第三話 海の葬列

 お盆を数日に控えた朝は、湿度の層がいつもより一枚、余計に空の下に敷かれているようだった。水平線の向こう側から、見えない掌で空気が押し寄せては戻っていく。蝉の声は濃く、だがどこか抑えられた調子で鳴き、診療所の窓辺に吊るした温度計の赤い柱は、じわ、と音がしそうなほど遅く、しかし確実に上へ伸びる。
 港の鐘が鳴ったのは、午前九時を少し過ぎたころだった。島の人なら誰でも知っている合図――緊急。
 受付の引き戸が勢いよく開き、潮と油の匂いをまとった男が転がり込む。「舟の、ひっくり返っとる! 二人、若っかもんの戻らん!」
 祖父は椅子から立ち上がると、ひと呼吸で往診バッグから余計な器具を抜き、逆に包帯や冷却材を詰め足した。動きは速く、だが整っている。
「蓮」
「はい」
「浜に行け。日陰ば作らせろ。水と塩、そいから子どもの様子ば見とけ。怒鳴らんで、短くはっきり言えばよかけん」
「分かりました」
「静は診療所に残る。ここば救護所にする。薬の準備、包帯、消毒、氷の段取り。怪我と熱中症の来るけん」
「はい」
 命令は短い。受け取った二人の返事も短い。短さが、いま必要な速度だった。
 浜はもう、人で縞模様を描いていた。防波堤と砂浜の境い目を、色褪せた帽子と白いタオルが行き来する。舟が沖へ出て、また戻り、網を積み替え、ロープを替え、走る。日よけのテントは足りず、青いシートが慌てて結びつけられていく。
「陰(かげ)ば作るけん! ここ、紐もっとよけ張れ!」
 怒鳴る声に、子どもが泣き、母親が抱き上げ、祖父に教えられた通りの塩の小袋を舐めさせる。
「一口水飲んで、休んで、もう一口」
 蓮は声を少し低くして、早口にならないように言い聞かせた。低い声は、焦りを沈める重さを持つ。
 砂地に座り込んだ老婆の首筋に手を当て、汗を拭い、脈を数える。数が速すぎるときは、水を渡して、太腿の下に丸めたタオルを差し入れる。別の場所では、帽子を飛ばされた子が額を切り、血で赤くなった手で泣いている。蓮はしゃがみ込み、目線を合わせた。
「大丈夫。ここ、ちょっと冷やして、テープ貼る。痛いの、すぐ小さくなる」
 貼るテープの白さが、砂の黄色の上に鮮やかに浮く。
 自治会長が駆け寄ってきて、蓮に地図を見せた。
「この藻場の外れで目撃が最後やったげな。潮目ば読み間違うたかもしれん」
 藻場(もば)は夏の海の緑が濃く、流れが複雑だ。蓮は首で頷き、「分かりました」とだけ答える。できることとできないことの境は、ここでははっきりしている。できることに、手を置く。
 そのころ診療所では、静が機械的な手際で机を空け、消毒セットを広げ、清潔な水と氷嚢の数を数え、予備の包帯を並べていた。入口のすぐ脇のベンチにはバスタオルを敷き、靴を脱がせられるように踏み台を置く。
「ここに座って。冷たいの、首の後ろと脇の下に挟むね」
 走って転んだ少年が泣きながら頷く。擦過傷は大人にとっては些細でも、子どもの世界の中心を占める。静は消毒液を最初に見せ、「これがちょっとしみる。数を数えよう。いち、に、さん」と言いながら傷に触れる。少年はびくっと身をすくめるが、数を数える間だけ、別のことを考える余白が生まれる。
「剣道やってる?」
「……やってない」
「そっか。なら今日から“勝ち傷”だ」
 静の声は冗談半分だが、本気も混じっていた。勝ち傷、という言葉が少年の胸に小さな旗を立てる。泣き止んだ唇が、少しだけ上がる。
 受付では、近所の女性たちが氷を運び込んでくる。製氷機は島に一つだけ、氷は貴重だ。静はタオルで包んで氷嚢の数を増やす工夫をしながら、祖父の声を思い出している。
――水は、一度に飲ませない。冷やすのは大きな血管の通り道。
 声は手を通って体に入る。祖父の声は、指の関節にまで染み込んでいる。
 正午、暑さは頂点に達した。蝉の鳴き声は、耳の膜を均一に叩く連打になり、遠くのサイレンが途切れ途切れに届く。
 蓮はひとり、浜の端で海を見た。白と緑の境目が曖昧になっていく。空の色も、どことなく眠そうだ。
「蓮!」
 冬馬が駆け寄ってきた。包帯をした右手は濡れ、砂がついている。
「お前、手は」
「大丈夫。先生に怒られるけど、今は動かんば」
 冬馬は息を切らし、海の向こうを指さす。「あっちのカーブんとこ、ブイの新しか。潮の変わっとる」
 蓮は頷き、自治会長へ情報を伝える。会長は隣の漁師へ短く叫ぶ。舟が向きを変える。息の合った島の動きは、美しいと同時に、恐ろしい。合わさった息が、ひとつの方向へ流れ出すとき、人は迷わずに走れる。だが、間違うと、迷いもひとまとめに加速する。
 午後一時過ぎ、浜の隅で悲鳴が上がった。
「見つかった!」
 その声だけで、蓮の背中に冷たいものが走る。
 運ばれてくる身体は、まだ若い。水から上げられたばかりの肌は、空気の中で現実の色に戻っていく。
 祖父が駆ける。周りの騒めきが、祖父の半径一メートルだけ静まる。
 瞳孔、反応なし。体温、低い。呼吸なし。脈、触れず。
 祖父は、家族の方を見ようとしない。見ると、判断が遅れるからだ。まずは事実の確認。
「死亡確認。午後三時二十二分」
 周囲が揺れた。家族の叫びは、波頭より高く立ち上がり、崩れて砂に吸い込まれる。
 祖父はひとりの男の肩に手を置き、短い言葉で、死の手続きについて説明する。なぜいま死亡を告げるのか、どこで身体を清めるのか、誰がどの順序で何をするのか。
 説明は、死を人の側へ戻す儀式でもある。あいまいな恐怖を、手の届く段取りへ変える。
 静はその場に立ち尽くし、吸うことより先に、吸ってしまう癖に身体が傾きかけた。喉の奥で空気がつかえ、胸の上半分だけが無理に上下する。
「静」
 背中に置かれた蓮の手が、静かな重さでそこに存在する。
「残心」
 静は蓮の言葉を、声としてではなく、手の平から入ってきた合図として受け取った。一本のあと、すぐに切らさない。息の残りに耳を澄ます。吐く。吐き切る。
 吐けば、入る。
 肺の下の方で眠っていた筋肉が、目を覚ます。
「……大丈夫」
「大丈夫」蓮が短く返し、背中を離した。
 遺体は集会所へ運ばれた。女たちは素早く桶を運び、男たちは長机を運び、白い布が広げられる。祖父は集会所の片隅で、必要な書き物に手を動かし、署名の位置を示し、読み上げ、また説明する。
 泣き声と紙の擦れる音が交互に鳴る。泣き声は人の内側の海で、紙の音は人の外側の陸だ。
 この島では、海と陸の境目はいつも近い。
 夕方。日が傾き、熱は減り、湿り気だけが残ると、島全体が次の段取りへ移った。精霊流し。
 港の桟橋に、紙で作った精霊船が並ぶ。鯨の背のように黒い海面に、白と赤の紙が映える。提灯に火が移され、子どもが爆竹を手に走る。連打。火花。焦げた紙の匂いと、線香の匂いが混じる。
 音は死者の道を開けるためのものだ、と誰かが言っていた。道場の礼と同じで、形と音と所作が、人の心に道を敷く。
 しかし、浜マツの家の縁側は、祭りの気配の外にあった。
 痛みは波のように戻ってくる。さっき小さくなったのに、また大きくなって戻ってくる。孫娘は手を握りながら、何度も時計を見ては、縁側の先の暗い空気を見た。
「おばあちゃん、ごめん……」
 泣く声は自分を責めているのではない。間に合わないことに対する悔しさだ。
 静は祖父に教わった手順で口腔ケアをする。水を含ませた綿棒で唇の縁を湿らせ、口角の固まったところを柔らかくほぐし、口蓋の乾いたところに、わずかに涼しさを置く。水は少し。肺に落ちない程度に。
 窓の外、提灯の列がゆっくりと海へ出ていく。灯りは水の表面にしばらく留まってから、潮に載って動き出す。
「綺麗かね」
 マツの声は、細い線のように空気に引かれた。静は顔を上げ、孫娘と目が合う。孫娘は涙で濡れた頬のまま、口元だけで笑った。
 蓮は診療所へ走り、薬を受け取り、手帳に時間を記す。痛みの数字、呼吸の数、体温。数字は冷たいが、冷たいことで人を救う。数字が冷たくいられるのは、誰かがそばにいるからだ。
 戻った蓮は、祖父から薬の量と間隔の変更を受け取る。静は綿棒を置き、ゆっくりマツの手を握った。
「外は、灯りがきれいです」
「きれいかね」
 同じ言葉が、別の時間に流れる。
 マツの呼吸は少し楽になった。痛みはゼロにならない。ゼロにしないほうがいいときもある。身体が世界とのつながりを感じられるぎりぎりを保つ。その加減は、数字と、顔と、声の間にある。
 孫娘は座布団の端に指をかけ、爪で布を引っかいた。指の小さな動きが、祈りの一種に見えた。祈りは手の形に宿る。
 爆竹の音が遠のき、波の音が主役の座に戻ってくる。灯は沖へ出て、港の外のゆるいカーブを曲がり、見えなくなる。見えなくなることで、逆に頭の中で強く光る。
 静は窓枠にもたれ、呼吸の波を自分の掌で感じた。さっき乱れた吸気が、いまは長く吐けるようになっている。蓮が背中に置いた手の重さは、まだ背骨のどこかに残っていて、見えない支柱のように立っている。
 どこかで、線香の灰がはらりと落ちる音がした。
 祖父がマツの額に手を置く。「ようやったね」
 マツはうっすら笑う。「先生、灯は届くね」
「届く」
「なら、よか」
 祖父は頷き、孫娘の頭に手を置いた。掌の広さが、安心の広さに直結する年齢がある。いまは、まだそうだ。
 診療所へ戻る道、空気は昼とは別の匂いをしていた。爆竹の火薬が湿って冷え、湿った土の匂いが道路に上がってくる。
 祖父がふっとよろめいた。
「先生!」
 蓮が反射的に腕を差し出し、祖父の肩を支える。
「大丈夫やけん」
 祖父は笑おうとしたが、笑いは短くほどけた。
 静がスマホの小さなライトで祖父の目を照らす。瞳孔は左右で差がない。瞳の奥に、ふっと白い雲がかかったように見えたのは、光の加減か、それとも本当に、老いの兆しか。
「血圧、測ろう」
 診療所へ戻ってすぐ、蓮はカフを巻き、祖父の腕に耳を寄せた。
 数字は平常。
 それでも、さっきのふらつきは、蓮の前腕に確かな重みとして記録された。
「島医者は老いに時間ば割けん」
 祖父は軽く笑い、椅子にもたれた。
「割けないから、割くんだよ」静が言った。
 祖父は「生意気言うごとなった」と笑い、目を細めた。その目の奥には、疲れと安堵と、少しの誇りが同居していた。
 夜半、診療所の引き戸がふたたび開いた。冬馬が立っていた。包帯はやはり濡れて灰色がかり、砂の粒が白い布に黒い点となって散っている。
「怒らんでください。どうしても、灯ば流したかった」
 冬馬の声は震えていない。震えが、もう使い果たされた後の声だ。
 祖父は怒らず、ただ座らせた。包帯を外し、消毒し直し、傷の端の色を確かめ、縫合の糸が皮膚に食い込んでいないかを見た。
「形は、少し変わる」
 祖父が言った。
「何の形ですか」
「痛みの形も、怒りの形も、手の形も」
 冬馬はうなずき、視線を落とした。
「親父、今日、灯におらんかった」
 静は冬馬の横顔を見た。
「見えんかっただけたい」
「そうかな」
「うん。見えん方に、たぶんおった」
 蓮が紙コップの水を差し出した。冬馬は受け取り、遠くのどこかを見ながら飲んだ。
「ありがとう」
 短い言葉の中に、いろんな形が流れ込んで、また流れ出していった。
 夜の記録は、蓮が書いた。日時、患者名、処置内容、症状。海難事故による死亡確認、時間。救護所対応件数、熱中症四、擦過傷八、小切創二、気分不良三。浜マツの疼痛コントロール変更、レスキュー投与間隔の調整。
 数字は黒いインクで紙に残る。インクが乾くのを待つ間、発電機の音が低く、規則的に鳴る。切れて、戻って、続く。
 静は吸入器のキャップを机の端で指先に転がし、止める。転がし、止める。
「蓮」
「ん」
「今日、俺、見えなかったものが、いくつかある」
「うん」
「見ないふりじゃなくて、本当に見えなかった」
「ある。俺にも」
 二人の声は小さく、診療所の木の柱に吸い込まれていく。
「でも、見えないもののために、灯を出すんだろうな」
「そうだな」
「マツさん、綺麗かねって言った」
「うん」
「綺麗だった」
「綺麗だった」
 言葉を重ねることで、言葉にならない部分を、少しずつ共有する。共有できない部分が残ることも、また、受け入れる。
 窓の外は、もう真っ暗ではない。暗さの中に、海の塊がある、と分かる程度の薄い光が混じり始めている。遠くの沖へ流れた灯りは見えないが、見えない灯りが、胸の奥に点々と残っている。
 祖父が机に突っ伏しかけ、すぐに首を上げた。
「寝なよ、じいちゃん」静が言う。
「お前も」
「俺は、そばにいる」
 祖父は笑い、目を閉じた。
 蓮は椅子を引き、窓の外を見た。波は夜の間も、規則と不規則を行き来して、音を作り続けている。
 今日、海はひとつの命を取った。取ったものを、別の形で返すかどうかは、まだ分からない。だが、島はそのことを前提に、灯を出した。
 灯は、流す前から道を作り、流したあとも胸に道を残す。
 生者と死者の列が、今夜ほど近く交わったことは、蓮と静にとって初めてだった。
 息を合わせて生きる、と祖父は言う。合わない瞬間があることも、いま、二人は学びつつある。合わなくても、そばにいられる方法を覚えること――それが、この夏のもうひとつの課題だ。
 発電機の唸りが、すっと細くなり、また太くなる。切れて、戻って、続く。
 蓮はその音に合わせて、胸の奥でゆっくり息を吐いた。吐けば、入る。
 静も、同じように、息を吐いた。吐けば、入る。
 息は二人の間を往復し、見えない速度で、夏を加速させた。
 明日の朝、また鐘が鳴るかもしれない。鳴らないかもしれない。どちらでも、二人は起きて、歩幅を合わせる。
 道は、灯の前にも、灯のあとにも、あるのだ。