昼間からシャンパン? 

 戸惑ったが、しかし、もう昼間ではなかった。いつの間にか夕方になっていた。5時を過ぎていたのだ。先見さんの話を夢中になって聞いていたら、いつの間にか2時間が経っていた。

「フランスのシャンパンではなくてスペインのCAVA(カヴァ)ですが、美味しいですよ」

 先見さんがシャンパンクーラーからボトルを取り出して布で全体を拭いた。それから栓を覆っているシールを剥がして、ゆっくりとした動作で針金を緩めて外し、栓の部分を布でくるんで右手で持った。そして、ボトルの底を左手で回し始めると、グッ、グッ、という擦れる音が聞こえたあとにポンという音がして栓が抜けた。泡は零れていなかった。鮮やかな手つきだった。

 本当なら遠慮してお(いとま)しなければいけないのだが、そんなことを口にする雰囲気ではなかった。わたしはただグラスにスパークリングワインが注がれるのを見つめていた。

「久々の再会に」

 先見さんがグラスを掲げた。

「新型コロナが収まりますように」

 奥さんもグラスを掲げた。わたしは何も思いつかず、黙ってグラスを掲げた。

 マスクを外すと、爽やかな酸味が鼻を刺激した。繊細な泡が口の中で弾けると、あとからほんのりと甘みを感じて、上品な飲み心地に思わず目を瞑ってしまった。

「今日はバル風の料理を楽しんでいただこうと思っていますので、お付き合いください」

 先見さんがわたしに笑みを向けるのを見て奥さんが席を立ち、台所に向かった。

「スペインに行った時にはまっちゃいましてね」

 初めてヨーロッパ旅行を計画した時、どこにしようかと迷ったそうだが、料理好きな奥さんの希望を優先して美食の町〈サン・セバスチャン〉を選んだのだという。
 行ってみると大正解で、特にバル巡りが楽しくて連日舌鼓を打ったのだそうだ。それ以来、CAVAとピンチョスを家でもよく合わせるのだという。

「お待たせしました」

 意外にもカプレーゼだった。トマトとモッツァレラとバジルがオリーブオイルと塩コショウでシンプルに味つけされていた。

「これはイタリアの料理ですけど、CAVAにとっても合うので我が家の定番なんですよ」

 トマトは自家製なのだという。その完熟の甘みがモッツァレラとオリーブオイルに溶け合って、なんとも言えず美味しかった。

 カプレーゼがなくなると共にCAVAが空くと、先見さんが立ち上がって、ワインを2本持ってきた。両方共にスペインのワインだという。リオハの赤とルエダの白だと説明したあと、これから出てくるピンチョスに好みで合わせて欲しいと2つのワイングラスに赤と白を注いだ。

 それを待っていたかのようにピンチョスの盛り合わせが運ばれてきた。イベリコハム、ハモンセラーノ、スモークサーモン、オイルサーディン、アンチョビが各3個、オリーブと共にバゲットの上に乗っていた。
 どれも美味しそうだ。早速イベリコハムを手に取って口に入れると、トマトベースのソースとの相性が抜群で、いくらでも食べられそうに思えた。それでニンマリしていたら、赤ワインを勧められた。鼻で香りを楽しんでから口に含むと、一気に口福に包まれた。思わず先見さんに向かって二度ほどクイックで頷いた。彼も嬉しそうな表情で頷き返してくれた。それからあとは肉系には赤、魚系には白を合わせて、マリアージュの妙味に唸り続けた。

 皿が空っぽになると、奥さんはそれをトレイに乗せて台所へ行き、しばらくして新たな皿を運んできた。

「箸休めにどうぞ」

 スペイン風オムレツだという。中にジャガイモと玉ねぎとトマトがぎっちり詰まってボリューム満点。箸休めどころか箸進めになってしまった。

 もうそろそろお腹いっぱいかも、と思っていたら食欲をそそる匂いが近づいてきた。パエリアだった。ムール貝、アサリ、エビ、イカに加えて何色ものパプリカが彩りを添え、サフランの黄色が唾液を誘発した。

 装ってもらった皿から一口食べると、異次元の美味しさが口の中に広がった。思わずボーノと言いそうになったが、スペイン語ではないと気づいて、脳の海馬に刺激を与えた。すると、すぐに見つかった。

「デリシオーソ♪」

 しかし、右の人差し指を頬に当てていたので、言葉はスペイン、動作はイタリアだった。それがおかしかったのか奥さんがくすっと笑ったが、とてもかわいい笑顔だった。先見さんが惚れた理由がわかったような気がした。

 満腹になってお腹を擦っていると、奥さんが台所に向かい、すぐに戻ってきた。

「素敵なお土産をありがとうございました」

 プチケーキの詰め合わせと紅茶がテーブルに置かれたので、2人に先に選んでいただき、わたしはマンゴータルトを取った。

 それを食べ終わって、「夕食前にお暇しなければいけないのに、厚かましくご馳走になってしまって」と詫びようとすると、言い終わる前に2人が揃って頭を振り右手を振った。完全に同期していた。

「私たちには子供がいませんし、コロナの影響で友人が来ることもないので2人で静かに食事をすることが多かったのですけど、今日は久し振りに楽しい夕食になりました」

「無理矢理だったかもしれませんが、お付き合いいただいてありがとうございました。2人が3人になるだけでこんなに楽しい食事になることを再認識しました。また是非ご一緒下さいね」

 先見さんに続いて奥さんまで言葉を添えてくれたせいか、温かくて優しい空気に包まれて、なんだかフワフワとした気持ちになった。
 でも、そろそろお暇しなければいけないと思ってそれを切り出そうとしたが、「まだ7時だからもう少しいいでしょ?」という先見さんの声に遮られた。話し足りないからもうしばらく付き合って欲しいという。奥さんは先見さんの袖を引っ張ったが、「いいですよね」と勝手に決められてしまった。

「ごめんなさい、強引で」

 頭を下げる奥さんを尻目に「さてと」と言いながら先見さんが立ち上がった。