第四話 潮騒のノート
朝の光が診療所の棚の奥まで届くとき、埃はゆっくりと浮き上がり、粒ごとに海を映した。潮のにおいと消毒液が等分に混じった空気の中で、静は脚立に乗って、祖父に頼まれた古い薬見本の箱を探していた。
「上の段、茶色い背のノートも見えるか」
「これ?」
静は、背表紙の革が縁から白く擦り減った厚い冊子を持ち上げた。子どもの頭の重さほどもある。片側の角は何度も机に当てられたらしく丸い。表紙の中央に細い金の型押しがかすかに残っている。
「往診ノート……」
静が呟くのと同時に、塩の粉に触れた紙が、指先でぬるりと温まった。
「戦後まもないころからだ」祖父は短く言い、椅子を引いた。「待合が落ち着いたら見なさい。思い出を磨くためじゃない。道順を確かめるためだ」
午前の患者の波が一度だけ引いた隙に、静はノートを開いた。ページの端は何度も指で挟まれ、柔らかくなっている。紙は薄く、墨のにじみが裏へ透けて、前後の時が重なる。
一九五二年八月十八日、男児出生。母健。
一九五三年九月、疫痢。集落の井戸の水を煮沸するよう告示。
一九五七年九月、台風。岸壁崩れ。
一九六三年三月、女児死亡。肺炎。父、漁。
走り書きは簡潔だが、筆圧は強く、句点が小さく深い。文字の並びが規則正しいときと、急いで崩れたときがある。崩れた行の脇には小さく印がついて、のちに補足が書き足されている。
静はページを繰る手を止められなかった。行間に滞る空気を吸っていると、胸の奥の硬いところがゆるむようでもあり、逆に締め付けられるようでもあった。
「静」
いつのまにか、蓮が隣に座っていた。手元の消毒綿の袋を指で遊ばせながら、静の動きを見ている。
「全部を背負う必要はない」
静は頷いた。だが目はページから離れない。
ある頁の端に、薄い封筒が挟まっていた。取り出すと、白黒の写真。若い祖父が白衣を着て、その肩に額を預けるように寄り添っている女――亡き祖母だろう。その腕の中には生まれたばかりの赤子がいた。背景の海は、今と同じはずなのに、どこか若い。
静は写真に指で触れ、左の上角の破れ目をそっと撫でた。
「この人がいたから俺がいる」
小さく言うと、喉が詰まり、息が痩せた。蓮は横目で静の横顔を見、何も言わずにノートを閉じて、その上に掌を置いた。掌の重さは軽いのに、紙の向こうの時間を痛めないだけの広さがあった。
「続きは、午後でもいい」
「うん」
静は頷いたが、指の腹には古い紙のざらりとした感触が残り、離れがたかった。
昼すぎ、海風は少しだけ乾いて、窓辺のカーテンの裾をさらう。発電機の唸りは、午前よりも芯が細くなった。待合のベンチに麦茶のピッチャーを置き、祖父は一枚だけカルテを書き終えて、机にノートを置き直した。
そのとき、引き戸が乱暴に開いた。
「先生」
冬馬だった。帽子を握りしめ、目だけが笑わずにいた。右手の包帯はまだ厚く巻かれ、その端は汗で灰色に湿っている。
「すまん」
「どうした」祖父は声を低くした。
「親父の骨、分けてもらえんか」
言葉はまっすぐだった。だが、その背後に積もる時間の層を、静と蓮は知っている。母は本土へ出たきり戻らない。父は春に海で亡くなり、葬儀は母方の親族や寺が取り仕切った。冬馬は家に残され、海へ出る仕事を覚えながら、父の名残を探している。
「分骨(ぶんこつ)」祖父は静かに繰り返した。「気持ちは分かる。けど、法の上では簡単じゃなか。墓地埋葬法、改葬許可――それから、管理者の許可のいる。今、骨は寺の管理下にある。母親の同意が要るはずだ」
冬馬の顔が、透明の膜を一枚かぶったように強張った。「母ちゃんは……」
言葉が続かない。
「戻っとらん。連絡はつかん」
「寺の住職とも話はする。おいからも話す。ただ、すぐには動かんやろう。わいがひとりで抱え込む話じゃなか」
「ひとりしかおらんとに」
冬馬の声が低く割れた。
祖父は机から立ち上がりかけて、また座った。椅子の脚が床に鳴る。
「怒っちゃいかんとは言わん。怒りは息や。だが、いま出してしまうと、次の息の足りんごとなる」
「息なんか、残っとらん」
冬馬は帽子を握り潰すようにして、ぐっと顔を上げた。「先生、骨、いま少しでいい。親父の、一本でいい」
祖父は目を閉じ、短い間だけ黙った。
「今のままでは、できん」
冬馬の喉が鳴った。静かな音だったのに、診療所がきしんだ気がした。
「蓮」
祖父は目で合図をした。
蓮は短く頷き、受付を回って冬馬の側に立った。「外、出よう。話そう」
「話すことなんか、なか」
「ある。話すためじゃなく、吐くために」
冬馬の肩がぴくりと動いた。蓮は先に引き戸を開けて、海風のほうへ身を寄せる。冬馬は一拍遅れて外へ出た。
診療所の前は、港へ降りるゆるい坂だ。昼を過ぎた陽の光が、石の段差に短い影を並べている。網が干してあり、赤い浮きが規則的に光を返す。蝉はさっきより間隔を開けて鳴き、発電機の音が遠くで重なる。
「俺は」冬馬が言った。「俺は、何にも持っとらん」
「持ってる。息がある」
「息で、何ができる」
「立てる」蓮は言い切った。「立って、持てる。持つものは、すぐには見えないときもある」
冬馬は笑おうとしたが、笑いはねじれて吐息になった。「蓮、お前、なんでそがん落ち着いとっと」
「落ち着いてないよ」
「嘘だ」
冬馬が右手を振り上げた。包帯の白が一瞬だけ陽に照り、すぐに影になって蓮の頬をかすめる。蓮は足を一歩後ろに引き、受け身を取る身体の軌道で腕をかわした。手首を掴むのではない。掴めば、余計に闘いになる。空いた左腕で冬馬の肩を抱く。重心を自分の内側に落とし、冬馬の体重をそっと吸い取るようにして、近づける。
胸骨と胸骨がぶつかる。汗の塩が肌に移る。冬馬の喉の奥の音が、蓮の胸の板に直接伝わる。
「離せ」
「離さない」
「殴らせろ!」
「殴ってもいい。俺を。けど、俺を殴る間は、立ってろ」
冬馬の体が、外側では暴れようとしながら、内側で崩れていく。その崩れを抱えて立つのは、簡単ではない。蓮のふくらはぎが細かく震え、汗が背中を流れる。
静はその光景に間に合った。引き戸の影に体を半分隠しながら、視線は逃げず、足は動かない。胸が内側から灼ける。
嫉妬ではない、とすぐに思う。その手前にあるもっと原始的な感情だ。誰かの痛みの重さを自分が抱えられない瞬間、その重さを誰かが受け止めているときの、救いと悔しさの混ざった灼け。
呼吸が早くなるのを、静は自覚した。吸うより吐く。吐けば、入る。祖父の声、蓮の掌の重さ、剣道の残心――その全部を借りて、胸の火を空に向けて吐き出す。
冬馬の腰が少し落ち、蓮の肩に額が触れた。熱い。
「海は、父ちゃんば返した」
冬馬は、押しつぶした麦の束みたいな声で言った。
「けど、その形が、俺の穴に合わん」
蓮は抱きしめた腕に力をこめず、ただそこに在った。「穴は、変わる」
「どうやって」
「息で」
「息で、どうやって」
「吐いて、入れて、また吐いて。形は、すぐには合わない。でも、変わる。変えるんじゃなく、変わるのを待つ」
冬馬は引き寄せられるようにして、蓮の肩に顔を埋めた。幼い子が眠るときの形に似ているが、眠りではない。睡りの手前で踏みとどまり、立っている形だ。
静は引き戸の桟に手を置き、そこに力を流した。代わりに、喉の狭いところが少し広がった。
「冬馬」
祖父が診療所の中から声をかけた。
「住職に連絡はつける。母親の件も、町の窓口に相談する。時間がいる。お前は明日も来い。包帯ば替える。舟の仕事は、手ば濡らしすぎるな」
冬馬は顔を上げずに頷いた。しばらくしてから、ゆっくりと蓮から身を離す。肩の形はぐにゃりと歪んで、すぐまた戻った。
「すまん」
「謝らなくていい」
「蓮は、怒っていい、って言ったやろ」
「あれは今朝の俺。今の俺は、抱きしめるほうがいいと思ってる」
冬馬の口元が、やっと笑いに近い形にほどけた。「明日、来る。先生、頼む」
祖父は頷き、長いまばたきを一度だけした。
午後の陽は、診療所の中の色を少しずつ冷たくしていく。長椅子のビニールの表面に、窓の格子の影がゆるく沈む。
静は往診ノートを、もう一度開いた。さっきの続きの行から目が滑って、別の頁に跳ぶ。
一九七九年八月、台風。妊婦、避難。男児出生。診療所階段にて。
一九八八年七月、発電機故障。手動でバッグ換気。
一九九一年八月、熱中症。祭。爆竹の煙に注意。
二〇〇四年(台風の番号だけが鉛筆で薄く書かれ、後からボールペンでなぞられている)、外れ集落、家屋全壊。
行の間に小さな印が残っていて、祖父の記憶の針の位置を示しているようだった。
蓮が洗面所から戻り、静の隣に腰を下ろす。
「全部を背負う必要はない、って言ったけどさ」
「うん」
「このノートは、先生が一回一回、背負って、でも全部は持たずに、ここに置いたのかも」
「置いて、続けた」
「うん」
静は写真の封筒を取り上げ、もう一度、祖母の目の笑い方を確かめる。笑いはやさしいのに、ただ柔らかいだけではない。何かの真ん中をまっすぐに見ている目だ。
「この人がいたから俺がいる」
静は繰り返し、今度は少し明るい声になった。
夕方、潮が満ち始めると、診療所はまた忙しさを増した。漁具で手を切った男、はしごから落ちて腰を打った老人、子どもの指に刺さった小さな棘。祖父は手を止めず、言葉を短く、しかし手の圧は柔らかく。
蓮は処置の合間に、台所で氷嚢を補充し、ペンのインクを替え、記録をつける。静は口数を少し減らし、患者の目の高さに体を落として話を聞いた。喉の奥の灼けは、まだ小さく残っていたが、さっきよりも呼吸は長く吐ける。
「静、顔が白い」
祖父が気づいた。
「夜になったら、少し休む」
「夜まで、待たんでよか」
「大丈夫」
静は笑って、緑色の消毒瓶のラベルを指でなぞった。指先の湿り気が、瓶の表面で冷たく薄く伸びる。
夜。
発電機の音が、昼間よりも低い音程で震えた。窓の外、精霊流しの提灯の枠はもう片付けられ、海は暗さの中で反射だけを持っている。昼に重く垂れていた空気は、夜になって別の重さを帯びた。
静は二階の畳に座り、吸入器を掌の上で一度転がしてから、キャップを外した。
胸の中に小さな石ができる前ぶれの、あの独特の気配があった。吸気の前に喉の奥がひゅ、と細く鳴る。
蓮は何も言わず、静の背後に座り、肩甲骨の下に手を置いた。手の平の真ん中に、呼吸の膨らみの中心を捉える。静が吸うときには、蓮の指がわずかに開き、吐くときには、手の平の熱をわずかに深く送る。
「吸って、四つ。吐いて、六つ」
蓮の声は低く、数の歩幅は短い。
静は、数に合わせるよりも、蓮の掌に合わせるほうが早いと思った。掌の重さの変化を追えば、自然と数は進む。
白い霧が喉のすぐ先を冷やす。冷たさは安心だ。それから、少しの恐れ。手放すことの恐れ。
「一緒に行く先は、呼吸の向こうだ」
霧の合間に、蓮が言った。
「大げさ」
「だな」
静は笑ったが、その笑いの奥で、眼が潤んだ。霧が見せる短い白の向こうに、蓮の輪郭が少し揺れる。その揺れは、海の夜の反射に似ていた。
「呼吸の向こうって、どこ」
「分からない。でも、いまここじゃない場所」
「見えないじゃない」
「灯を出すよ」
「どこに」
「お前の胸の中に」
言葉が、冗談か本気か、静にはすぐに決められなかった。決められないからこそ、胸の奥の石は少しだけ崩れ、砂の粒になって、息で動いた。
吸入を終える頃には、ひゅう、という音は喉の奥から遠のき、息は鼻腔の中で音を吸い込むようになった。
「ありがと」
「こちらこそ」
交わされる礼は、約束の形に少し似ていた。
階段を、祖父がゆっくり上がってきた。足音は、軽く、だが踏みしめている。
「静」
「うん」
「もう大丈夫そうやな」
「はい」
祖父は二人の前に、昼に開いた往診ノートを持ってきた。
「これを、お前たちに」
「預かって、いいんですか」蓮が訊いた。
「いつまでもわしの机に閉じておくもんじゃなか。読む人間が、次の頁に何を書き足せるか、考えるためのもんだ」
祖父はノートを静の膝に置き、蓮の方へも視線を向けた。
「医者でなくとも、人は誰かの呼吸を支えられる。大事なのは、そばにいる時間だ。腕前は、そのあとついてくる」
「そばにいる時間」
「うん。息の長さは、人によって違う。短い息の人には、短い息に合わせるやり方がある。長い息の人には、長い息がもたらす孤独に気づくためのやり方がある。どれも、そばにおらんと身につかん」
祖父は指先でノートの角を軽く叩いた。「わしは、ここに置いてきた。お前たちは、お前たちのやり方で置け」
静はノートを開き、空白のページを探した。空白は意外に少なかった。余白はたくさんあった。祖父の文字の行と行の間に、書かれてはいないが確かにある空間。
「書けるかな」
「書ける」蓮が答えた。「今日のことだけでも、たくさん書ける」
「何から」
「冬馬の汗の塩の匂いから、とか」
「発電機の音の切れ目、とか」
「マツさんが『綺麗かね』って言った声の高さ、とか」
「それを書いて、どうする」
「道にする」
静は笑って、祖父の写真の封筒をノートに挟み直した。
「じゃあ、明日、最初の一行を書こう」
「今日、書けよ」祖父が笑った。「明日は明日の息がある」
「そうだね」静は照れて頭を掻いた。「今日の最後の息で、何か書くよ」
「最後の息は、最後じゃなか。切れて、戻って、続く」
祖父の笑いには、疲れが混じっていなかった。夏の夜の深さが、目の下の影を薄くしていた。
祖父が降りていく足音を聞きながら、静は筆箱からペンを取り出した。蓮は隣で、窓の外の海を見ている。波は見えないが、音はある。音だけで形を思い浮かべるのは、昼よりも簡単だ。
静は空白にペン先を置いた。
――二〇二五年八月、潮騒の下で、誰かの息の残りを見ていた。冬馬の肩の形。蓮の掌の熱。マツさんの声の高さ。祖父の瞼の薄さ。灯は、流す前から胸にあった。
書きながら、静は呼吸の波がゆっくりと長くなるのを感じた。言葉は、息の形を写す。息は、言葉のために長くなる。
「蓮」
「うん」
「書けた」
「読ませて」
蓮は一行を読み、短く笑った。笑いは音にならず、肩だけで揺れた。
「いい」
「どこが」
「灯を前に置いたとこ」
「前?」
「うん。前にも、あとにも、あるんだろうけど」
静は頷き、ペン先を軽く振ってインクを落ち着かせ、はみ出したところを指で押さえた。
発電機の音が、一度だけ細くなって、すぐ戻った。
切れて、戻って、続く。
ノートの余白に、潮騒が見えない字でびっしりと書き込まれているように思えた。遠くのどこかで、爆竹の残り火が、遅れて小さく鳴った。
夏は、まだ終わらない。けれど、終わらないと分かっている夏ほど、速く過ぎる。
静はページを閉じ、掌でそっと押さえた。掌の下に、戦後からの出生と死亡、疫痢や台風、助けた命と看取った命の走り書きが、波の層のように重なっている。
「これ、重いね」
「重い」蓮は言った。「でも、持てる」
「持てる?」
「二人なら」
静は笑った。胸の奥の石は、砂になり、砂はまだそこにあるが、形は変わる。穴の形も、変わる。
窓の外で海が見えないままに呼吸し、診療所は、夏の夜の真ん中で、ゆっくりと息を合わせた。
灯は、胸の内側で、微かに、しかし確かに揺れていた。
朝の光が診療所の棚の奥まで届くとき、埃はゆっくりと浮き上がり、粒ごとに海を映した。潮のにおいと消毒液が等分に混じった空気の中で、静は脚立に乗って、祖父に頼まれた古い薬見本の箱を探していた。
「上の段、茶色い背のノートも見えるか」
「これ?」
静は、背表紙の革が縁から白く擦り減った厚い冊子を持ち上げた。子どもの頭の重さほどもある。片側の角は何度も机に当てられたらしく丸い。表紙の中央に細い金の型押しがかすかに残っている。
「往診ノート……」
静が呟くのと同時に、塩の粉に触れた紙が、指先でぬるりと温まった。
「戦後まもないころからだ」祖父は短く言い、椅子を引いた。「待合が落ち着いたら見なさい。思い出を磨くためじゃない。道順を確かめるためだ」
午前の患者の波が一度だけ引いた隙に、静はノートを開いた。ページの端は何度も指で挟まれ、柔らかくなっている。紙は薄く、墨のにじみが裏へ透けて、前後の時が重なる。
一九五二年八月十八日、男児出生。母健。
一九五三年九月、疫痢。集落の井戸の水を煮沸するよう告示。
一九五七年九月、台風。岸壁崩れ。
一九六三年三月、女児死亡。肺炎。父、漁。
走り書きは簡潔だが、筆圧は強く、句点が小さく深い。文字の並びが規則正しいときと、急いで崩れたときがある。崩れた行の脇には小さく印がついて、のちに補足が書き足されている。
静はページを繰る手を止められなかった。行間に滞る空気を吸っていると、胸の奥の硬いところがゆるむようでもあり、逆に締め付けられるようでもあった。
「静」
いつのまにか、蓮が隣に座っていた。手元の消毒綿の袋を指で遊ばせながら、静の動きを見ている。
「全部を背負う必要はない」
静は頷いた。だが目はページから離れない。
ある頁の端に、薄い封筒が挟まっていた。取り出すと、白黒の写真。若い祖父が白衣を着て、その肩に額を預けるように寄り添っている女――亡き祖母だろう。その腕の中には生まれたばかりの赤子がいた。背景の海は、今と同じはずなのに、どこか若い。
静は写真に指で触れ、左の上角の破れ目をそっと撫でた。
「この人がいたから俺がいる」
小さく言うと、喉が詰まり、息が痩せた。蓮は横目で静の横顔を見、何も言わずにノートを閉じて、その上に掌を置いた。掌の重さは軽いのに、紙の向こうの時間を痛めないだけの広さがあった。
「続きは、午後でもいい」
「うん」
静は頷いたが、指の腹には古い紙のざらりとした感触が残り、離れがたかった。
昼すぎ、海風は少しだけ乾いて、窓辺のカーテンの裾をさらう。発電機の唸りは、午前よりも芯が細くなった。待合のベンチに麦茶のピッチャーを置き、祖父は一枚だけカルテを書き終えて、机にノートを置き直した。
そのとき、引き戸が乱暴に開いた。
「先生」
冬馬だった。帽子を握りしめ、目だけが笑わずにいた。右手の包帯はまだ厚く巻かれ、その端は汗で灰色に湿っている。
「すまん」
「どうした」祖父は声を低くした。
「親父の骨、分けてもらえんか」
言葉はまっすぐだった。だが、その背後に積もる時間の層を、静と蓮は知っている。母は本土へ出たきり戻らない。父は春に海で亡くなり、葬儀は母方の親族や寺が取り仕切った。冬馬は家に残され、海へ出る仕事を覚えながら、父の名残を探している。
「分骨(ぶんこつ)」祖父は静かに繰り返した。「気持ちは分かる。けど、法の上では簡単じゃなか。墓地埋葬法、改葬許可――それから、管理者の許可のいる。今、骨は寺の管理下にある。母親の同意が要るはずだ」
冬馬の顔が、透明の膜を一枚かぶったように強張った。「母ちゃんは……」
言葉が続かない。
「戻っとらん。連絡はつかん」
「寺の住職とも話はする。おいからも話す。ただ、すぐには動かんやろう。わいがひとりで抱え込む話じゃなか」
「ひとりしかおらんとに」
冬馬の声が低く割れた。
祖父は机から立ち上がりかけて、また座った。椅子の脚が床に鳴る。
「怒っちゃいかんとは言わん。怒りは息や。だが、いま出してしまうと、次の息の足りんごとなる」
「息なんか、残っとらん」
冬馬は帽子を握り潰すようにして、ぐっと顔を上げた。「先生、骨、いま少しでいい。親父の、一本でいい」
祖父は目を閉じ、短い間だけ黙った。
「今のままでは、できん」
冬馬の喉が鳴った。静かな音だったのに、診療所がきしんだ気がした。
「蓮」
祖父は目で合図をした。
蓮は短く頷き、受付を回って冬馬の側に立った。「外、出よう。話そう」
「話すことなんか、なか」
「ある。話すためじゃなく、吐くために」
冬馬の肩がぴくりと動いた。蓮は先に引き戸を開けて、海風のほうへ身を寄せる。冬馬は一拍遅れて外へ出た。
診療所の前は、港へ降りるゆるい坂だ。昼を過ぎた陽の光が、石の段差に短い影を並べている。網が干してあり、赤い浮きが規則的に光を返す。蝉はさっきより間隔を開けて鳴き、発電機の音が遠くで重なる。
「俺は」冬馬が言った。「俺は、何にも持っとらん」
「持ってる。息がある」
「息で、何ができる」
「立てる」蓮は言い切った。「立って、持てる。持つものは、すぐには見えないときもある」
冬馬は笑おうとしたが、笑いはねじれて吐息になった。「蓮、お前、なんでそがん落ち着いとっと」
「落ち着いてないよ」
「嘘だ」
冬馬が右手を振り上げた。包帯の白が一瞬だけ陽に照り、すぐに影になって蓮の頬をかすめる。蓮は足を一歩後ろに引き、受け身を取る身体の軌道で腕をかわした。手首を掴むのではない。掴めば、余計に闘いになる。空いた左腕で冬馬の肩を抱く。重心を自分の内側に落とし、冬馬の体重をそっと吸い取るようにして、近づける。
胸骨と胸骨がぶつかる。汗の塩が肌に移る。冬馬の喉の奥の音が、蓮の胸の板に直接伝わる。
「離せ」
「離さない」
「殴らせろ!」
「殴ってもいい。俺を。けど、俺を殴る間は、立ってろ」
冬馬の体が、外側では暴れようとしながら、内側で崩れていく。その崩れを抱えて立つのは、簡単ではない。蓮のふくらはぎが細かく震え、汗が背中を流れる。
静はその光景に間に合った。引き戸の影に体を半分隠しながら、視線は逃げず、足は動かない。胸が内側から灼ける。
嫉妬ではない、とすぐに思う。その手前にあるもっと原始的な感情だ。誰かの痛みの重さを自分が抱えられない瞬間、その重さを誰かが受け止めているときの、救いと悔しさの混ざった灼け。
呼吸が早くなるのを、静は自覚した。吸うより吐く。吐けば、入る。祖父の声、蓮の掌の重さ、剣道の残心――その全部を借りて、胸の火を空に向けて吐き出す。
冬馬の腰が少し落ち、蓮の肩に額が触れた。熱い。
「海は、父ちゃんば返した」
冬馬は、押しつぶした麦の束みたいな声で言った。
「けど、その形が、俺の穴に合わん」
蓮は抱きしめた腕に力をこめず、ただそこに在った。「穴は、変わる」
「どうやって」
「息で」
「息で、どうやって」
「吐いて、入れて、また吐いて。形は、すぐには合わない。でも、変わる。変えるんじゃなく、変わるのを待つ」
冬馬は引き寄せられるようにして、蓮の肩に顔を埋めた。幼い子が眠るときの形に似ているが、眠りではない。睡りの手前で踏みとどまり、立っている形だ。
静は引き戸の桟に手を置き、そこに力を流した。代わりに、喉の狭いところが少し広がった。
「冬馬」
祖父が診療所の中から声をかけた。
「住職に連絡はつける。母親の件も、町の窓口に相談する。時間がいる。お前は明日も来い。包帯ば替える。舟の仕事は、手ば濡らしすぎるな」
冬馬は顔を上げずに頷いた。しばらくしてから、ゆっくりと蓮から身を離す。肩の形はぐにゃりと歪んで、すぐまた戻った。
「すまん」
「謝らなくていい」
「蓮は、怒っていい、って言ったやろ」
「あれは今朝の俺。今の俺は、抱きしめるほうがいいと思ってる」
冬馬の口元が、やっと笑いに近い形にほどけた。「明日、来る。先生、頼む」
祖父は頷き、長いまばたきを一度だけした。
午後の陽は、診療所の中の色を少しずつ冷たくしていく。長椅子のビニールの表面に、窓の格子の影がゆるく沈む。
静は往診ノートを、もう一度開いた。さっきの続きの行から目が滑って、別の頁に跳ぶ。
一九七九年八月、台風。妊婦、避難。男児出生。診療所階段にて。
一九八八年七月、発電機故障。手動でバッグ換気。
一九九一年八月、熱中症。祭。爆竹の煙に注意。
二〇〇四年(台風の番号だけが鉛筆で薄く書かれ、後からボールペンでなぞられている)、外れ集落、家屋全壊。
行の間に小さな印が残っていて、祖父の記憶の針の位置を示しているようだった。
蓮が洗面所から戻り、静の隣に腰を下ろす。
「全部を背負う必要はない、って言ったけどさ」
「うん」
「このノートは、先生が一回一回、背負って、でも全部は持たずに、ここに置いたのかも」
「置いて、続けた」
「うん」
静は写真の封筒を取り上げ、もう一度、祖母の目の笑い方を確かめる。笑いはやさしいのに、ただ柔らかいだけではない。何かの真ん中をまっすぐに見ている目だ。
「この人がいたから俺がいる」
静は繰り返し、今度は少し明るい声になった。
夕方、潮が満ち始めると、診療所はまた忙しさを増した。漁具で手を切った男、はしごから落ちて腰を打った老人、子どもの指に刺さった小さな棘。祖父は手を止めず、言葉を短く、しかし手の圧は柔らかく。
蓮は処置の合間に、台所で氷嚢を補充し、ペンのインクを替え、記録をつける。静は口数を少し減らし、患者の目の高さに体を落として話を聞いた。喉の奥の灼けは、まだ小さく残っていたが、さっきよりも呼吸は長く吐ける。
「静、顔が白い」
祖父が気づいた。
「夜になったら、少し休む」
「夜まで、待たんでよか」
「大丈夫」
静は笑って、緑色の消毒瓶のラベルを指でなぞった。指先の湿り気が、瓶の表面で冷たく薄く伸びる。
夜。
発電機の音が、昼間よりも低い音程で震えた。窓の外、精霊流しの提灯の枠はもう片付けられ、海は暗さの中で反射だけを持っている。昼に重く垂れていた空気は、夜になって別の重さを帯びた。
静は二階の畳に座り、吸入器を掌の上で一度転がしてから、キャップを外した。
胸の中に小さな石ができる前ぶれの、あの独特の気配があった。吸気の前に喉の奥がひゅ、と細く鳴る。
蓮は何も言わず、静の背後に座り、肩甲骨の下に手を置いた。手の平の真ん中に、呼吸の膨らみの中心を捉える。静が吸うときには、蓮の指がわずかに開き、吐くときには、手の平の熱をわずかに深く送る。
「吸って、四つ。吐いて、六つ」
蓮の声は低く、数の歩幅は短い。
静は、数に合わせるよりも、蓮の掌に合わせるほうが早いと思った。掌の重さの変化を追えば、自然と数は進む。
白い霧が喉のすぐ先を冷やす。冷たさは安心だ。それから、少しの恐れ。手放すことの恐れ。
「一緒に行く先は、呼吸の向こうだ」
霧の合間に、蓮が言った。
「大げさ」
「だな」
静は笑ったが、その笑いの奥で、眼が潤んだ。霧が見せる短い白の向こうに、蓮の輪郭が少し揺れる。その揺れは、海の夜の反射に似ていた。
「呼吸の向こうって、どこ」
「分からない。でも、いまここじゃない場所」
「見えないじゃない」
「灯を出すよ」
「どこに」
「お前の胸の中に」
言葉が、冗談か本気か、静にはすぐに決められなかった。決められないからこそ、胸の奥の石は少しだけ崩れ、砂の粒になって、息で動いた。
吸入を終える頃には、ひゅう、という音は喉の奥から遠のき、息は鼻腔の中で音を吸い込むようになった。
「ありがと」
「こちらこそ」
交わされる礼は、約束の形に少し似ていた。
階段を、祖父がゆっくり上がってきた。足音は、軽く、だが踏みしめている。
「静」
「うん」
「もう大丈夫そうやな」
「はい」
祖父は二人の前に、昼に開いた往診ノートを持ってきた。
「これを、お前たちに」
「預かって、いいんですか」蓮が訊いた。
「いつまでもわしの机に閉じておくもんじゃなか。読む人間が、次の頁に何を書き足せるか、考えるためのもんだ」
祖父はノートを静の膝に置き、蓮の方へも視線を向けた。
「医者でなくとも、人は誰かの呼吸を支えられる。大事なのは、そばにいる時間だ。腕前は、そのあとついてくる」
「そばにいる時間」
「うん。息の長さは、人によって違う。短い息の人には、短い息に合わせるやり方がある。長い息の人には、長い息がもたらす孤独に気づくためのやり方がある。どれも、そばにおらんと身につかん」
祖父は指先でノートの角を軽く叩いた。「わしは、ここに置いてきた。お前たちは、お前たちのやり方で置け」
静はノートを開き、空白のページを探した。空白は意外に少なかった。余白はたくさんあった。祖父の文字の行と行の間に、書かれてはいないが確かにある空間。
「書けるかな」
「書ける」蓮が答えた。「今日のことだけでも、たくさん書ける」
「何から」
「冬馬の汗の塩の匂いから、とか」
「発電機の音の切れ目、とか」
「マツさんが『綺麗かね』って言った声の高さ、とか」
「それを書いて、どうする」
「道にする」
静は笑って、祖父の写真の封筒をノートに挟み直した。
「じゃあ、明日、最初の一行を書こう」
「今日、書けよ」祖父が笑った。「明日は明日の息がある」
「そうだね」静は照れて頭を掻いた。「今日の最後の息で、何か書くよ」
「最後の息は、最後じゃなか。切れて、戻って、続く」
祖父の笑いには、疲れが混じっていなかった。夏の夜の深さが、目の下の影を薄くしていた。
祖父が降りていく足音を聞きながら、静は筆箱からペンを取り出した。蓮は隣で、窓の外の海を見ている。波は見えないが、音はある。音だけで形を思い浮かべるのは、昼よりも簡単だ。
静は空白にペン先を置いた。
――二〇二五年八月、潮騒の下で、誰かの息の残りを見ていた。冬馬の肩の形。蓮の掌の熱。マツさんの声の高さ。祖父の瞼の薄さ。灯は、流す前から胸にあった。
書きながら、静は呼吸の波がゆっくりと長くなるのを感じた。言葉は、息の形を写す。息は、言葉のために長くなる。
「蓮」
「うん」
「書けた」
「読ませて」
蓮は一行を読み、短く笑った。笑いは音にならず、肩だけで揺れた。
「いい」
「どこが」
「灯を前に置いたとこ」
「前?」
「うん。前にも、あとにも、あるんだろうけど」
静は頷き、ペン先を軽く振ってインクを落ち着かせ、はみ出したところを指で押さえた。
発電機の音が、一度だけ細くなって、すぐ戻った。
切れて、戻って、続く。
ノートの余白に、潮騒が見えない字でびっしりと書き込まれているように思えた。遠くのどこかで、爆竹の残り火が、遅れて小さく鳴った。
夏は、まだ終わらない。けれど、終わらないと分かっている夏ほど、速く過ぎる。
静はページを閉じ、掌でそっと押さえた。掌の下に、戦後からの出生と死亡、疫痢や台風、助けた命と看取った命の走り書きが、波の層のように重なっている。
「これ、重いね」
「重い」蓮は言った。「でも、持てる」
「持てる?」
「二人なら」
静は笑った。胸の奥の石は、砂になり、砂はまだそこにあるが、形は変わる。穴の形も、変わる。
窓の外で海が見えないままに呼吸し、診療所は、夏の夜の真ん中で、ゆっくりと息を合わせた。
灯は、胸の内側で、微かに、しかし確かに揺れていた。



