どのくらい時間が経っただろうか?
ほんの数秒かもしれなかったが、わたしには永遠のように思えた。そのくらい衝撃を受けていた。それに動揺していた。いや、固まってしまっていた。それだけでなく、彼が早まったことをしてしまったのではないかと凄く心配になった。しかし、口からはどんな言葉も出て行かなかった。
その時、「コーヒーはいかがですか?」といきなり奥さんが現れ、テーブルにコーヒーカップを3つ置いた。
「突然、辞めるって言い出したから私もびっくりしたんですよ」
先ほどの話を小耳に挟んでいたのだろうか、しかし、それにしては穏やかな表情を浮かべている。
「あと2年間くらいは顧問としてのんびりするものと思っていましたから」
奥さんの視線が先見さんに向くと、彼は右手で頭を掻いて奥さんから視線を外した。
「なんの相談もしないで、いきなり辞任届を見せたから驚かせちゃって」
また頭を掻いた。
「実は、知り合いに誘われて別の会社に移ることにしたのです」
業界の行事等でよく顔を合わせていたライバル会社の社長から誘われたのだという。
「7月の中旬にその人から電話がかかってきましてね。暇だったら遊びに来ないかと誘われたのです。新型コロナウイルスの感染者が3日連続で300人近い状態が続いていたので迷ったのですが、是非会いたいと強く誘われたのに加えて、公共交通機関を使わないでいいように車で迎えに行くとまで言われたのでお邪魔することにしたのです。すると、応接のソファーに座った途端、『うちに来ないか』と直球で誘われました。ジリ貧の小説部門を再建するために力を貸して欲しいと懇願されたのです。私はビジネス書部門の経験しかないからと固辞したのですが、だからいいんだ、と思いもかけない言葉が返ってきました。小説部門のことをよく知っている人には抜本的な改革はできない、この危機的な状況を打破するような思い切ったことはできない、と言うんです。余りにも強く誘われたので気持ちが揺らぎましたが、『私は今の会社で変わり者と言われています。変人扱いされています。そんな人間でもいいんですか?』と釘を刺したら、『だからいいんだよ。変人大歓迎!』と大きな笑い声を返されました。常識人や頭のいい人が通用するのは安定した時代だけで、今のような激動する不安定な時代には変人が必要なんだ、と言うのです。嬉しかったですね。変人大歓迎と言ってくれる経営者に出会ったのは初めてだったので、ちょっと舞い上がってしまいました。それで即答してしまったのです。お世話になりますと」
常勤顧問という立場で入社し、社長特命のプロジェクトに関わることになったのだという。
それですぐに勤務先に辞任届を出したところ、あっさりと受理され、希望通り先月末に辞めることができたということだった。
「でも、ただ辞めるだけでなく、次の布石を打ちました。取締役だった時に直属の部下だった2人の幹部社員を連れて行くことにしたのです。ノウハウ本や自己啓発本を担当している社員です。私と似ているところがあるので、変人2号、変人3号とも呼ばれている社員なのですが、声をかけると、一も二もなく同意してくれました。『年老いた変人を一人で行かすわけにはいきませんからね』と軽口を叩くように言っていましたけど、自分を信頼してくれている気持ちが伝わってきて嬉しかったですね」
その時のことを思い出したのか、本当に嬉しそうに笑った。
「彼らと一緒に来月1日から新しい会社で挑戦を始めます」
早速、準備を始めているという。
「ほとんど小説を読まない会社員の人たちが手に取りたくなるような小説を生みだすために、今までとはまったく違う新人賞を創設する予定です。そのタイトルは『ビジネス小説大賞』で、サブタイトルには『5,600万人の会社員が絶対に読みたくなる小説を発掘する』と記すことにしています」
そして、今までの新人賞は〈どんな人に読んでもらいたいのかが明確になっていないのが大きな問題点だ〉と言い切って、話を続けた。
「募集要項には『ピンチをチャンスに変えたストーリーと爽快な読後感のあるビジネス小説大募集』『波乱に満ちたビジネス経験を豊富に持つ経営者、会社員大歓迎』『変人、奇人と呼ばれて会社でのけ者にされている人大歓迎』と明記する予定です。それから、応募できる原稿枚数は400字詰め換算で200枚から500枚とします。中編から長編をしっかり書けることを重視するからです。それから、募集の締め切りは設けず、通年募集とする予定です。発表は随時で、受賞に値する作品があれば毎月でも発表する予定です」
一気に捲し立てた彼の瞳がキラキラと輝いているように見えたので、「今までとまったく違うタイプの小説が殺到しそうですね」とエールを送ると、「そうなることを願っています。長期低落傾向が続く出版業界が反転するようなインパクトを与えられればと思っています」と嬉しそうに笑ったが、すぐに顔を引き締めた。
「但し、いきなり書店で販売することはしません。リスクが大きいからです」
「と言いますと」
「先ず電子書籍として発売します。それはテストマーケティングという位置付けなのですが、その中で反応の良いものだけを書店流通に乗せるのです」
それは、コストと返品の両面に対応するためなのだという。
「電子書籍の制作コストは紙の本の四分の一くらいで済むんですよ。だから2000部も販売できればペイできます。それに電子書籍には返品という概念はありませんから、売れ残って大量に返ってくることもありません」
そのこともあって、アメリカの独立系出版社では電子書籍の出版点数がうなぎ上りなのだという。
「しかし、日本ではまだまだなんです。電子出版自体は伸びているんですけど、そのほとんどがコミックで、電子書籍は500億円に満たないレベルにとどまっているのが現状なんです」
デジタル技術によって変革が進む欧米と比べると大きな差が付いている日本の現状を嘆いた。
「でもね、販売や顧客分析が簡単にできますし、ネット上でのクチコミに直結するので、これをやらない手はないんです」
どこの誰が買ったかわからない書店流通に比べると、お客様の顔がはっきり見えてくるのだという。
「そのデータをしっかり分析した上で、確実に売れると判断したものだけを書店に流すのです」
「でも、書店流通には返品がつきものと言われましたよね。それに制作コストも4倍ということですから、書店流通なんか止めて電子書籍に絞った方がいいのではないですか」
「いえ、そうとも言えないんです。本を、特に小説を買うきっかけとしての書店の役割は大きいんです。タイトルに惹かれて手にした本をパラパラとめくり読むことは大事な接点ですし、帯の文言に惹かれて買う人も多いですからね。それに、当たるか当たらないかわからない小説をイチかバチかで流通させるのではなく、データ分析をしっかりした上で配荷するわけですから、販売予測が大きく外れることもないはずなんです。つまり、返品率をぐっと抑えることができるということになります」
出版社と書店がWIN-WINになる仕組みだと胸を張った。
「それだけでなく、新人作家にもメリットがあります。彼らは当然のことながら知名度がありませんから、デビュー作が売れないと次のオファーが来ません。だから一作だけで終わってしまう人も少なくないのです。しかし、デビュー作が売れる確率が高まれば、才能があるにもかかわらず引退を余儀なくされていた人たちを救うことができます。作家と出版社にとってもWIN-WINなのです」
わたしは感心して声を出すことができなかった。それでも、ユニークな募集要項に加えて電子書籍によるテストマーケティングは画期的で、凄いことが起こるかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなくなった。
「わたしの研究テーマにさせていただいてもよろしいでしょうか?」
すると彼は、えっ、というような表情になったが、構わず畳みかけた。
「変人・奇人作家の発掘というのは、わたしの専門である異質学にとってもとても興味のあるテーマです。それも長期低落する出版業界を反転させるインパクトのある試みとなれば尚更です。更に、尊敬する先見さんの挑戦となればただ指をくわえて見ているなんてできません。新たな挑戦を間近でフォローさせていただきたいのです」
すると、「嬉しいですね。そんなふうに言っていただけると感無量というかなんというか」と頬を緩めたあと、ねっ、というように奥さんに視線を向けた。
頷いた奥さんはわたしの方を向いて、「夫の人生の集大成となる挑戦だと思っています。是非ともお力添えをお願いします」と頭を下げた。
それを見て先見さんも「駿河台さんが論文にしてくださるならこれ以上の喜びはありません。こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げたので、わたしは慌てて2人以上に深く頭を下げた。
顔を上げると、「もう一つお知らせしたいことがあります」と言って、先見さんが立ち上がり、部屋を出ていった。
なんだろう、と思う間もなく戻ってきたが、手には大きな茶封筒を抱えていた。椅子に座ると、中から分厚い紙の束を取り出した。右端が大きなダブルクリップで留められている。
「出来上がったばかりなのですが」
先見さんが何を言っているのかわからなかったが、よく見ると、原稿のようだった。
「初めての著作になります」
えっ⁉
「変人大歓迎と言って私を誘ってくれた社長に読んでもらったところ、とても気に入ってくれました。そして、出版に向けて準備を進めるようにと言ってくれたのです」
受け取って表紙を見ると、そこには作品名と著者名が書かれており、見た途端、持つ手が熱を帯びてきた。未知のものに触れようとしているのだから当然だが、この中に新しい時代に対する処方箋が書かれていると思うと体の芯まで熱くなってきた。
作品名は、『変人・奇人の時代』
著者名は、『先見透』
その2つが眩い輝きを放ってわたしを捉えて離さなかったが、それでもその先にある未知との遭遇という誘惑に動かされて紙をめくった。冒頭に書かれている2行から目が離せなくなった。
変人とは、変化を生みだす人。
奇人とは、奇跡を起こせる人。
完



