第二話 診療所の朝
まだ夜の背が抜けきらない時刻、港は音の種類を減らしていた。波は低く、岸壁のコンクリートを撫でては離れ、撫でては離れる。人の声は、誰かの喉で準備運動をしているように小さい。
祖父は舟の舳先に立ち、蓮と静に手早く救命胴衣を渡した。ベルトの金具が薄明の中で冷たく光る。
「外れの集落は陸路の悪か。潮の上がる前に着こう」
祖父の声は、波より低く、風よりはっきりしていた。
エンジンが喉を鳴らし、舟は港を抜け出す。夜と朝の境目は、海面ではなく頬の皮膚の方へ先に降りてきた。湿り気の層が薄く剥がれ、塩の粒が微細に浮遊している。静はそのわずかな差異を敏感に拾っているらしく、胸のあたりで指を軽く開閉して、空気の通りを確かめていた。
「揺れるぞ」
祖父の言葉に、蓮は甲板の縁に両足を肩幅に置いた。立ち方は道場で教わったとおりだ。舟の胴に合わせてかすかに膝を緩める。静も同じふうに、だがわずかに浅めに膝を使って、舟の癖を早く見抜こうとしている。
「じいちゃん」
「なんね」
「この舟、右に癖がある」
「よう見とる」祖父は笑った。「舵の遊び分のそうなっとる。覚えとけ」
その短いやり取りに、蓮の胸は少し温かくなった。静は病者であり、孫であり、そして、世界の仕組みを発見する者でもある。その三つの顔が順番にこちらへ向いてくるのを、蓮はいつでも見逃したくなかった。
外れ集落は、岬の向こうの小さな入り江を上がったところにあった。舟を引き上げると、砂に混じって貝の小片が光る。早朝の斜光は、比喩を使わなくても十分に美しい。
家は低く、屋根は海の風を何度も受け止めてきた色合いにすり減っている。玄関の柱は、手の脂で黒光りしていた。
「おはようございます」
祖父が声をかけると、奥から細い返事がした。
畳の匂いと、潮の匂いと、乾いた布団の匂いが重なって、部屋の空気は年齢を持っているようだった。浜マツは、窓から少し離れたベッドで横になっていた。頬の骨が美しい角度で張り出し、その内部にまで光が届いているように見えた。枕元の家族写真は潮で色褪せ、輪郭がやさしく滲んでいる。
「マツさ、おはよう」
祖父は椅子に腰かけ、手首を取り、時間を測る。脈の速さは、祖父の眉の動きで分かった。
「昨夜は痛みの強かったごたるですね」
祖父が問うと、孫娘が縁側から小さな声で言う。「寝入りばながいちばん……」
蓮はバッグからバイタルの記録用紙を取り出して、祖父の口に出た数字を写した。書きながら、数字が風に鳴る竹の音のように耳の奥で揺れる。
「今日は、少し増やしましょうかね」
祖父の声は、ためらいを含んでいたわけではない。迷いは説明するもので、ためらいは共有すべきではない――祖父はそう思っているようだった。
静は水を含ませた綿棒を用意した。綿が吸い上げた水の重みはほんの糸一本分ほどで、指先の感覚だけがそれを知っている。静はそれでマツの唇をそっとなぞる。
老女は眼を開け、静の手を握った。指は細いのに、握る力はかすかに粘る。
「若か手は、海の匂いのせん」
再び。老女の声は薄いが、芯がある。
「すみません」静が笑う。
「謝ることじゃなか。よう来た」
静の笑いは、相手の声の温度に合わせて自然と変わる。蓮は、それが好きだった。剣道のときの彼は、相手の竹刀の癖を捉えるのに長けていた。ここでも同じことをしているのだと思う。ただ、ここでは打突の代わりに、指先の湿度が反応する。
祖父は疼痛コントロールの薬を調整し、孫娘に丁寧に説明をした。時間帯の違い、飲み忘れたときの対処、便秘への備え。紙の上に書かれる文字は濃く、矢印はしっかりと進む方向を示している。
「痛みはゼロにせんでもよか。怖あなか程度にまで下げる。怖あなくなったら、灯が見える」
「灯」孫娘が繰り返す。
「うん。お盆の灯(あかり)たい。縁側から見えるごと、段取りしてやるけんな」
孫娘の目の奥に、涙が急に、だが穏やかに溜まる。涙は、恐れと期待の両方の味をしていた。
帰り際、マツはゆっくりまばたきをして、静の手をもう一度握った。「若か手は、よか。うちの手は、海になっとる」
静はその言葉を受け取り、「海、いいですね」と答えた。老女は小さく笑い、眼を閉じる。その笑いは、蓮の胸のどこかに塩を一粒置いていった。
舟に乗り、帰路へ。朝は完全に明け、潮の色は青の中に少しだけ緑が混じる。祖父は舵を握りながら、背筋を伸ばしている。腰に疲れが来ているのは分かるのに、姿勢は崩さない。
「じいちゃん、朝ごはん」
静が水筒とおにぎりを差し出す。祖父は片手で受け取って、片手で舵を微調整した。舟は小さく右へ寄り、すぐに戻る。
「さっきの孫娘さん、お盆の灯を流したいって」
「そうか」祖父は短く言う。「灯は道やけんね」
「道?」蓮が尋ねる。
「死んだ人の迷わんごと。生きとる人も迷わんごと。道は、流した側にも敷かれる」
風が少し強くなり、舟が鼻先からわずかに跳ねた。静はそれに合わせて膝を使う。呼吸が乱れないように、吐く秒を数えている。
「吐けば、入る」
「そうだ」祖父は言い、蓮の方をちらと見た。「あんたも、吐くのが下手そうやね」
蓮は苦笑した。「はい」
「吐ききらん人間は、勝っても負けても、次に行けん」
「残心が置けないのと似てますね」
「似とる」
この祖父と話すとき、蓮の言葉はいつも道場の言葉と地続きになる。道場で身につけたことは、海や病や死のある場所でも通じるのだと、体のどこかがうなずく。そう思えると、心の渇きが少し収まった。
診療所に戻ると、待合の長椅子に冬馬が座っていた。右手をタオルで押さえ、顔色は悪くないが、目の奥が落ち着かない。
「どうした」
「すみません、指を思い切り……」
タオルを外すと、親指と人差し指の間、手のひら側に深い切り口が見えた。血はもう勢いよくは出ていないが、筋の白が覗くのを見て、蓮の胃がきゅっと縮む。
「どがんした刃物でか」祖父が訊く。
「親父のナイフ。ひさしぶりに研いだら、研ぎすぎました」
「研ぎすぎる人間は、だいたい急ぎすぎる」
祖父は手袋をはめ、無駄のない動作で消毒を始める。
「蓮、滅菌のセット。静、洗浄の準備」
二人は言われる前から動いていた。蓮は棚から青いパックを取り出して開封し、静は洗浄ボトルの先端を確かめながら、冬馬の表情を注視する。痛みの波の周期は、顔の筋肉の緊張で少し読める。
「麻酔、打つけんな」祖父が言い、冬馬が短くうなずく。
局所麻酔の針が皮膚に入る瞬間、冬馬はわずかに歯を食いしばった。静は息を吐くように「大丈夫」と言った。
「親父のナイフ、か」
祖父の手元は動き続ける。縫合のための器具が光る。
「はい。蛸壺のロープ切るのに、毎年のように研いでたやつ。俺は……今年は、使わんやつを、使おうと思って」
「なんで」蓮が訊き、それが不用意な問いにならないように声の角度を整えた。
「分からん。親父がいなくなってから、触りたくないと思っとったくせに、触った」
冬馬は笑おうとしたが、笑いは途中でほどけた。
「海で、親父は消えた。みんなは、海の取ったって言う。うちのばあちゃんは、いつか返してくれるって言う。夏になると、返り潮ば見る」
「海は取る。時々、返す」祖父が言った。「返すときには形の変わっとる。人の側が、その形ば受け取れるごと用意しとかんば」
「用意」
「手の形でん、心の形でん。どっちでもよか。どっちもいるけん」
縫合が始まる。針が皮膚をすくい、糸がわずかにきしむ。その音は、蓮には道場の床に面の紐が擦れる音に似て聞こえた。稽古の最中に面紐を結び直すときの、あの集中と緩みの交代。
蓮はふと、剣道の試合で味わう“取り返しのつかなさ”を思い出した。旗が上がり、一本の宣告が下ると、その瞬間は世界に固定されてしまう。どれだけ異議を唱えても、一本は一本だ。彼はそれを受け止めるための筋肉を、何年も訓練してきた。だが、ここでは別の筋肉が必要なのだと思った。
手洗い場で、蓮は石鹸を泡立てながら喉の奥の渇きを感じた。泡の白は、甲板のミストとは違う白さだ。消毒液の匂いは、汗の匂いと鋭く交わり、皮膚の表面で少し喧嘩をする。
戻ると、祖父は最後の結紮を終えていた。ガーゼで押さえ、包帯が手のひらに白い輪を作る。
「こいでよか。上等たい。明日また来い。手は使ってもよか。ばってん休ませる時間ば決めろ。使って休ませて、また使う」
「ありがとうございます」冬馬が深く頭を下げる。
「冬馬」蓮が呼ぶ。
「なん」
「怒っていいと思う」
「誰に」
「海にでも、自分にでも、親父にでも」
冬馬はしばらく黙った。包帯の端を見つめ、目の奥で何かをほどくように。
「怒ると、息がつまる」
「吐くために怒るんだ」静が言った。「吐けば、入る」
冬馬は、そこでやっと笑った。笑いは短く、けれど確かだった。
「また明日」
診療所を出ていく背中に、蓮は自分の肩の力が少しだけ抜けていくのを感じた。誰かの痛みが完全に治ったわけではない。無くなりはしない。けれど、痛みの形が言葉でなぞられたとき、息の路が少しだけ広がる。その広がりは、目に見えない。
昼下がりの診療所は、窓から入る風の温度が高くなった分だけ、匂いの色が濃く変わった。古い薬棚の木目は汗を吸い、床はわずかに湿っている。
静は処置室の椅子に座り、胸に手を置いた。一秒、二秒、三秒――吐いて、四秒、五秒――わずかな音の変化を自分の喉の奥で聴き分けるように。
「静」
蓮が近づく。静は笑う。
「ちょっとだけ。吸うより、吐くほうを長めに」
「吸入、しよう」
静は頷き、吸入器を取り出した。白い霧が狭い世界を一瞬だけ曇らせる。祖父が戸口に現れ、「島の湿気は喘息に厳しか」と短く言った。
「でも、ここで呼吸筋ば覚えたら、都会で楽になるけん」
「さっき舟で言ってました」蓮が答える。
「同じことばかり言う歳になった」祖父は笑った。「同じことは、何度でも言ってよか」
静は吸入を終え、呼吸の波を整えた。祖父は胸に聴診器を当て、耳を傾ける。チューブは白く粉を吹き、金属の輪は古い指輪のように鈍く光る。
「今日はこいでよか」
「うん」静は返事をすると、窓の外を見た。干した網が風に揺れ、その影が壁にゆっくり移動する。影の動きは、時計の秒針の代わりみたいで、見ているだけで呼吸のテンポが生まれる。
午後の患者は、日焼けした子どもたちの擦過傷と、畑仕事で腰を痛めた老人と、台所で指を切った主婦と、魚の骨が喉に刺さった青年と、いろいろだった。祖父は同じ声の高さでそれぞれに接し、同じように違う助言をする。
「痛み止めは毒じゃなか。味方やけん。味方の扱いの下手か人間もおるけどな」
「腰は休めるときは休め。休めんときは、休めんことば認めろ」
「魚の骨は勝手に進む。焦って引き返さんごと」
診療所の引き戸が何度も開き、閉じるたびに風の匂いが少しずつ変わった。潮に油が混じる瞬間、油が砂に吸われる瞬間、砂が汗にまとわりつく瞬間。蓮は、その変化を呼吸で受け止めることに慣れていった。
日が傾き、診療所の前の道の影が長く伸びる頃、静は「少し歩こう」と言った。
二人は堤防へ向かった。竹刀は持たなかった。素振りの形だけが、二人の腕と背中に宿っている。
堤防に立つと、風が面紐のない顔をやさしく撫でた。汗はすぐに乾き、皮膚の上に薄い塩の膜が残る。
「ここで勝ち負けのこと考えると、焦るよね」
静が言い、蓮は笑った。
「じゃあ、やめよう」
「やめるって言っても、頭が勝手に考える」
「勝ち負けじゃない残心を置けばいい」
「残心を?」
「今日、マツさんの部屋で見ただろ。あれは、終わりじゃなくて、続けるための置き方だった」
静は少し黙り、海を見た。波は遠くで眠っているように見え、近くでは小さく呼吸している。
「俺も、置けるかな」
「置ける。俺は、お前の横に置く」
静は振り向き、照れも嘘もなく笑った。「ありがと」
二人は並んで、腕の重さだけで素振りの軌跡を描く。足はすり足で、砂の上に細い線を残す。海からの風は、線をすぐに消さないでいてくれた。
「冬馬、明日また来るかな」
「来るだろう」
「怒るの、少しうまくなってた」
「吐けるようになったら、うまくなる」
会話は短く、だが、短い方が深く沈むことがある。言葉は海と同じで、浅瀬でバチャバチャさせるより、静かに落とした方が遠くへゆっくり届く。
夜、診療所に戻ると、祖父は机に突っ伏すようにして往診ノートを見ていた。ペン先が紙に触れているのに、しばらく字は動いていない。
「じいちゃん」静が声をかける。
祖父は顔を上げた。目の下に薄い影が落ちている。
「なんや」
「夕飯、食べた?」
「食べたごた気はする。食べとらん気もする」
冗談の口調だが、肩の落ち方は冗談ではない。
「横になって」静が言った。
「まだ記録のある」
「横になって」
祖父は苦笑し、椅子から腰を上げた。少しふらつく。蓮はさりげなく腕を取る。ほんの一瞬、祖父の体重が蓮の前腕に乗った。その重みは驚くほど軽いのに、蓮の心に残る影は濃かった。
二階に上がると、畳が鳴いた。祖父は布団に横になり、目を閉じた。「おいが寝とるあいだに受診の来たら」
「起こす。安心して」静が言う。
祖父の呼吸はすぐに規則的になった。寝息が、発電機の低い唸りと重なる。切れて、戻って、続く。
静は扉を閉め、廊下に立った。その横顔に、わずかな硬さが浮かぶ。
「大丈夫だよ」蓮が言う。
「うん」静は答えたが、目は笑わなかった。
階段を降りる途中、静は一度だけ踊り場で立ち止まり、壁のしみを見た。しみは海の形にも地図の形にも見えた。静は視線を逸らし、踊り場の窓から見える提灯の灯を数えた。
蓮は、その逸らし方を知っている。痛みを直視しないことで呼吸を保つやり方。ここ数年、彼が静のそばで何度も見てきた態度。見ないことは逃げることではない。続けるための選択だ、と蓮は頭では理解している。だが、今夜の祖父の背中の影は、理解だけでは済まない種類の黒さを帯びていた。
蓮は見える方を選んだ。静は見ない方を選んだ。
二人の選び方が、いつも同じになる必要はない。むしろ、ずれながら支え合う方が、長く続くこともある。
台所で水を飲みながら、蓮は壁の時計を見た。秒針が一周するたびに、自分の中で何かが整う。昼間、手を洗いながら喉が渇いたときの、あの渇きは少し引いている。渇きは、誰かの息を支えたあとでしか引かないのかもしれない。
「蓮」
静が声をかける。
「ん?」
「明日の朝も、外れ行く?」
「行く。吐く練習になる」
「吐く練習?」
「ためてることが多すぎる。俺」
静は笑い、やっと、目のあたりから笑った。「じゃあ、吐く練習に付き合うよ」
「頼む」
二人は二階へ上がった。畳はやはりやさしく鳴いた。窓の外の提灯が、風に合わせて微細に震える。
布団に入ると、静は吸入器のキャップを指でなぞった。「今日は、マツさんに触れてもらった手が、あったかい」
「海の匂いがしなかった手」
「うん。いつか、するようになるのかな」
「なるだろう。俺の手は、多分もう少しで海になる」
「どうして」
「今日一日、波を何回数えたか覚えてないから」
静は笑って、ゆっくり目を閉じた。
蓮は天井のしみの地図をたどった。しみは新しい道を見せるたびに、過去の道も一緒に光らせる。今日、舟の上で祖父と交わした言葉、冬馬の笑いの短さ、マツの手の温度、孫娘の涙の味。それらが一本の線になるまで、もう少し時間が要る。でも、線は必ず引ける。引く手は、ここに二本ある。
発電機の唸りが切れて、戻り、続く。そのリズムに合わせて、蓮の胸の筋肉は、明日のための微細な準備運動を始めていた。
明け方。まだ空の色が決まる前、診療所の外で鳥が短く鳴いた。
蓮は目を開ける前から、外気の温度のわずかな違いで時刻を察していた。道場でもそうだった。朝一番の道場は、木の匂いが前日の夜とは違う。木は夜間に水分を吐き、朝に少し吸う。人の体も同じだ。
「蓮」
隣で静が囁く。
「ん」
「行こう」
「うん」
二人は起き上がり、畳の上で体を伸ばした。背骨が一本一本、海辺の杭のように立ち上がる。
祖父の部屋の戸の前で立ち止まり、静が息を整える。蓮も整える。二人の呼吸が一致したところで、静はそっと戸を開けた。
祖父はすでに起き上がり、白いシャツのボタンを留めていた。目の下の影は薄く、だが完全には消えていない。
「行くか」
祖父は立ち上がり、往診バッグを持ち上げた。
「今日は、外れではなく、港の裏の坂の上」
「マツさんは?」静が聞く。
「朝に様子ば見に行く。灯の段取りもな」
祖父が笑う。笑いは短いが、そこにある。
診療所の玄関を出ると、空気は昨日よりわずかに軽かった。湿り気の層が薄い。潮は潮の匂いを保ったまま、喉にやさしく入ってくる。
歩き出してすぐ、静は振り返り、診療所の屋根を見た。屋根瓦の一枚が光を返し、その光は鳥の羽のように飛んで消えた。
「蓮」
「何」
「俺、見ないふりばっかしてるわけじゃないよ」
「知ってる」
「でも、見たら、息が詰まるときがある」
「分かる」
「そういうときは、蓮が見て」
「見る。お前が吐けるまで」
静は頷いた。二人の間に、短い沈黙が置かれる。その沈黙は、空白ではなく、居場所だった。
坂道を上がりながら、蓮は思った。この夏を通して、きっと何度も、見えることと見ないことの間を行き来するだろう。その往復運動が、二人の肺を鍛える。筋肉は勝手には強くならない。正しく使われて、正しく休まされて、ようやく強くなる。
昨日の冬馬の包帯は、今ごろ海の風と油の匂いの中で、白から灰に少し寄っているだろう。今日もまた、誰かの痛みの形が言葉にされ、息の路が広がるだろう。
島は息を合わせて生きる場所だ。祖父の言葉は、今日も正しい。
港の裏手へ続く細い道は、朝の光で白っぽく溶け、遠目には一本の線のように見えた。その線の上に、三人の影が、時間差で重なったり、ずれたりしながら伸びていく。
ずれるたびに、誰かの肩が誰かの肩を少し支え、支えられた側が少し笑う。
そのたびに、目に見えない灯が、道の端に一つずつ灯る。
灯は、流す前から、もうそこにあるのだ。
蓮はそう思いながら、呼吸を合わせ、次の家の戸口へと歩調を刻んだ。
まだ夜の背が抜けきらない時刻、港は音の種類を減らしていた。波は低く、岸壁のコンクリートを撫でては離れ、撫でては離れる。人の声は、誰かの喉で準備運動をしているように小さい。
祖父は舟の舳先に立ち、蓮と静に手早く救命胴衣を渡した。ベルトの金具が薄明の中で冷たく光る。
「外れの集落は陸路の悪か。潮の上がる前に着こう」
祖父の声は、波より低く、風よりはっきりしていた。
エンジンが喉を鳴らし、舟は港を抜け出す。夜と朝の境目は、海面ではなく頬の皮膚の方へ先に降りてきた。湿り気の層が薄く剥がれ、塩の粒が微細に浮遊している。静はそのわずかな差異を敏感に拾っているらしく、胸のあたりで指を軽く開閉して、空気の通りを確かめていた。
「揺れるぞ」
祖父の言葉に、蓮は甲板の縁に両足を肩幅に置いた。立ち方は道場で教わったとおりだ。舟の胴に合わせてかすかに膝を緩める。静も同じふうに、だがわずかに浅めに膝を使って、舟の癖を早く見抜こうとしている。
「じいちゃん」
「なんね」
「この舟、右に癖がある」
「よう見とる」祖父は笑った。「舵の遊び分のそうなっとる。覚えとけ」
その短いやり取りに、蓮の胸は少し温かくなった。静は病者であり、孫であり、そして、世界の仕組みを発見する者でもある。その三つの顔が順番にこちらへ向いてくるのを、蓮はいつでも見逃したくなかった。
外れ集落は、岬の向こうの小さな入り江を上がったところにあった。舟を引き上げると、砂に混じって貝の小片が光る。早朝の斜光は、比喩を使わなくても十分に美しい。
家は低く、屋根は海の風を何度も受け止めてきた色合いにすり減っている。玄関の柱は、手の脂で黒光りしていた。
「おはようございます」
祖父が声をかけると、奥から細い返事がした。
畳の匂いと、潮の匂いと、乾いた布団の匂いが重なって、部屋の空気は年齢を持っているようだった。浜マツは、窓から少し離れたベッドで横になっていた。頬の骨が美しい角度で張り出し、その内部にまで光が届いているように見えた。枕元の家族写真は潮で色褪せ、輪郭がやさしく滲んでいる。
「マツさ、おはよう」
祖父は椅子に腰かけ、手首を取り、時間を測る。脈の速さは、祖父の眉の動きで分かった。
「昨夜は痛みの強かったごたるですね」
祖父が問うと、孫娘が縁側から小さな声で言う。「寝入りばながいちばん……」
蓮はバッグからバイタルの記録用紙を取り出して、祖父の口に出た数字を写した。書きながら、数字が風に鳴る竹の音のように耳の奥で揺れる。
「今日は、少し増やしましょうかね」
祖父の声は、ためらいを含んでいたわけではない。迷いは説明するもので、ためらいは共有すべきではない――祖父はそう思っているようだった。
静は水を含ませた綿棒を用意した。綿が吸い上げた水の重みはほんの糸一本分ほどで、指先の感覚だけがそれを知っている。静はそれでマツの唇をそっとなぞる。
老女は眼を開け、静の手を握った。指は細いのに、握る力はかすかに粘る。
「若か手は、海の匂いのせん」
再び。老女の声は薄いが、芯がある。
「すみません」静が笑う。
「謝ることじゃなか。よう来た」
静の笑いは、相手の声の温度に合わせて自然と変わる。蓮は、それが好きだった。剣道のときの彼は、相手の竹刀の癖を捉えるのに長けていた。ここでも同じことをしているのだと思う。ただ、ここでは打突の代わりに、指先の湿度が反応する。
祖父は疼痛コントロールの薬を調整し、孫娘に丁寧に説明をした。時間帯の違い、飲み忘れたときの対処、便秘への備え。紙の上に書かれる文字は濃く、矢印はしっかりと進む方向を示している。
「痛みはゼロにせんでもよか。怖あなか程度にまで下げる。怖あなくなったら、灯が見える」
「灯」孫娘が繰り返す。
「うん。お盆の灯(あかり)たい。縁側から見えるごと、段取りしてやるけんな」
孫娘の目の奥に、涙が急に、だが穏やかに溜まる。涙は、恐れと期待の両方の味をしていた。
帰り際、マツはゆっくりまばたきをして、静の手をもう一度握った。「若か手は、よか。うちの手は、海になっとる」
静はその言葉を受け取り、「海、いいですね」と答えた。老女は小さく笑い、眼を閉じる。その笑いは、蓮の胸のどこかに塩を一粒置いていった。
舟に乗り、帰路へ。朝は完全に明け、潮の色は青の中に少しだけ緑が混じる。祖父は舵を握りながら、背筋を伸ばしている。腰に疲れが来ているのは分かるのに、姿勢は崩さない。
「じいちゃん、朝ごはん」
静が水筒とおにぎりを差し出す。祖父は片手で受け取って、片手で舵を微調整した。舟は小さく右へ寄り、すぐに戻る。
「さっきの孫娘さん、お盆の灯を流したいって」
「そうか」祖父は短く言う。「灯は道やけんね」
「道?」蓮が尋ねる。
「死んだ人の迷わんごと。生きとる人も迷わんごと。道は、流した側にも敷かれる」
風が少し強くなり、舟が鼻先からわずかに跳ねた。静はそれに合わせて膝を使う。呼吸が乱れないように、吐く秒を数えている。
「吐けば、入る」
「そうだ」祖父は言い、蓮の方をちらと見た。「あんたも、吐くのが下手そうやね」
蓮は苦笑した。「はい」
「吐ききらん人間は、勝っても負けても、次に行けん」
「残心が置けないのと似てますね」
「似とる」
この祖父と話すとき、蓮の言葉はいつも道場の言葉と地続きになる。道場で身につけたことは、海や病や死のある場所でも通じるのだと、体のどこかがうなずく。そう思えると、心の渇きが少し収まった。
診療所に戻ると、待合の長椅子に冬馬が座っていた。右手をタオルで押さえ、顔色は悪くないが、目の奥が落ち着かない。
「どうした」
「すみません、指を思い切り……」
タオルを外すと、親指と人差し指の間、手のひら側に深い切り口が見えた。血はもう勢いよくは出ていないが、筋の白が覗くのを見て、蓮の胃がきゅっと縮む。
「どがんした刃物でか」祖父が訊く。
「親父のナイフ。ひさしぶりに研いだら、研ぎすぎました」
「研ぎすぎる人間は、だいたい急ぎすぎる」
祖父は手袋をはめ、無駄のない動作で消毒を始める。
「蓮、滅菌のセット。静、洗浄の準備」
二人は言われる前から動いていた。蓮は棚から青いパックを取り出して開封し、静は洗浄ボトルの先端を確かめながら、冬馬の表情を注視する。痛みの波の周期は、顔の筋肉の緊張で少し読める。
「麻酔、打つけんな」祖父が言い、冬馬が短くうなずく。
局所麻酔の針が皮膚に入る瞬間、冬馬はわずかに歯を食いしばった。静は息を吐くように「大丈夫」と言った。
「親父のナイフ、か」
祖父の手元は動き続ける。縫合のための器具が光る。
「はい。蛸壺のロープ切るのに、毎年のように研いでたやつ。俺は……今年は、使わんやつを、使おうと思って」
「なんで」蓮が訊き、それが不用意な問いにならないように声の角度を整えた。
「分からん。親父がいなくなってから、触りたくないと思っとったくせに、触った」
冬馬は笑おうとしたが、笑いは途中でほどけた。
「海で、親父は消えた。みんなは、海の取ったって言う。うちのばあちゃんは、いつか返してくれるって言う。夏になると、返り潮ば見る」
「海は取る。時々、返す」祖父が言った。「返すときには形の変わっとる。人の側が、その形ば受け取れるごと用意しとかんば」
「用意」
「手の形でん、心の形でん。どっちでもよか。どっちもいるけん」
縫合が始まる。針が皮膚をすくい、糸がわずかにきしむ。その音は、蓮には道場の床に面の紐が擦れる音に似て聞こえた。稽古の最中に面紐を結び直すときの、あの集中と緩みの交代。
蓮はふと、剣道の試合で味わう“取り返しのつかなさ”を思い出した。旗が上がり、一本の宣告が下ると、その瞬間は世界に固定されてしまう。どれだけ異議を唱えても、一本は一本だ。彼はそれを受け止めるための筋肉を、何年も訓練してきた。だが、ここでは別の筋肉が必要なのだと思った。
手洗い場で、蓮は石鹸を泡立てながら喉の奥の渇きを感じた。泡の白は、甲板のミストとは違う白さだ。消毒液の匂いは、汗の匂いと鋭く交わり、皮膚の表面で少し喧嘩をする。
戻ると、祖父は最後の結紮を終えていた。ガーゼで押さえ、包帯が手のひらに白い輪を作る。
「こいでよか。上等たい。明日また来い。手は使ってもよか。ばってん休ませる時間ば決めろ。使って休ませて、また使う」
「ありがとうございます」冬馬が深く頭を下げる。
「冬馬」蓮が呼ぶ。
「なん」
「怒っていいと思う」
「誰に」
「海にでも、自分にでも、親父にでも」
冬馬はしばらく黙った。包帯の端を見つめ、目の奥で何かをほどくように。
「怒ると、息がつまる」
「吐くために怒るんだ」静が言った。「吐けば、入る」
冬馬は、そこでやっと笑った。笑いは短く、けれど確かだった。
「また明日」
診療所を出ていく背中に、蓮は自分の肩の力が少しだけ抜けていくのを感じた。誰かの痛みが完全に治ったわけではない。無くなりはしない。けれど、痛みの形が言葉でなぞられたとき、息の路が少しだけ広がる。その広がりは、目に見えない。
昼下がりの診療所は、窓から入る風の温度が高くなった分だけ、匂いの色が濃く変わった。古い薬棚の木目は汗を吸い、床はわずかに湿っている。
静は処置室の椅子に座り、胸に手を置いた。一秒、二秒、三秒――吐いて、四秒、五秒――わずかな音の変化を自分の喉の奥で聴き分けるように。
「静」
蓮が近づく。静は笑う。
「ちょっとだけ。吸うより、吐くほうを長めに」
「吸入、しよう」
静は頷き、吸入器を取り出した。白い霧が狭い世界を一瞬だけ曇らせる。祖父が戸口に現れ、「島の湿気は喘息に厳しか」と短く言った。
「でも、ここで呼吸筋ば覚えたら、都会で楽になるけん」
「さっき舟で言ってました」蓮が答える。
「同じことばかり言う歳になった」祖父は笑った。「同じことは、何度でも言ってよか」
静は吸入を終え、呼吸の波を整えた。祖父は胸に聴診器を当て、耳を傾ける。チューブは白く粉を吹き、金属の輪は古い指輪のように鈍く光る。
「今日はこいでよか」
「うん」静は返事をすると、窓の外を見た。干した網が風に揺れ、その影が壁にゆっくり移動する。影の動きは、時計の秒針の代わりみたいで、見ているだけで呼吸のテンポが生まれる。
午後の患者は、日焼けした子どもたちの擦過傷と、畑仕事で腰を痛めた老人と、台所で指を切った主婦と、魚の骨が喉に刺さった青年と、いろいろだった。祖父は同じ声の高さでそれぞれに接し、同じように違う助言をする。
「痛み止めは毒じゃなか。味方やけん。味方の扱いの下手か人間もおるけどな」
「腰は休めるときは休め。休めんときは、休めんことば認めろ」
「魚の骨は勝手に進む。焦って引き返さんごと」
診療所の引き戸が何度も開き、閉じるたびに風の匂いが少しずつ変わった。潮に油が混じる瞬間、油が砂に吸われる瞬間、砂が汗にまとわりつく瞬間。蓮は、その変化を呼吸で受け止めることに慣れていった。
日が傾き、診療所の前の道の影が長く伸びる頃、静は「少し歩こう」と言った。
二人は堤防へ向かった。竹刀は持たなかった。素振りの形だけが、二人の腕と背中に宿っている。
堤防に立つと、風が面紐のない顔をやさしく撫でた。汗はすぐに乾き、皮膚の上に薄い塩の膜が残る。
「ここで勝ち負けのこと考えると、焦るよね」
静が言い、蓮は笑った。
「じゃあ、やめよう」
「やめるって言っても、頭が勝手に考える」
「勝ち負けじゃない残心を置けばいい」
「残心を?」
「今日、マツさんの部屋で見ただろ。あれは、終わりじゃなくて、続けるための置き方だった」
静は少し黙り、海を見た。波は遠くで眠っているように見え、近くでは小さく呼吸している。
「俺も、置けるかな」
「置ける。俺は、お前の横に置く」
静は振り向き、照れも嘘もなく笑った。「ありがと」
二人は並んで、腕の重さだけで素振りの軌跡を描く。足はすり足で、砂の上に細い線を残す。海からの風は、線をすぐに消さないでいてくれた。
「冬馬、明日また来るかな」
「来るだろう」
「怒るの、少しうまくなってた」
「吐けるようになったら、うまくなる」
会話は短く、だが、短い方が深く沈むことがある。言葉は海と同じで、浅瀬でバチャバチャさせるより、静かに落とした方が遠くへゆっくり届く。
夜、診療所に戻ると、祖父は机に突っ伏すようにして往診ノートを見ていた。ペン先が紙に触れているのに、しばらく字は動いていない。
「じいちゃん」静が声をかける。
祖父は顔を上げた。目の下に薄い影が落ちている。
「なんや」
「夕飯、食べた?」
「食べたごた気はする。食べとらん気もする」
冗談の口調だが、肩の落ち方は冗談ではない。
「横になって」静が言った。
「まだ記録のある」
「横になって」
祖父は苦笑し、椅子から腰を上げた。少しふらつく。蓮はさりげなく腕を取る。ほんの一瞬、祖父の体重が蓮の前腕に乗った。その重みは驚くほど軽いのに、蓮の心に残る影は濃かった。
二階に上がると、畳が鳴いた。祖父は布団に横になり、目を閉じた。「おいが寝とるあいだに受診の来たら」
「起こす。安心して」静が言う。
祖父の呼吸はすぐに規則的になった。寝息が、発電機の低い唸りと重なる。切れて、戻って、続く。
静は扉を閉め、廊下に立った。その横顔に、わずかな硬さが浮かぶ。
「大丈夫だよ」蓮が言う。
「うん」静は答えたが、目は笑わなかった。
階段を降りる途中、静は一度だけ踊り場で立ち止まり、壁のしみを見た。しみは海の形にも地図の形にも見えた。静は視線を逸らし、踊り場の窓から見える提灯の灯を数えた。
蓮は、その逸らし方を知っている。痛みを直視しないことで呼吸を保つやり方。ここ数年、彼が静のそばで何度も見てきた態度。見ないことは逃げることではない。続けるための選択だ、と蓮は頭では理解している。だが、今夜の祖父の背中の影は、理解だけでは済まない種類の黒さを帯びていた。
蓮は見える方を選んだ。静は見ない方を選んだ。
二人の選び方が、いつも同じになる必要はない。むしろ、ずれながら支え合う方が、長く続くこともある。
台所で水を飲みながら、蓮は壁の時計を見た。秒針が一周するたびに、自分の中で何かが整う。昼間、手を洗いながら喉が渇いたときの、あの渇きは少し引いている。渇きは、誰かの息を支えたあとでしか引かないのかもしれない。
「蓮」
静が声をかける。
「ん?」
「明日の朝も、外れ行く?」
「行く。吐く練習になる」
「吐く練習?」
「ためてることが多すぎる。俺」
静は笑い、やっと、目のあたりから笑った。「じゃあ、吐く練習に付き合うよ」
「頼む」
二人は二階へ上がった。畳はやはりやさしく鳴いた。窓の外の提灯が、風に合わせて微細に震える。
布団に入ると、静は吸入器のキャップを指でなぞった。「今日は、マツさんに触れてもらった手が、あったかい」
「海の匂いがしなかった手」
「うん。いつか、するようになるのかな」
「なるだろう。俺の手は、多分もう少しで海になる」
「どうして」
「今日一日、波を何回数えたか覚えてないから」
静は笑って、ゆっくり目を閉じた。
蓮は天井のしみの地図をたどった。しみは新しい道を見せるたびに、過去の道も一緒に光らせる。今日、舟の上で祖父と交わした言葉、冬馬の笑いの短さ、マツの手の温度、孫娘の涙の味。それらが一本の線になるまで、もう少し時間が要る。でも、線は必ず引ける。引く手は、ここに二本ある。
発電機の唸りが切れて、戻り、続く。そのリズムに合わせて、蓮の胸の筋肉は、明日のための微細な準備運動を始めていた。
明け方。まだ空の色が決まる前、診療所の外で鳥が短く鳴いた。
蓮は目を開ける前から、外気の温度のわずかな違いで時刻を察していた。道場でもそうだった。朝一番の道場は、木の匂いが前日の夜とは違う。木は夜間に水分を吐き、朝に少し吸う。人の体も同じだ。
「蓮」
隣で静が囁く。
「ん」
「行こう」
「うん」
二人は起き上がり、畳の上で体を伸ばした。背骨が一本一本、海辺の杭のように立ち上がる。
祖父の部屋の戸の前で立ち止まり、静が息を整える。蓮も整える。二人の呼吸が一致したところで、静はそっと戸を開けた。
祖父はすでに起き上がり、白いシャツのボタンを留めていた。目の下の影は薄く、だが完全には消えていない。
「行くか」
祖父は立ち上がり、往診バッグを持ち上げた。
「今日は、外れではなく、港の裏の坂の上」
「マツさんは?」静が聞く。
「朝に様子ば見に行く。灯の段取りもな」
祖父が笑う。笑いは短いが、そこにある。
診療所の玄関を出ると、空気は昨日よりわずかに軽かった。湿り気の層が薄い。潮は潮の匂いを保ったまま、喉にやさしく入ってくる。
歩き出してすぐ、静は振り返り、診療所の屋根を見た。屋根瓦の一枚が光を返し、その光は鳥の羽のように飛んで消えた。
「蓮」
「何」
「俺、見ないふりばっかしてるわけじゃないよ」
「知ってる」
「でも、見たら、息が詰まるときがある」
「分かる」
「そういうときは、蓮が見て」
「見る。お前が吐けるまで」
静は頷いた。二人の間に、短い沈黙が置かれる。その沈黙は、空白ではなく、居場所だった。
坂道を上がりながら、蓮は思った。この夏を通して、きっと何度も、見えることと見ないことの間を行き来するだろう。その往復運動が、二人の肺を鍛える。筋肉は勝手には強くならない。正しく使われて、正しく休まされて、ようやく強くなる。
昨日の冬馬の包帯は、今ごろ海の風と油の匂いの中で、白から灰に少し寄っているだろう。今日もまた、誰かの痛みの形が言葉にされ、息の路が広がるだろう。
島は息を合わせて生きる場所だ。祖父の言葉は、今日も正しい。
港の裏手へ続く細い道は、朝の光で白っぽく溶け、遠目には一本の線のように見えた。その線の上に、三人の影が、時間差で重なったり、ずれたりしながら伸びていく。
ずれるたびに、誰かの肩が誰かの肩を少し支え、支えられた側が少し笑う。
そのたびに、目に見えない灯が、道の端に一つずつ灯る。
灯は、流す前から、もうそこにあるのだ。
蓮はそう思いながら、呼吸を合わせ、次の家の戸口へと歩調を刻んだ。



