「さっき、こちらに伺う前に書店に寄ったのですが、お客さんが多くて、新刊本もうず高く積み上げられていて、出版不況という言葉が信じられないくらいでした」

 すると音楽に身を委ねていた先見さんは、う~ん、というふうにちょっと困ったような表情になった。

「そう見えましたか。でも、かなり厳しいんです。もう15年連続して売上が落ちています」

 そして、業界が置かれている厳しい状況を口にした。2兆円を遥かに超えていた販売金額が1兆2,400億円まで落ち込んでいる上に返品率が4割もあって、今のままでは総倒れになりかねないのだという。

「書籍も月刊誌も週刊誌もコミックもすべて右肩下がりが続いているんです。電子コミックだけは急増していますけどね」

 ただ、それは違法海賊版サイト取締りの効果が出ているだけだと嘆いた。

「唯一気を吐いているのがビジネス書なんです。ノウハウを伝授する本、自己啓発を促す本、退職後の生き方を説く本などがよく売れています。しかし、小説は新刊本に加えて文庫本の落ち込みが酷くて屋台骨の一つが崩れかけています」

 SNSやゲーム、動画などの無料コンテンツに浸食されているのだと危機感を露わにした。

「本を読む代わりにスマホの画面を見続ける人が増えているのです。この流れは当分変わらないと思います」

 先行きは暗いと顔を曇らせたので、「なんとかできないのですか?」と訊くと、う~ん、と唸って腕を組んで窓の方に顔を向け、遠くを見るように目を細めた。そして、「業界の常識をぶち壊さない限り衰退していく一方でしょうね」と視線を戻してから残念そうに首を振った。そこには無念の思いが込められているような気がした。

「散々言ってきたんですけどね」

 小説部門の売上低迷を打開するために色々なことを提案したが(うと)まれるだけだったらしい。

「『お前はビジネス書だけを見ていればいいんだ。小説部門のことに口を挟むな』と社長や副社長から何度も言われました」

 彼の出版社は小説部門が本流で社長はその生え抜きなのだという。その上、創業家の娘と結婚したので怖いものは何も無いのだという。

「銀行から来た副社長はイエスマンで、社長の意に反したことは一切言いません。その上、常務が太鼓持ちみたいな奴で社長と副社長のご機嫌取りばかりしていて」

 取締役解任時のことを思い出したのだろうか、口調が少し気色ばんだ。

「まあ、何を言っても愚痴にしかなりませんけどね」

 腕を解いて右手を伸ばしてチューリップグラスを持ったと思ったら、一気に全部飲んでしまった。

 大丈夫かしら、わたしには少しずつゆっくり飲めと言っていたのに、

 心配になったが、ボトルを持ち上げてなみなみとグラスを満たしたので、更なる一気飲みを止めるために急いで質問をした。

「先ほど散々言ってきたと言われましたが、どのようなことを言われたのですか?」

 そこで彼の手が止まったが、目はグラスから離れなかった。言おうかどうしようか迷っているような感じだった。それで、ちょっと込み入ったことに入りすぎたかなと悔いが頭を過ったが、少しして彼の視線が戻ってきた。

「新人発掘の仕組みを変えたらどうかと提案しました」

「それって新人賞のことですか?」

「そうです。新人賞です。我が社でも毎年募集をしていますが、文芸誌や新聞社、自治体などが主催する新人賞は100以上あり、その数だけ受賞者が生まれています。しかし、受賞しただけで作家としてデビューできない人や、一作だけで消えていく人が数多くいます。生き残る人はごくわずかなのです。しかも、その作品が売れているとはとても言えません。それが問題なのです」

 2000年代に入ってのベストセラーは自己啓発本が多く、小説で大ヒットしたものは少ないという。一部の人気作家が気を吐いているが、多くの小説は増刷もされずに消えていくのだという。

「書店のスペースは限られていますから、売れない本を長く留め置くことはあり得ないのです。それに書店の数自体が減ってきていますから、益々厳しい状況になっています。知名度のない新人作家が育たないのはそういう流通面の問題もあるのです。でもそれだけではなく、コアな小説ファンだけを相手にした今のやり方にも大きな問題があると考えています」

 新人賞には大きく分けて『純文学』と『大衆文学』があり、その募集要項には『既成観念にとらわれない意欲的な作品を期待しています』とか『今までにない衝撃的な作品をお待ちしております』とか記載されているが、何をもって意欲的なのか、何をもって衝撃的なのかというのが提示されていないのだという。それに、衝撃的とか意欲的とかという言葉が独り歩きして無理なプロット(筋書きや展開)を促しているのではないかという。

「普通の人が読みたいのは普通の小説なんですよ。奇をてらったものを読みたいとは思っていないんですよ」

 それがコアな小説ファンとは大きく違う点なのだという。

「いわゆるビジネス書や啓発本を読んでいる人は〈現実的な課題にどう対処していくのか〉という視点で本を読んでいます。だから、それに応えるような小説でないと読む気にならないんです」

 小説には様々なジャンルがあり、推理小説、ホラー小説、SF小説、ファンタジー小説、青春小説、恋愛小説、歴史小説、時代小説、官能小説などに分類されるが、所謂(いわゆる)ビジネスマンに向けた小説はこの中には少ないのだという。

「問題はそれだけではありません。そもそもコアな小説ファン自体が減っているのです。2019年に実施した文化庁の調査によると、1か月に1冊も本を読まない人は47.3パーセントもいるという恐ろしい結果が出ました。日本人の半分近くは本を読まないということです。その中で小説を読む人はどれくらいいるでしょうか? 正確な調査結果がないので具体的な数字を挙げることはできませんが、かなり少なくなっていると思います。特に従来型の小説を好む人は激減しているのではないでしょうか。毎年発表されるベストセラーの総合ランキングを見ても、上位20位のうち小説は3作くらいしか入っていないのです。それらを総合的に考えると、コアな小説ファンは100万人を切っているかもしれません。そんな状況の中で毎年多くの新人賞受賞作が出版されるわけですが、それらはほとんど売れていません。何故なら、受賞作の多くは限られた小説ファン向けでしかないからです。逆に言えば、潜在的に大きな可能性を秘めているその他の人たちに訴求できる作品が選ばれていないということが大きな理由なのです」

 それは理解できる気がした。しかし、どうしてそうなるのかがわからなかった。尋ねると、禅問答のような答えが返ってきた。

「小説を愛する人たちが一生懸命選ぶからそうなるのかもしれません」

「……それって、どういうことですか?」

 しかし、すぐには返ってこなかった。どう説明すれば理解してくれるだろうかと考えを巡らせているようだった。それでも考えがまとまったのか、「日本の人口分布を思い浮かべてください」と言って話を継いだ。

「1億2,000万人のうち労働人口は6,800万人強ですが、会社員が5,600万人を占めているというのが重要なポイントです。どういうことかというと、本来ならこの5,600万人に向けてアプローチがなされなければならないのに現実はまったく違ってしまっているということなのです。出版社は一部の小説愛好家だけに目が向いているので、普段小説を読まない会社員の人たちに興味を持ってもらえるものを提供するという観点が不足しているのです。そこが問題なのです」

 それを聞いて、毎日満員電車に乗って通勤する会社員たちの姿が瞼の裏に浮かんできた。書店でノウハウ本や自己啓発本を必死になって立ち読みする会社員たちの顔も浮かんできた。

「会社員の多くは今の生活をいかにして向上させるかに頭を悩ませています。出世して、もしくは良い仕事をして賃金を上げたいと思っています。また、契約社員や派遣社員の人たちは正社員になるためにどうすればいいかを常に考えています。自分の貢献度をどうすれば認めてもらえるのかと考えているのです。だからノウハウ本や自己啓発本が売れるのです。自分の生活向上に直結すると思うから買ってまで読むのです。しかし、小説はどうですか? 生きていく上での気づきを何も与えてくれないものや、リアリティが乏しくて共感を得られないようなものに興味を持ちますか? たとえそれが名の知れた作家のものであったとしても購入すると思いますか?」

 目を覗き込むようにして視線が迫ったので、すぐさま首を横に振った。わたしには興味がなかった。役に立つものや知的好奇心をそそられるもの以外にお金を使おうとは思わなかった。もし小説を読むとしたら図書館で借りるに違いない。つまらなければ返せばいいだけだから。

「ほとんどの新人賞受賞作には、ビジネスの視点、自己啓発の視点、課題を解決して明るい未来を描くという視点が欠けているように思います。だから読み終わったあと『さあ明日から頑張るぞ!』という爽快な読後感が得られないのです。だから売れないのです」

 なるほど。

「ノウハウ本や自己啓発本には付箋を貼る人が多いと思います。あとから読み返すためです。大事なことを忘れないようにするためです。でも、小説はどうでしょうか? 付箋を貼りますか? 貼らないですよね。気に入ったとしても『あ~面白かった』で終わってしまうのです。そして本棚で眠るか、古書店に売られるか、資源ごみとして出されるか、という結末を迎えます」

 う~ん、でも、小説と付箋貼付を関係付けるのはどうかな……と首を捻っていると、先見さんがすぐさま問いを発した。

「記憶に残っている小説って何冊ありますか?」

 どうだろう? と考える必要もなかった。わたしには1冊もないのだ。それを伝えると、「コアな小説ファンは別として一般の人が思い浮かべるのはせいぜい数冊程度ではないでしょうか。私も2冊くらいしか思い浮かびません」と同調してくれた。出版社に勤める先見さんでも、アーサー・ヘイリー著の『ストロング・メディスン』とゴードン・トマス著の『アメリカが死んだ日』くらいしかないというのだ。

「『ストロング・メディスン』は新薬開発に関わる物語ですが、倫理観の欠如が後戻りできない悲劇を引き起こすという教訓を教えてくれると共に未知の領域に挑む勇気の必要性を教えてくれます。『アメリカが死んだ日』はドキュメントと言った方がいいかもしれませんが、世界大恐慌時の人間ドラマを描いたもので、尽きぬ欲望が悲惨な結末をもたらすことへの警鐘を鳴らしてくれます。この2冊には多くの付箋を貼って何度も読み返しました。私にとっては単なる小説ではなくバイブルだったからです」

 それを聞いて、羨ましいと思った。わたしにはバイブルのような存在の小説はないのだ。

「もちろん、人によって琴線に触れる内容は違ってきます。恋愛であったり、家族愛であったり、芸術であったり、スポーツであったり、それぞれだと思います。しかし、多くの人が人生の大半を費やす〈仕事〉という側面は決定的に重要だと思っています。それは私がビジネス書に長く関わってきたから言っているのではなく、5,600万人の会社員というデータが厳然として存在するからです」

 5,600万人の会社員が興味を持つ小説か~、それが実現できたら出版業界は一気に活性化するだろうな、と思っていると具体的な内容が示された。

「お仕事小説というジャンルがありますが、私が言っているのはそういうものではありません。会社や上司、同僚といった近視眼的な内容ではなく、もっと大きな夢やロマン、更には社会的問題の解決に向き合うような俯瞰的な内容のことを言っているのです」

 なるほど、そんな小説があったら読んでみたい。

「小説というものをもう一度再構築しなければならないのです。5,600万人の会社員が興味を持つ小説を創り上げなければならないのです。そのためには、ターゲットの明確化が必要です。その上で、新人賞の応募要項を見直す必要があります」

 コアな小説ファン向けのものはもちろんあって構わないが、今まで置き去りにされてきた5,600万人の会社員に向けた新人賞を作るべきだという。
 それでわかった。業界の長期低落を打破するためにはこれまでと違うアプローチが必要だということだ。しかし、

「会社は先見さんの提案を、こんなに素晴らしい提案を前向きに捉えてくれなかったのですね」

「というよりも、馬鹿にされました。何もわかっていない素人が口を出すなと。ビジネス書と小説は売るための難易度が違うのだから黙っておれと。ビジネス書は誰がやってもそこそこ売れるが、小説はそんなわけにはいかないのだと。殿様が百姓を見るような目で(さげす)まれました。それでも私は諦めませんでした。何度も言い続けました。取締役として会社で働く多くの社員を救う責任があるからです。でも、自らの考えに固執している社長と副社長に何を言っても通じませんでした。最後には変人扱いされてまったく相手にされなくなりました。そして解任されました」

 苦々しく吐き捨てると、グラスを手に持って一気に呷った。

「でも、もういいんですよ、今の会社のことは。先月末に辞めましたから」

 えっ! 
 辞めた? 
 ウソ! 
 そんな……、

 突然のことに頭が混乱してしまったが、彼の顔には怒りはなく、笑みさえ浮かべていた。信じられない思いが充満したわたしは二の句が継げず、これ以上は無理というほど大きく目を開けて、彼を見つめるしかなかった。