ——」
指で自分の土踏まずを示す。「ここで床に乗る。指は握りしめない。開かない。猫でも犬でもない、人の足」
子どもたちが笑い、足を見下ろす。
「次に、息。息は勝手にしてる。でも、“勝手に”のままだと疲れる。“一緒に”にする」
一列目の男の子が手を挙げた。「一緒に?」
「自分と一緒に。周りとも、できれば一緒に」
蓮は深く息を吐いて見せた。吐けば、入る。吐くとき、肩が上がらないように、背中に手を当てる。
「吐くと、次に入ってくる」
後ろから静が言った。
数人の子が振り向く。静は吸入器の形のキーホルダーを取り出し、笑って見せた。「俺は喘息持ち。だから、吐くのが先」
小さな男の子が、その言葉に目を丸くした。「ぼくも、吸入器ある」
「ほんと?」
男の子はランドセルの横のポケットから、小さな青いケースを出した。静はしゃがみ、目線を同じ高さにする。
「じゃあ、いっしょに練習。吸う前に、ふーって長く吐く。息はね、肩じゃなくてお腹で動かす。ここに風船があるとして——」
静は男の子の臍の少し上に掌を当てた。「ここが膨らむように」
男の子は真剣な顔で頷き、ふー、と言いながら、腹の前を可笑しそうに膨らませる。周りの子が真似て笑い、拍手が起きた。
「よし。じゃあ、踏み込み」
蓮は腰を落とし、右足を静かに一歩出す。「床を蹴るんじゃなくて、床に溶ける。響かせたいときだけ響かせる。いまは響かせない」
すり足の音が、体育館の広さを測る。台風でゆがんだ時間を、足音がすこしずつ正しい目盛りに呼び戻す。
竹刀代わりの新聞紙の棒を配り、面打ちの形だけを教える。腕を挙げる高さ、肘の角度。肘を伸ばしきらない。伸びる前に止まる。止まるのは終わりではない。次のための残し。
静は後列を回り、一人ひとりの背中に指で線を引いていく。「ここ、肩甲骨の下。ここが硬いと、息が浅くなる。膝を少し柔らかく」
喘息持ちの子が一本、気持ちよく振れた。風を切る音がほんの少し鳴る。
「うまい」
静が言うと、子は照れて笑い、また真剣な顔に戻る。「吐くの、先」
「そう。必ず」
笑いが軽く波のように広がり、押し返されて戻ってくる。大人たちが体育館の入口で見ていて、何も言わないのに目だけで礼を言っているのが分かった。
休憩のとき、蓮はステージの縁に座り、膝の上に手を置いた。静が隣に腰を下ろす。
「じいちゃん、午後はどうするかな」
「止まらずに座る。……できるかな」
「できる」
静は言い切った。「さっき、自分で血を抜いて、十数えて、また歩いた。あの歩き方は、止まらずに座ってた」
「言葉、面白かね」
「ありがとう」
二人は笑い、体育館の天井の鉄骨を見上げた。台風の夜の振動の残りが、まだどこかに隠れている気がしたが、鉄骨は黙っていた。
集会が終わるころ、子どもたちが一人ずつ、新聞紙の棒を返しに来た。その中に、先ほどの男の子もいた。
「ありがとう。吐くと、入った」
「うん。また、吐いて」
「うん」
その短い会話が、静の胸に小さな灯をともした。
外へ出ると、風は既に島の匂いを取り戻していた。潮と草と、乾いた木。空はまだ切り傷のような雲を何本か引いていたが、その向こうの青が、確かにある。
夕方、診療所の引き戸が強く開いた。
「先生」
冬馬だった。包帯は薄くなり、傷は閉じているが、表情は開いていない。
「話がある」
祖父は顔を上げ、椅子を引いて座るよう手で示した。
「立ったままでいい」
冬馬は言い、喉の奥で言葉を整える時間を持った。
「親父のこと。……本当は、助けられたんじゃないか。あの日、海はそこまで荒れとらんかった。網を上げるときに波が来て、落ちた。けど、先生なら——」
祖父は遮らなかった。
「——先生なら、助けられたんじゃないかって、言う人がいる。俺も、そう思いたい」
静は祖父の横顔を見た。表情を動かさない横顔。
「記録を見よう」祖父が言った。
往診ノートの棚から、該当の年の冊子を取り出す。ページを開く指の動きは、いつもより慎重だった。
二〇二五年春。日付。天候。風の向き。潮の満ち引き。海面の温度。救難要請の時刻。現場到着の時刻。心肺停止確認の時刻。救助者数。現場の状況。
祖父の字は、走っていない。ひとつひとつ、立っていた。
「……ヘリは飛ばなかった」冬馬が読み、声を落とす。
「飛ばんかった。風が、予報よりいくぶん悪かった。ヘリは海の上では突風で落ちる。上げ下ろしのロープは、風で切れる」
「海保の船は?」
「来た。だが、時間がいる。お前の親父さんを引き上げたとき、瞳孔はもう開いていた。温度が奪われるのが早すぎた」
祖父は机の上に置いたノートに、人差し指で小さく印をつけた。
「本当のことを言う。助けられなかった、じゃない。助けられなかった“可能性が高い”。助けられた“可能性もあったかもしれん”。だが、わしはその場で、持てる手を全部使い、手順を尽くした。尽くしたことは、記録してある」
祖父はノートの別のページを開いた。救助の手順。低体温の対応。心臓マッサージの時間の記録。誰が何分ずつ交代したか。
冬馬はページを見つめ、指先を伸ばし、紙に触れた。紙が冷たい。冷たい紙を触っているのに、手のひらが熱くなる。
「記録は、残酷だ」蓮が静かに言った。「でも、嘘がない」
冬馬は顔を上げ、蓮の言葉にしがみつくように頷いた。だが、頷ききれず、顎が震えた。
静はそこで一歩、言葉を置いた。
「記録は嘘がない。でも、読む人の呼吸が追いつくまで、一緒にいてやらないと、言葉は刃になる」
冬馬は静を見た。目が合った。目は合ったのに、視界は波に揺れている。
「追いつかん」
「追いつかないときは、一緒に吐く」
静は椅子を引き、冬馬に座るよう示した。冬馬は座らず、代わりに机の縁を握った。指の関節が白くなる。
「先生」冬馬が祖父を見た。
「うん」
「俺、怒っていいですか」
「怒れ。怒りは息だ。だが、吐け」
冬馬は、喉のどこかから声を出した。言葉としては聞こえないのに、部屋が震えた。
泣いた。
泣くと、呼吸は自分のものではなくなる。誰かが体の底で風を吹かせているようだ。
蓮は冬馬の背に手を置いた。静はノートの上に手を置き、ページが風でめくれないようにした。祖父は椅子に座ったまま、目を細め、二人の背中を見た。
受け継がれているのは、技術ではなく、姿勢だ。姿勢は、言葉の奥にある。座り方、立ち方、息の置き方。
冬馬の泣きが少し静まると、祖父はノートの脇に小さく書き足した。
——遺族説明。怒りを受ける。呼吸に合わせる。
冬馬はそれを見て、笑いにも似た息を漏らした。「それも、記録に残すと」
「残す。怒りを受けたことは事実やし、受け方は次に引き継げる」
「引き継げる……」
冬馬は指で、ノートの紙の角をそっと撫でた。
「俺も、書くかな」
「書け」祖父が言った。「書かんと、怒りは言葉にならん。言葉にならん怒りは、体を腐らせる」
静は頷いた。
「吐くために、書く」
冬馬は目を擦り、鼻をすすり、息を一度深く吐いた。
「ありがとう」
その一語は、誰か一人に向けられたものではなかった。部屋の四方に置かれ、時間にも置かれた。
冬馬が帰ったあと、診療所は一瞬だけ静かになった。窓の外で、風が風鈴を揺らす。風鈴の音は、台風の夜には出番がなかった。今は、音の細さが頼もしい。細い音こそが、日常の中心を取り戻す。
祖父が立ち上がろうとした。静が肩を支えようと手を伸ばすと、祖父はその手を押し返さず、ただ、その手の上に自分の手を重ねた。
「止まらずに座る、か」
「うん」
「お前ら、言いよることは難解だが、体は分かる」
祖父は笑い、処置室へ歩いていった。歩幅はやはり少し狭い。歩く先に、検査結果の紙が置いてある。BNPの数字。心電図の波形。静はそれらを片付け、代わりに、テーブルの上に白いカップを二つ置いた。
「休憩」
「十だけ」
「三十」
祖父は根負けしたふりをし、椅子に座って、十を少し過ぎるくらいまで目を閉じた。
夕闇が来る前、静は一人で堤防に出た。台風の置き土産の流木が、砂の上で体を預け合っている。網の赤い浮きが三つ、理想的な三角形を作って波に揺れ、なんでもないのに美しい。
吸い、吐く。
自分の胸の奥で、いつもの喘鳴の気配とは違う音が小さくする。見えない喘鳴。名前がつかない、呼吸の乱れ。誰かの怒りや、誰かの恐れや、誰かの期待や、自分の迷いが、気管のどこかに集まって細く鳴る。
静はその音を無理に消そうとせず、音がしている場所を探った。探すと、音は動く。動けば、追いかけられる。追いかけられるうちは、まだ大丈夫だ。
「どう?」
背後から蓮の声。
「鳴ってる。けど、鳴り方が少し変わった」
「どんなふうに」
「音が高くない。低い。低い分だけ、長く吐ける」
「それは、いい」
蓮は静の隣に立ち、同じ場所から海を見た。
「冬馬、明日また来るかな」
「来る。書きに」
「何を書く」
「怒りの形。父ちゃんの形。灯の形。——たぶん“ありがとう”も、どこかに混ざる」
蓮は頷いた。
「記録は残酷だが、嘘がない、って言っただろ」
「うん」
「その“残酷”に、寄り添えるようになるには、時間が要る。今日、少しだけ、時間の使い方を覚えた」
「じいちゃんの姿勢、だね」
「うん」
二人はしばらく黙って海を見た。風はすでに秋の匂いをほんの少し含み、遠くの空の端で雲が薄く伸びている。
「蓮」
「なに」
「俺、じいちゃんの検査、見ないふりをやめてよかった」
「よかった」
「怖かったけど」
「怖いを分けると、息が増える」
静は笑った。「今日、その台詞、三回目」
「大事なことは、何度も言っていいんだ」
「じいちゃん理論」
「俺理論でもある」
二人はまた笑い、堤防の縁に腰を下ろした。膝を抱える姿勢は、体を小さくするが、呼吸の場所をくっきりさせる。小さくなって呼吸が大きくなる。矛盾の形が、ここでは自然に成立する。
夜、診療所の灯は早く消した。発電機の唸りがない夜は、音が細分化されて聞こえる。遠くの犬の短い吠え。誰かが水を汲む音。布団の上で体を返す音。
二階の畳の部屋で、静は往診ノートの余白を開いた。
——台風一過、島、片づけ。じいちゃん、検査。BNP少し高。軽度の心不全。止まらずに座る。体育館にて素振り。吐けば入る。喘息の子の笑い。冬馬、怒りと記録。読む人の呼吸。言葉は刃。
書きながら、静は胸の奥で鳴っていた低い音が、さらに少し遠のくのを感じた。書くこと自体が、吸入のように効く夜がある。
ペンを置くと、蓮が横で寝返りを打った。
「起きてる?」
「起きてる。お前のペンの音、聞いてた」
「うるさかった?」
「安心する音だった」
「そうか」
「なあ」
「うん」
「“見えない喘鳴”って、なんだと思う」
静は少し考えた。
「名前のついてない呼吸の乱れ。体じゃない方の、鳴り。——たぶん、島に来る前から鳴ってた」
「俺にも、鳴ってる?」
「鳴ってる。俺のとは音が違うけど」
「どんな音」
「剣道の竹刀が、床に置かれたときの、ほんの短い響き。次の一手に行く前の、静かな音」
「悪くない」
「うん。悪くない」
蓮は小さく笑い、枕に顔を半分沈めた。
「じいちゃん、明日も回診するかな」
「する。だから、俺たちもする」
「何を」
「そばにいる」
座布団の端に指先をかけ、静は布の目をひとつ撫でた。糸の上を指が滑り、止まる。
窓の外、海の呼吸は安定している。切れて、戻って、続く。
島の夜の真ん中に、見えない火が灯っている。その火は大きくはならない。けれど、消えない。誰かが風を送ると、かすかに揺れる。その揺れがある限り、明日の呼吸の仕方を、また少し、覚えられる気がした。
静は目を閉じ、数を数えた。吸って、四つ。吐いて、六つ。
呼吸の向こうへ、ほんの少しだけ、足を伸ばした。
今日という日の、最後の残心を置いたまま。
台風の翌朝は、島全体が一枚の薄い膜で覆われているようだった。光はあるのに、輪郭がどれも柔らかい。波の音は遠くへ引き、代わりに、濡れた葉が触れ合う音や、重たくなった縄が桟橋に当たる鈍い音が、いつもよりよく聞こえた。
診療所の前では、漁網の切れ端と椰子の葉とがいっしょに積み上がり、誰かがそこに足を掛けている。島の人の手は、朝一番から動き続け、塩に濡れた道は、掃く音と笑いと、少しのため息で乾かされつつあった。
祖父は、往診バッグを肩に掛け、いつものように玄関を出た。だが、足の運びがほんのわずか、いつもと違った。踏み出すたびに、地面と靴のあいだに気配が挟まる。
蓮はそれを見て、声にするかどうか、喉の奥で迷った。声にしてしまうと、言葉が現実を固定する。固定してしまうと、何かが動かなくなる気がした。だが、動かないのはもっとよくない。
静は迷わなかった。迷わないと決めたのだと、顔を見れば分かった。昨夜、目の通り過ぎる静けさの中で、マツの呼吸に寄り添いながら、彼は見ないふりを控えることを今日の仕事にすると決めたはずだった。
「じいちゃん」
玄関の引き戸に手を残したまま、静が呼んだ。
「なんや」
「検査しよう」
祖父は片眉だけを少し持ち上げ、笑うのか怒るのか、どちらともつかない顔をしてから、肩を落とした。
「患者が待っとる」
「分かってる。でも、俺たちのためにも。俺と蓮のためにも」
祖父の目が、ほんの少し柔らかくなった。
「言い方のずるか」
「ずるいのは分かってる」
静は笑わなかった。
沈黙が一呼吸ぶんだけ続いたあと、祖父は往診バッグを椅子に置いた。
「心電図と採血。自分でやる」
「俺がやる」蓮が言った。
「お前は手の厚か。テープの皺になる」
「なるほど」
こんなときでも、冗談は形を保てるのだと、蓮は安心した。
処置室に、古い心電図の機械を引っ張り出した。紙は少し黄ばんでいる。電極の吸着盤をアルコールで拭き、祖父はシャツのボタンを二つ外して胸を出した。胸骨の上の皮膚は思ったより薄く、骨の角度がすぐに見える。
静が粘着パッドを貼り、電極を置く。蓮はケーブルを整理しながら、祖父の胸の上下を目で追った。
「動くなと言われると、動きとうなる」祖父が呟く。
「動いていい。規則的に」静が返す。
機械が紙を送りはじめ、細い線が波を描く。波は整っていたが、どこかでほんのわずか躓く場所を持っている。
採血は祖父自身が行い、試験管に血が溜まる間、蓮は時計を見るふりをして、祖父の顔色を見た。瞼の下の薄い影は、夜よりは浅い。だが、浅くなった影の脇には、疲れとは別の色が加わっている。
化学分析は、診療所の小さな機械に頼った。出てくる数値は、病院ほどの精度はないが、傾向は分かる。BNPが少し高い。胸の音は微細に湿っている。足の甲にわずかなむくみ。
「軽度の心不全。——まあ、年齢相応という言い方もできる」祖父はシーツの皺を指で伸ばしながら言った。「利尿薬を少し。塩分、控える。水は一気に飲むな。わしはまだ診療をやめん」
「やめてとは言ってない」静が言う。
「休むとか、座るとか、あります」蓮が続ける。
「座るのは嫌いじゃなか」祖父は笑った。「だが、止まるのは嫌いだ」
「止まらずに座ればいいじゃん」静が言う。
「日本語として矛盾しとる」
「剣道の“残心”が、それです」
祖父は目を細め、「なるほど」とだけ言った。
午前の回診は、台風一過の島を縫うように行われた。屋根のトタンが一枚、朝の風で鳴る家。濡れた畳を陽に当てるため、座敷に板を渡している家。窓ガラスに張った養生テープがまだ十字に残る家。
祖父は歩いた。歩幅はいつもより少し狭く、階段の上り下りでは手すりを使った。静は先に昇り、蓮は後ろから影を重ねるようにしてついた。
途中の路地で、洗濯物を干す手を止めて老婆が声をかけた。「先生、顔色の悪か」
「褒め言葉として頂戴する」
老婆は笑い、「なら、今日のところは座って茶でも飲んでいかんね」と言った。
「座るのは嫌いじゃない」祖父はまた同じことを口にし、椅子に腰を落とした。
その座り方が、いつもより深かった。深さが、少しだけ、静の胸を軽くした。
昼過ぎ、小学校の体育館が臨時集会所になった。避難所としての役目を終えたあとも、床はまだ湿った空気を含み、ところどころに砂が光っている。ステージ側には回収した支援物資の箱が積まれ、壁際にはロープで作った即席の洗濯紐が渡っていた。
そんな場で、町内会長に頼まれて、蓮と静は子どもたちに剣道の素振りを教えることになった。台風で乱れた一日の中に、体の真ん中に芯を通す時間を、という大人たちの考えだろう。
体育館の床に白いテープで線が引かれ、子どもたちはその上に並んだ。裸足。足の裏が木の床の温度を吸い取る。
「まず、立つ」
蓮は声を低くして言った。「立ったら、床を踏みすぎない。床に乗る。ここ——」
指で自分の土踏まずを示す。「ここで床に乗る。指は握りしめない。開かない。猫でも犬でもない、人の足」
子どもたちが笑い、足を見下ろす。
「次に、息。息は勝手にしてる。でも、“勝手に”のままだと疲れる。“一緒に”にする」
一列目の男の子が手を挙げた。「一緒に?」
「自分と一緒に。周りとも、できれば一緒に」
蓮は深く息を吐いて見せた。吐けば、入る。吐くとき、肩が上がらないように、背中に手を当てる。
「吐くと、次に入ってくる」
後ろから静が言った。
数人の子が振り向く。静は吸入器の形のキーホルダーを取り出し、笑って見せた。「俺は喘息持ち。だから、吐くのが先」
小さな男の子が、その言葉に目を丸くした。「ぼくも、吸入器ある」
「ほんと?」
男の子はランドセルの横のポケットから、小さな青いケースを出した。静はしゃがみ、目線を同じ高さにする。
「じゃあ、いっしょに練習。吸う前に、ふーって長く吐く。息はね、肩じゃなくてお腹で動かす。ここに風船があるとして——」
静は男の子の臍の少し上に掌を当てた。「ここが膨らむように」
男の子は真剣な顔で頷き、ふー、と言いながら、腹の前を可笑しそうに膨らませる。周りの子が真似て笑い、拍手が起きた。
「よし。じゃあ、踏み込み」
蓮は腰を落とし、右足を静かに一歩出す。「床を蹴るんじゃなくて、床に溶ける。響かせたいときだけ響かせる。いまは響かせない」
すり足の音が、体育館の広さを測る。台風でゆがんだ時間を、足音がすこしずつ正しい目盛りに呼び戻す。
竹刀代わりの新聞紙の棒を配り、面打ちの形だけを教える。腕を挙げる高さ、肘の角度。肘を伸ばしきらない。伸びる前に止まる。止まるのは終わりではない。次のための残し。
静は後列を回り、一人ひとりの背中に指で線を引いていく。「ここ、肩甲骨の下。ここが硬いと、息が浅くなる。膝を少し柔らかく」
喘息持ちの子が一本、気持ちよく振れた。風を切る音がほんの少し鳴る。
「うまい」
静が言うと、子は照れて笑い、また真剣な顔に戻る。「吐くの、先」
「そう。必ず」
笑いが軽く波のように広がり、押し返されて戻ってくる。大人たちが体育館の入口で見ていて、何も言わないのに目だけで礼を言っているのが分かった。
休憩のとき、蓮はステージの縁に座り、膝の上に手を置いた。静が隣に腰を下ろす。
「じいちゃん、午後はどうするかな」
「止まらずに座る。……できるかな」
「できる」
静は言い切った。「さっき、自分で血を抜いて、十数えて、また歩いた。あの歩き方は、止まらずに座ってた」
「言葉、面白かね」
「ありがとう」
二人は笑い、体育館の天井の鉄骨を見上げた。台風の夜の振動の残りが、まだどこかに隠れている気がしたが、鉄骨は黙っていた。
集会が終わるころ、子どもたちが一人ずつ、新聞紙の棒を返しに来た。その中に、先ほどの男の子もいた。
「ありがとう。吐くと、入った」
「うん。また、吐いて」
「うん」
その短い会話が、静の胸に小さな灯をともした。
外へ出ると、風は既に島の匂いを取り戻していた。潮と草と、乾いた木。空はまだ切り傷のような雲を何本か引いていたが、その向こうの青が、確かにある。
夕方、診療所の引き戸が強く開いた。
「先生」
冬馬だった。包帯は薄くなり、傷は閉じているが、表情は開いていない。
「話がある」
祖父は顔を上げ、椅子を引いて座るよう手で示した。
「立ったままでいい」
冬馬は言い、喉の奥で言葉を整える時間を持った。
「親父のこと。……本当は、助けられたんじゃないか。あの日、海はそこまで荒れとらんかった。網を上げるときに波が来て、落ちた。けど、先生なら——」
祖父は遮らなかった。
「——先生なら、助けられたんじゃないかって、言う人がいる。俺も、そう思いたい」
静は祖父の横顔を見た。表情を動かさない横顔。
「記録を見よう」祖父が言った。
往診ノートの棚から、該当の年の冊子を取り出す。ページを開く指の動きは、いつもより慎重だった。
二〇二五年春。日付。天候。風の向き。潮の満ち引き。海面の温度。救難要請の時刻。現場到着の時刻。心肺停止確認の時刻。救助者数。現場の状況。
祖父の字は、走っていない。ひとつひとつ、立っていた。
「……ヘリは飛ばなかった」冬馬が読み、声を落とす。
「飛ばんかった。風が、予報よりいくぶん悪かった。ヘリは海の上では突風で落ちる。上げ下ろしのロープは、風で切れる」
「海保の船は?」
「来た。だが、時間がいる。お前の親父さんを引き上げたとき、瞳孔はもう開いていた。温度が奪われるのが早すぎた」
祖父は机の上に置いたノートに、人差し指で小さく印をつけた。
「本当のことを言う。助けられなかった、じゃない。助けられなかった“可能性が高い”。助けられた“可能性もあったかもしれん”。だが、わしはその場で、持てる手を全部使い、手順を尽くした。尽くしたことは、記録してある」
祖父はノートの別のページを開いた。救助の手順。低体温の対応。心臓マッサージの時間の記録。誰が何分ずつ交代したか。
冬馬はページを見つめ、指先を伸ばし、紙に触れた。紙が冷たい。冷たい紙を触っているのに、手のひらが熱くなる。
「記録は、残酷だ」蓮が静かに言った。「でも、嘘がない」
冬馬は顔を上げ、蓮の言葉にしがみつくように頷いた。だが、頷ききれず、顎が震えた。
静はそこで一歩、言葉を置いた。
「記録は嘘がない。でも、読む人の呼吸が追いつくまで、一緒にいてやらないと、言葉は刃になる」
冬馬は静を見た。目が合った。目は合ったのに、視界は波に揺れている。
「追いつかん」
「追いつかないときは、一緒に吐く」
静は椅子を引き、冬馬に座るよう示した。冬馬は座らず、代わりに机の縁を握った。指の関節が白くなる。
「先生」冬馬が祖父を見た。
「うん」
「俺、怒っていいですか」
「怒れ。怒りは息だ。だが、吐け」
冬馬は、喉のどこかから声を出した。言葉としては聞こえないのに、部屋が震えた。
泣いた。
泣くと、呼吸は自分のものではなくなる。誰かが体の底で風を吹かせているようだ。
蓮は冬馬の背に手を置いた。静はノートの上に手を置き、ページが風でめくれないようにした。祖父は椅子に座ったまま、目を細め、二人の背中を見た。
受け継がれているのは、技術ではなく、姿勢だ。姿勢は、言葉の奥にある。座り方、立ち方、息の置き方。
冬馬の泣きが少し静まると、祖父はノートの脇に小さく書き足した。
——遺族説明。怒りを受ける。呼吸に合わせる。
冬馬はそれを見て、笑いにも似た息を漏らした。「それも、記録に残すと」
「残す。怒りを受けたことは事実やし、受け方は次に引き継げる」
「引き継げる……」
冬馬は指で、ノートの紙の角をそっと撫でた。
「俺も、書くかな」
「書け」祖父が言った。「書かんと、怒りは言葉にならん。言葉にならん怒りは、体を腐らせる」
静は頷いた。
「吐くために、書く」
冬馬は目を擦り、鼻をすすり、息を一度深く吐いた。
「ありがとう」
その一語は、誰か一人に向けられたものではなかった。部屋の四方に置かれ、時間にも置かれた。
冬馬が帰ったあと、診療所は一瞬だけ静かになった。窓の外で、風が風鈴を揺らす。風鈴の音は、台風の夜には出番がなかった。今は、音の細さが頼もしい。細い音こそが、日常の中心を取り戻す。
祖父が立ち上がろうとした。静が肩を支えようと手を伸ばすと、祖父はその手を押し返さず、ただ、その手の上に自分の手を重ねた。
「止まらずに座る、か」
「うん」
「お前ら、言いよることは難解だが、体は分かる」
祖父は笑い、処置室へ歩いていった。歩幅はやはり少し狭い。歩く先に、検査結果の紙が置いてある。BNPの数字。心電図の波形。静はそれらを片付け、代わりに、テーブルの上に白いカップを二つ置いた。
「休憩」
「十だけ」
「三十」
祖父は根負けしたふりをし、椅子に座って、十を少し過ぎるくらいまで目を閉じた。
夕闇が来る前、静は一人で堤防に出た。台風の置き土産の流木が、砂の上で体を預け合っている。網の赤い浮きが三つ、理想的な三角形を作って波に揺れ、なんでもないのに美しい。
吸い、吐く。
自分の胸の奥で、いつもの喘鳴の気配とは違う音が小さくする。見えない喘鳴。名前がつかない、呼吸の乱れ。誰かの怒りや、誰かの恐れや、誰かの期待や、自分の迷いが、気管のどこかに集まって細く鳴る。
静はその音を無理に消そうとせず、音がしている場所を探った。探すと、音は動く。動けば、追いかけられる。追いかけられるうちは、まだ大丈夫だ。
「どう?」
背後から蓮の声。
「鳴ってる。けど、鳴り方が少し変わった」
「どんなふうに」
「音が高くない。低い。低い分だけ、長く吐ける」
「それは、いい」
蓮は静の隣に立ち、同じ場所から海を見た。
「冬馬、明日また来るかな」
「来る。書きに」
「何を書く」
「怒りの形。父ちゃんの形。灯の形。——たぶん“ありがとう”も、どこかに混ざる」
蓮は頷いた。
「記録は残酷だが、嘘がない、って言っただろ」
「うん」
「その“残酷”に、寄り添えるようになるには、時間が要る。今日、少しだけ、時間の使い方を覚えた」
「じいちゃんの姿勢、だね」
「うん」
二人はしばらく黙って海を見た。風はすでに秋の匂いをほんの少し含み、遠くの空の端で雲が薄く伸びている。
「蓮」
「なに」
「俺、じいちゃんの検査、見ないふりをやめてよかった」
「よかった」
「怖かったけど」
「怖いを分けると、息が増える」
静は笑った。「今日、その台詞、三回目」
「大事なことは、何度も言っていいんだ」
「じいちゃん理論」
「俺理論でもある」
二人はまた笑い、堤防の縁に腰を下ろした。膝を抱える姿勢は、体を小さくするが、呼吸の場所をくっきりさせる。小さくなって呼吸が大きくなる。矛盾の形が、ここでは自然に成立する。
夜、診療所の灯は早く消した。発電機の唸りがない夜は、音が細分化されて聞こえる。遠くの犬の短い吠え。誰かが水を汲む音。布団の上で体を返す音。
二階の畳の部屋で、静は往診ノートの余白を開いた。
——台風一過、島、片づけ。じいちゃん、検査。BNP少し高。軽度の心不全。止まらずに座る。体育館にて素振り。吐けば入る。喘息の子の笑い。冬馬、怒りと記録。読む人の呼吸。言葉は刃。
書きながら、静は胸の奥で鳴っていた低い音が、さらに少し遠のくのを感じた。書くこと自体が、吸入のように効く夜がある。
ペンを置くと、蓮が横で寝返りを打った。
「起きてる?」
「起きてる。お前のペンの音、聞いてた」
「うるさかった?」
「安心する音だった」
「そうか」
「なあ」
「うん」
「“見えない喘鳴”って、なんだと思う」
静は少し考えた。
「名前のついてない呼吸の乱れ。体じゃない方の、鳴り。——たぶん、島に来る前から鳴ってた」
「俺にも、鳴ってる?」
「鳴ってる。俺のとは音が違うけど」
「どんな音」
「剣道の竹刀が、床に置かれたときの、ほんの短い響き。次の一手に行く前の、静かな音」
「悪くない」
「うん。悪くない」
蓮は小さく笑い、枕に顔を半分沈めた。
「じいちゃん、明日も回診するかな」
「する。だから、俺たちもする」
「何を」
「そばにいる」
座布団の端に指先をかけ、静は布の目をひとつ撫でた。糸の上を指が滑り、止まる。
窓の外、海の呼吸は安定している。切れて、戻って、続く。
島の夜の真ん中に、見えない火が灯っている。その火は大きくはならない。けれど、消えない。誰かが風を送ると、かすかに揺れる。その揺れがある限り、明日の呼吸の仕方を、また少し、覚えられる気がした。
静は目を閉じ、数を数えた。吸って、四つ。吐いて、六つ。
呼吸の向こうへ、ほんの少しだけ、足を伸ばした。
今日という日の、最後の残心を置いたまま。



