第一話 渡海(とかい)
港に立っているだけで、肺の奥が錆びたようにきしむ。いやなきしみではない。剣道の練習で汗をかいたあと、道場の床に落ちた木屑の匂いを吸い込んだときに、胸板の裏側がかすかに軋む、あの感じに似ている。
蓮はフェリーの甲板に出た。潮が砕けてすべり落ちる音と、海鳥の鋭い鳴き声が混ざり合う。夏休みの初日、長崎の離島へ向かう船は、思っていたより空いている。甲板の鉄は太陽で熱され、足裏を通して、体の芯へ直に熱が伝わってくる。
隣で静が吸入器のキャップを外した。透明なボンベからの冷たい噴霧が、短い時間だけ空気を白くする。ミントの匂いが海風と混ざり、蓮は無意識に呼吸のテンポを落とした。静の肩が上下するたび、白いTシャツの生地が胸で小さく波をつくる。
「大丈夫か」
静は半分笑って頷いた。
「うん。船の匂い、好きかもしれない。呼吸が、少し楽」
言いながら、彼はもう一度だけ浅く噴霧し、キャップをはめる。甲板の手すりにもたれて海を見下ろすと、船の後ろに白い帯が長く伸びていた。それは路地に延びる影のように、どこまでも続いていく。
「蓮」
「ん?」
「間合いって、海にもあるんだな」
静が言った。
「面白い言い方するな」
「ここは俺らの足が届かないからさ。踏み込みをミスったら、ただ落ちるね」
眉を下げてまぶしそうに目を細める。
「でも、風と船の速さで、息を合わせ直せる気がする。剣道のときみたいに」
蓮は笑ってみせた。「合わせ直す、か」
彼の視線の先で、島影が濃くなっていく。海の上に浮かぶたくさんの緑の塊。そこに古い診療所が一つあり、静の祖父がいる。
船内に戻ると、冷房の風が汗を急に冷やした。静は胸に手を当て、拍の整いを確かめている。紙コップの水を飲みながら、蓮は窓の外の水平線を見た。都会の校舎の長い廊下とは違う、行き止まりのない直線。一本の竹刀を握っているときの心持ちに似ている。
港に着く少し前、静はスマホをしまった。「圏外の練習、しとこう」
「練習?」
「通知が来ない日常の練習」
そんなふうに言えるのが静の強さだ、と蓮は思う。全国無敗の副主将。だが今、その背中は細く見えた。海の匂いは、誰の肩書きも洗い落とす。
桟橋が軋んだ。島の空気は、港の魚箱と油のにおい、干した網の塩と湿り気と、どこか青い草の匂いがいっしょになって蓮の喉へ降りてくる。
待合の屋根の下、白い帽子をかぶった男が手を振った。
「よう来たな」
静の祖父だった。長袖のシャツに薄いベスト。腕は乾いた木のように細いのに、握ると不思議に温かい力があった。
「じいちゃん」
「静、喘息はどうか」
「まあまあ。海が薬だね」
「薬は薬でちゃんと使え」
祖父は笑い、そのまま二人のキャリーケースを軽々と持ち上げた。
「診療所、暑かぞ。発電機の風は気が短い」
そう言いながら歩き出す。港からの上り坂はきつく、蓮は静の呼吸の浅さに歩調を合わせた。祖父は振り向かない。息がそろうのを確かめるように、一定の速さで坂を登る。
診療所は、港から少し離れた緩い丘の途中にあった。白壁は潮で少し粉を吹き、窓のアルミ枠は鈍く光っている。ドアの押し板は磨かれて艶があり、たくさんの手の出入りを毎日受け止めていることが分かる。
「おじゃまします」
中は思っていたより広く、しかし狭くもあった。壁際に古い薬棚。引き出しの取っ手には滲んだ指紋の艶。受付の横に診察室。机の上には血圧計、古い聴診器。チューブは海風に晒されて白く粉を吹き、ところどころにビニールテープの補修。
祖父は机の引き出しを開け、予備の吸入薬を二本取りだした。「静、これはこっちで管理する。なくすやつのおるけん」
「俺、なくさないよ」
「なくすのはお前じゃなくて、状況だ」
引き出しの底には、白黒の写真が挟まれていた。若い祖父が、戦後間もない診療所の前で赤子を抱いている。背後の海は今よりも荒々しく見える。
蓮は写真を見て、時間が反転して胸に入ってくる感覚を覚えた。過去が古びているのではなく、現在がそれに寄り添うために柔らかくなる感じ。
「二階が寝床だ。畳は鳴くけん、夜は静かに歩かんばけんな」
祖父はそう言って、急患の電話に向かった。
二階は、思った以上に風通しが良かった。海に面した窓から潮が入ってきて、畳のへりを指先でなぞると、ざらりと塩の粉を感じる。押し入れの中には団扇と薄い毛布、縫い目の粗いシーツが畳まれている。
夜、発電機の規則音が波音にかぶさってきた。窓の外では干した網が風に鳴り、どこかで猫が短く鳴いた。静は横になりながら、胸に手を当てる。
「蓮」
「なんだ」
「島は息を合わせて生きる場所だって、じいちゃん言ってた」
「うん」
「合わせるって、負けることじゃないんだな」
蓮は天井のしみを見上げた。しみは海図のように広がっていて、目でたどると、どこへでも行ける気がした。
「負けるのは、やめることだろ。合わせるのは、続けるためのやり方だ」
「そうか」
静が小さく笑った。
眠りに落ちる直前、発電機の音が一瞬止まった。暗闇が重くなる。直後、また低い唸りが戻った。切れて、戻って、続く。呼吸みたいだ、と蓮は思った。
翌朝、蓮は祖父の往診に同行した。海沿いの道は、夜よりも白く、石垣の隙間から生える草が乾いた音を立てている。祖父の背中は小さいが、足どりは海風のように一定だった。
初めての家は、低い瓦屋根と、草履の匂いのする土間。そこに在宅の老女が横たわっていた。浜マツ、と呼ばれていた。横顔の骨の角度がくっきりしていて、皮膚は薄い和紙のように光を吸っていた。
「マツさ、今日は少し息が楽そうやね」
祖父は脈を取り、呼吸の数を数え、痛みの程度を尋ねる。蓮は壁の時計を見た。秒針の音がやけに大きい。静は綿棒に水を含ませ、老女の唇をそっと濡らす。老女は静の手を握った。「若(わ)か手は海の匂いのせんねえ」
「すみません」静が笑う。
「謝ることはなか。おごうて(やさしく)しとるね」
窓の外で、干してある昆布が陽に透けている。祖父は痛み止めの量を微調整し、孫娘に薬の飲ませ方を説明した。紙に図を描き、時間帯の欄に丸を付ける。文字の癖は力強く、筆圧の跡が紙を少しへこませる。
帰り際、孫娘が縁側で祖父に訊いた。「お盆の灯、うちからも流せますか」
「マツさの痛みの落ち着いとる日なら、縁側から見えるごと工夫ばしようかね。流さんでも、光は届くけん」
その言葉は、家の中の空気を少しだけ明るくした。
診療所に戻ると、若い漁師見習いが指から血を垂らして座っていた。冬馬、と名乗った。
「手元が狂ってしもうた」
ナイフの刃は思ったより深くはいっている。祖父は淡々と消毒し、蓮に滅菌パックを渡し、静に滅菌水を指示した。縫合のあいだ、冬馬は父の話をした。
「親父、春に海でいなくなって」
祖父の手は止まらない。「海は取る。時々、返す。返すときに形ば変えて返すけん、人の方が形ば変えなおさんば」
冬馬は苦笑した。「よう言いますね、先生は」
縫い終え、包帯を巻くと、冬馬は「助かった」と帽子をとった。髪には潮の光沢があった。
午後、静の胸が小さく鳴った。祖父は吸入の間隔と量を冷静に指示し、静はそれに従う。発作は重くなかったが、身体の中に硬い石がひとつ入ってしまったような疲労が残る。蓮は横で水を渡し、背中に手を添えた。
「ここで呼吸筋を覚えれば、都会は楽になるぞ」祖父が言った。
「筋トレみたいだね」静が笑う。
「息の筋肉は、誰かのそばで鍛えるとが早か」
祖父はそう言って、往診にまた出ていった。
夕方、診療所の前の道に長い影が落ちる。蓮は竹刀袋から竹刀を出し、静と堤防へ向かった。面も小手もなく、素振りだけをした。海風が手のひらの汗をすぐに奪っていく。
「ここで勝ち負けのこと考えると、肺が寂しくなるな」
静が言う。
「じゃあ、考えなくていい。残心だけ置いていこう」
「置いていったら、海に持ってかれる」
「持っていかれても、取り返せばいい」
「どうやって」
「俺と一緒に、だよ」
静は竹刀を肩にあずけ、海に向かって笑った。その笑いは潮に溶け、遠くの見えない岩にぶつかって跳ね返ってくるようだった。
夜の港は、昼とは別の匂いがした。油の匂いが少し強く、魚の血の匂いは薄い。海面は黒く、時折灯が揺れて、まるで星が水に落ちたみたいに見える。
桟橋の端に、午前に手を縫った冬馬がいた。缶コーヒーを二つ持って、ひとつを蓮に差し出す。
「お礼。冷たいのと温かいのしかなかったけん、温かいの」
「ありがとう」蓮が受け取り、静にも渡した。
「親父のこと、笑ってごまかすのが下手になってきた」冬馬が言った。
「ごまかさなくていいときもある」蓮は答えた。
「でも、笑わんば、海に飲まれる」
静は黙って海を見ていた。
「俺、海が怖いのかも」
冬馬が静を見た。「胸、苦しかと?」
「ときどき。けど、ここはいい匂いがする」
「俺は、海の匂いしか知らんけん。よかかどうか分からん」
冬馬は笑い、すぐにうつむいた。「親父の帰ってくる夢ばよく見る。帰ってきたら、俺は怒る。なんで今だよ、って」
蓮は冬馬の肩に軽く触れた。「怒っていい」
「怒ってもよかと?」
「怒りは、息を止めるためのものじゃない。吐くためのもんだろ」
静が横で、ふっと笑った。「吐けば、入る」
三人の笑いが波に切られて消え、その欠片がまた寄せてくる。
帰り道、集落の家々の前に竹が立ち、細い紙と、手のひらほどの提灯がいくつも揺れていた。子どもがまだ起きている家から、折り紙の匂いと糊の匂いがこぼれてくる。
診療所の門をくぐったところで、祖父がベンチに腰を下ろしていた。手には小さな懐中電灯。
「準備が始まったね」
静が言うと、祖父は頷いた。
「島の夏は、死者のための道ば先に敷く」
祖父の声は低く、よく通った。
「生きと者(もん)は、その道の端っこば歩かせてもろうて、先に行かせてもろうて、それから自分らの分ば見つける」
蓮は言葉を飲み込んだ。静は祖父の横に座り、足を揃えた。
ベンチの前を、夜風が通り抜ける。提灯の灯が、ほんの少しだけ、こちらに身を寄せた。
蓮はその灯りが海へ出ていく未来の姿を想像した。誰かのために用意された細い光の道。その道を歩く影の後ろで、自分たちが息を合わせて立っている光景を。
発電機の音がまた一度、すっと消え、すぐ戻った。
「切れて、戻って、続く」
蓮が小さく言うと、静が笑った。
「呼吸みたいだ」
二人の間に、夜の匂いが満ちる。潮と油と、紙と糊と、少しだけミント。
ここに来てから、蓮は自分の声が少し低くなった気がしていた。言葉の重さを、足の裏から受け取るみたいにして話すようになった。静の笑い方も、少し変わった。息を奪われる笑いではなく、息を許す笑い。
どちらがいいというのではない。ただ、ここではそうなる。島は息を合わせて生きる場所だ。祖父の言ったことは、きっと真実だ。
診療所の階段を上がると、畳がやさしく鳴いた。蓮は振り返り、窓の外の提灯をひとつ、数えた。静は吸入器のキャップを確かめ、机の上に置いた。
「蓮」
「うん」
「明日、朝いちで、じいちゃんの往診、またついてく?」
「もちろん」
「じゃあ、合わせて歩こう」
静はそう言って、横になった。蓮も並んで横になる。発電機の唸りと波の呼吸が、身体のどこかで混ざり合い、音の下にもうひとつの音が生まれる。
眠りに沈む間際、蓮は思った。勝ち負けのない立合いが、世の中にはある。そこでは、間合いは奪うものではなく、差し出し合うものだ。差し出された間合いの上に、呼吸が置かれる。置かれた呼吸は、次の誰かに受け渡される。
その誰かの顔は、まだ見えない。きっと、明日見る。明日、島の別の家で。あるいは冬馬の横顔のもう少し奥で。あるいは、祖父の背中の下で。
島の夜は、灯をひとつひとつ残しながら、静かに深くなっていった。
港に立っているだけで、肺の奥が錆びたようにきしむ。いやなきしみではない。剣道の練習で汗をかいたあと、道場の床に落ちた木屑の匂いを吸い込んだときに、胸板の裏側がかすかに軋む、あの感じに似ている。
蓮はフェリーの甲板に出た。潮が砕けてすべり落ちる音と、海鳥の鋭い鳴き声が混ざり合う。夏休みの初日、長崎の離島へ向かう船は、思っていたより空いている。甲板の鉄は太陽で熱され、足裏を通して、体の芯へ直に熱が伝わってくる。
隣で静が吸入器のキャップを外した。透明なボンベからの冷たい噴霧が、短い時間だけ空気を白くする。ミントの匂いが海風と混ざり、蓮は無意識に呼吸のテンポを落とした。静の肩が上下するたび、白いTシャツの生地が胸で小さく波をつくる。
「大丈夫か」
静は半分笑って頷いた。
「うん。船の匂い、好きかもしれない。呼吸が、少し楽」
言いながら、彼はもう一度だけ浅く噴霧し、キャップをはめる。甲板の手すりにもたれて海を見下ろすと、船の後ろに白い帯が長く伸びていた。それは路地に延びる影のように、どこまでも続いていく。
「蓮」
「ん?」
「間合いって、海にもあるんだな」
静が言った。
「面白い言い方するな」
「ここは俺らの足が届かないからさ。踏み込みをミスったら、ただ落ちるね」
眉を下げてまぶしそうに目を細める。
「でも、風と船の速さで、息を合わせ直せる気がする。剣道のときみたいに」
蓮は笑ってみせた。「合わせ直す、か」
彼の視線の先で、島影が濃くなっていく。海の上に浮かぶたくさんの緑の塊。そこに古い診療所が一つあり、静の祖父がいる。
船内に戻ると、冷房の風が汗を急に冷やした。静は胸に手を当て、拍の整いを確かめている。紙コップの水を飲みながら、蓮は窓の外の水平線を見た。都会の校舎の長い廊下とは違う、行き止まりのない直線。一本の竹刀を握っているときの心持ちに似ている。
港に着く少し前、静はスマホをしまった。「圏外の練習、しとこう」
「練習?」
「通知が来ない日常の練習」
そんなふうに言えるのが静の強さだ、と蓮は思う。全国無敗の副主将。だが今、その背中は細く見えた。海の匂いは、誰の肩書きも洗い落とす。
桟橋が軋んだ。島の空気は、港の魚箱と油のにおい、干した網の塩と湿り気と、どこか青い草の匂いがいっしょになって蓮の喉へ降りてくる。
待合の屋根の下、白い帽子をかぶった男が手を振った。
「よう来たな」
静の祖父だった。長袖のシャツに薄いベスト。腕は乾いた木のように細いのに、握ると不思議に温かい力があった。
「じいちゃん」
「静、喘息はどうか」
「まあまあ。海が薬だね」
「薬は薬でちゃんと使え」
祖父は笑い、そのまま二人のキャリーケースを軽々と持ち上げた。
「診療所、暑かぞ。発電機の風は気が短い」
そう言いながら歩き出す。港からの上り坂はきつく、蓮は静の呼吸の浅さに歩調を合わせた。祖父は振り向かない。息がそろうのを確かめるように、一定の速さで坂を登る。
診療所は、港から少し離れた緩い丘の途中にあった。白壁は潮で少し粉を吹き、窓のアルミ枠は鈍く光っている。ドアの押し板は磨かれて艶があり、たくさんの手の出入りを毎日受け止めていることが分かる。
「おじゃまします」
中は思っていたより広く、しかし狭くもあった。壁際に古い薬棚。引き出しの取っ手には滲んだ指紋の艶。受付の横に診察室。机の上には血圧計、古い聴診器。チューブは海風に晒されて白く粉を吹き、ところどころにビニールテープの補修。
祖父は机の引き出しを開け、予備の吸入薬を二本取りだした。「静、これはこっちで管理する。なくすやつのおるけん」
「俺、なくさないよ」
「なくすのはお前じゃなくて、状況だ」
引き出しの底には、白黒の写真が挟まれていた。若い祖父が、戦後間もない診療所の前で赤子を抱いている。背後の海は今よりも荒々しく見える。
蓮は写真を見て、時間が反転して胸に入ってくる感覚を覚えた。過去が古びているのではなく、現在がそれに寄り添うために柔らかくなる感じ。
「二階が寝床だ。畳は鳴くけん、夜は静かに歩かんばけんな」
祖父はそう言って、急患の電話に向かった。
二階は、思った以上に風通しが良かった。海に面した窓から潮が入ってきて、畳のへりを指先でなぞると、ざらりと塩の粉を感じる。押し入れの中には団扇と薄い毛布、縫い目の粗いシーツが畳まれている。
夜、発電機の規則音が波音にかぶさってきた。窓の外では干した網が風に鳴り、どこかで猫が短く鳴いた。静は横になりながら、胸に手を当てる。
「蓮」
「なんだ」
「島は息を合わせて生きる場所だって、じいちゃん言ってた」
「うん」
「合わせるって、負けることじゃないんだな」
蓮は天井のしみを見上げた。しみは海図のように広がっていて、目でたどると、どこへでも行ける気がした。
「負けるのは、やめることだろ。合わせるのは、続けるためのやり方だ」
「そうか」
静が小さく笑った。
眠りに落ちる直前、発電機の音が一瞬止まった。暗闇が重くなる。直後、また低い唸りが戻った。切れて、戻って、続く。呼吸みたいだ、と蓮は思った。
翌朝、蓮は祖父の往診に同行した。海沿いの道は、夜よりも白く、石垣の隙間から生える草が乾いた音を立てている。祖父の背中は小さいが、足どりは海風のように一定だった。
初めての家は、低い瓦屋根と、草履の匂いのする土間。そこに在宅の老女が横たわっていた。浜マツ、と呼ばれていた。横顔の骨の角度がくっきりしていて、皮膚は薄い和紙のように光を吸っていた。
「マツさ、今日は少し息が楽そうやね」
祖父は脈を取り、呼吸の数を数え、痛みの程度を尋ねる。蓮は壁の時計を見た。秒針の音がやけに大きい。静は綿棒に水を含ませ、老女の唇をそっと濡らす。老女は静の手を握った。「若(わ)か手は海の匂いのせんねえ」
「すみません」静が笑う。
「謝ることはなか。おごうて(やさしく)しとるね」
窓の外で、干してある昆布が陽に透けている。祖父は痛み止めの量を微調整し、孫娘に薬の飲ませ方を説明した。紙に図を描き、時間帯の欄に丸を付ける。文字の癖は力強く、筆圧の跡が紙を少しへこませる。
帰り際、孫娘が縁側で祖父に訊いた。「お盆の灯、うちからも流せますか」
「マツさの痛みの落ち着いとる日なら、縁側から見えるごと工夫ばしようかね。流さんでも、光は届くけん」
その言葉は、家の中の空気を少しだけ明るくした。
診療所に戻ると、若い漁師見習いが指から血を垂らして座っていた。冬馬、と名乗った。
「手元が狂ってしもうた」
ナイフの刃は思ったより深くはいっている。祖父は淡々と消毒し、蓮に滅菌パックを渡し、静に滅菌水を指示した。縫合のあいだ、冬馬は父の話をした。
「親父、春に海でいなくなって」
祖父の手は止まらない。「海は取る。時々、返す。返すときに形ば変えて返すけん、人の方が形ば変えなおさんば」
冬馬は苦笑した。「よう言いますね、先生は」
縫い終え、包帯を巻くと、冬馬は「助かった」と帽子をとった。髪には潮の光沢があった。
午後、静の胸が小さく鳴った。祖父は吸入の間隔と量を冷静に指示し、静はそれに従う。発作は重くなかったが、身体の中に硬い石がひとつ入ってしまったような疲労が残る。蓮は横で水を渡し、背中に手を添えた。
「ここで呼吸筋を覚えれば、都会は楽になるぞ」祖父が言った。
「筋トレみたいだね」静が笑う。
「息の筋肉は、誰かのそばで鍛えるとが早か」
祖父はそう言って、往診にまた出ていった。
夕方、診療所の前の道に長い影が落ちる。蓮は竹刀袋から竹刀を出し、静と堤防へ向かった。面も小手もなく、素振りだけをした。海風が手のひらの汗をすぐに奪っていく。
「ここで勝ち負けのこと考えると、肺が寂しくなるな」
静が言う。
「じゃあ、考えなくていい。残心だけ置いていこう」
「置いていったら、海に持ってかれる」
「持っていかれても、取り返せばいい」
「どうやって」
「俺と一緒に、だよ」
静は竹刀を肩にあずけ、海に向かって笑った。その笑いは潮に溶け、遠くの見えない岩にぶつかって跳ね返ってくるようだった。
夜の港は、昼とは別の匂いがした。油の匂いが少し強く、魚の血の匂いは薄い。海面は黒く、時折灯が揺れて、まるで星が水に落ちたみたいに見える。
桟橋の端に、午前に手を縫った冬馬がいた。缶コーヒーを二つ持って、ひとつを蓮に差し出す。
「お礼。冷たいのと温かいのしかなかったけん、温かいの」
「ありがとう」蓮が受け取り、静にも渡した。
「親父のこと、笑ってごまかすのが下手になってきた」冬馬が言った。
「ごまかさなくていいときもある」蓮は答えた。
「でも、笑わんば、海に飲まれる」
静は黙って海を見ていた。
「俺、海が怖いのかも」
冬馬が静を見た。「胸、苦しかと?」
「ときどき。けど、ここはいい匂いがする」
「俺は、海の匂いしか知らんけん。よかかどうか分からん」
冬馬は笑い、すぐにうつむいた。「親父の帰ってくる夢ばよく見る。帰ってきたら、俺は怒る。なんで今だよ、って」
蓮は冬馬の肩に軽く触れた。「怒っていい」
「怒ってもよかと?」
「怒りは、息を止めるためのものじゃない。吐くためのもんだろ」
静が横で、ふっと笑った。「吐けば、入る」
三人の笑いが波に切られて消え、その欠片がまた寄せてくる。
帰り道、集落の家々の前に竹が立ち、細い紙と、手のひらほどの提灯がいくつも揺れていた。子どもがまだ起きている家から、折り紙の匂いと糊の匂いがこぼれてくる。
診療所の門をくぐったところで、祖父がベンチに腰を下ろしていた。手には小さな懐中電灯。
「準備が始まったね」
静が言うと、祖父は頷いた。
「島の夏は、死者のための道ば先に敷く」
祖父の声は低く、よく通った。
「生きと者(もん)は、その道の端っこば歩かせてもろうて、先に行かせてもろうて、それから自分らの分ば見つける」
蓮は言葉を飲み込んだ。静は祖父の横に座り、足を揃えた。
ベンチの前を、夜風が通り抜ける。提灯の灯が、ほんの少しだけ、こちらに身を寄せた。
蓮はその灯りが海へ出ていく未来の姿を想像した。誰かのために用意された細い光の道。その道を歩く影の後ろで、自分たちが息を合わせて立っている光景を。
発電機の音がまた一度、すっと消え、すぐ戻った。
「切れて、戻って、続く」
蓮が小さく言うと、静が笑った。
「呼吸みたいだ」
二人の間に、夜の匂いが満ちる。潮と油と、紙と糊と、少しだけミント。
ここに来てから、蓮は自分の声が少し低くなった気がしていた。言葉の重さを、足の裏から受け取るみたいにして話すようになった。静の笑い方も、少し変わった。息を奪われる笑いではなく、息を許す笑い。
どちらがいいというのではない。ただ、ここではそうなる。島は息を合わせて生きる場所だ。祖父の言ったことは、きっと真実だ。
診療所の階段を上がると、畳がやさしく鳴いた。蓮は振り返り、窓の外の提灯をひとつ、数えた。静は吸入器のキャップを確かめ、机の上に置いた。
「蓮」
「うん」
「明日、朝いちで、じいちゃんの往診、またついてく?」
「もちろん」
「じゃあ、合わせて歩こう」
静はそう言って、横になった。蓮も並んで横になる。発電機の唸りと波の呼吸が、身体のどこかで混ざり合い、音の下にもうひとつの音が生まれる。
眠りに沈む間際、蓮は思った。勝ち負けのない立合いが、世の中にはある。そこでは、間合いは奪うものではなく、差し出し合うものだ。差し出された間合いの上に、呼吸が置かれる。置かれた呼吸は、次の誰かに受け渡される。
その誰かの顔は、まだ見えない。きっと、明日見る。明日、島の別の家で。あるいは冬馬の横顔のもう少し奥で。あるいは、祖父の背中の下で。
島の夜は、灯をひとつひとつ残しながら、静かに深くなっていった。



