1週間後、先見邸に伺う前に電話を入れた。体調を伝えるためだ。
「36度4分の平熱です。くしゃみも咳もありません」
すると、元気な声が返ってきた。
「私たち夫婦も平熱です。同じく、くしゃみも咳もありません。お互い大丈夫なようですね。気をつけてお越しください」
受話器を置いたあと、良かった、と独り言ちたが、気を緩めてはいけないと気合を入れ直し、しっかり不織布マスクをつけて、アルコール消毒をして、玄関を出た。
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電車に乗って吉祥寺へ移動し、駅前の商店街でプチケーキの詰め合わせを買った。
そこから西へ15分ほど歩くと、閑静な住宅街が現れ、その中に先見邸はあった。
着いたのは午後3時前だった。敷地はそんなに広くなさそうだし、壁の色は少し褪せているようだったが、手入れが行き届いた感じのいい家だと思った。フェンスに這わせているツルバラは花の時期が終わっていたが、その代役を務めるかのように玄関脇の大きな鉢に咲く青とピンクの紫陽花が、今まさに見頃を迎えようとしていた。
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「いらっしゃい」
マスク姿の先見さんが元気そうな顔で迎えてくれた。3か月前に比べて少しふっくらとした感じを受けたのでちょっと見してしまったが、その視線に気づいたのか、「通勤がほとんどなくなったのとコロナの影響で近所を散歩するだけなのでちょっと太っちゃいましたよ」と頭を掻きながら、「さあどうぞどうぞ」と中へ入るように促された。
通されたのはリビングだった。20畳ほどあるだろうか、落ち着いたミディアムブラウンのフローリングに重厚なダークブラウンのテーブルが存在感を示していた。一枚板だろうか、艶々と光沢を放っている長方形のテーブルから目が離せなくなった。
すると、「取締役になった時にこの家を手に入れたのですが、その時に思い切ってこれを買ったんですよ。一枚板のテーブルを数多く揃えている家具屋で一目惚れしましてね」とまるで愛娘を見るような優しい眼差しをテーブルに向けた。
それを聞いて、高かっただろうな、と思いながらも、それをグッと飲みこんで、「いつかわたしもこんなテーブルを買えるようになれたらと思います」とお世辞ではない本心を贈った。
「いらっしゃいませ」
椅子に座った途端、いきなり声がしたので顔を向けると、品の良さそうな女性が軽く頭を下げていた。奥さんだった。ゆるいウェーブをかけたショートヘアが形の良い卵型の顔に似合っていたが、ほとんど白髪だったので年上のように感じた。先見さんが黒く染めているから、そのコントラストが目に馴染まなかったが、髪をじろじろ見ないように気をつけながら挨拶を返した。
奥さんがロココ調のコーヒー茶碗をわたしと先見さんの前に置いた。とても上品なデザインだった。葡萄と葡萄の葉だろうか、手書きの金彩が余りに美しいので奥さんの趣味だろうかと思ってチラッと顔を覗くと、目が合ってしまった。するとすぐに品の良い笑みが返ってきたが、何故かわたしは照れてうつむいた。それで気を利かせたのか、それとも気づかない振りをしてくれたのかわからないが、「ごゆっくりなさってください」と奥さんはトレイを持って部屋から出て行った。
その後姿を見送って「素敵な奥様ですね」と伝えると、先見さんはちょっと照れたような表情を浮かべて、「3歳年上なんです。姉さん女房。掌の上で遊ばせてもらっています」とはにかんだが、自分が好き勝手なことができるのは妻のお陰だと賛辞を忘れなかった。
「私のような変わり者を理解してくれる女性は少ないですから」
再婚なのだという。30歳を過ぎた頃に4歳年下の女性と恋愛結婚したが、10年持たなかったという。「普通の人だと思ったのに、そうじゃなかった」と言われて縁を切られたのだと笑った。
「子供もできなかったので、2人だけの生活に煮詰まったのかもしれません。いつの間にか私の悪い所ばかりに目が行くようになったのかもしれないですね。それに、私には女心がさっぱりわからないから……」
ちょっと顔を曇らせたが、それは長く続かず、今の奥さんとの出会いに触れた。知人の紹介がきっかけだという。
「見合いみたいなものです。お互いバツイチだったので、気楽に付き合えたのが良かったのかもしれません」
それに、変なことを言ったり、おかしなことをしたりしても笑って包み込んでくれたのが新鮮だったという。
「『他の人と違っているから面白い』って言われましてね。それを聞いた途端、この人だって思ったんですよ」
だからすぐにプロポーズをして籍を入れた、と白状するように言った。
「相性って大事ですね。例え喧嘩をしても許せる相手なら長続きしますよね。でも、許せない相手だとどんどん気まずくなる。再婚した妻は前者で、離婚した妻は後者だったんだと思います。もちろん、若い時とそうでない時では違ってくるでしょうし、社会環境や労働環境によっても変わってくるとは思いますが、でも、絶対的な相性というのはあると思うので、一時的な恋愛感情だけで結婚するのは危険なことかも知れませんね。ただ、一緒に暮らしてみないとわからないことも多いから、付き合っている時にそれを見抜くのは大変だとは思いますけどね」
そう言われても結婚する気のないわたしはどう反応していいかわからなかったので、彼から視線を外して部屋の中を見回した。
すると、テレビとステレオが一体になっているコーナーに目が留まった。ラックの中にはCDに加えて数多くのレコードが収納されていた。そのせいか、「まだレコードを聴いていらっしゃるのですか?」と訊いてしまったが、ん? というような表情が返ってきたので、一瞬固まってしまった。まだという言葉が気に障ったのではないかと思うと、余計なことを口にした自分を恥じた。
それで、「レコードってもう何十年も見たことがなかったものですから」と言い訳じみたことを口にしてしまったが、先見さんは何も答えず、ラックからレコードを一枚取り出して、「アルバムジャケットが大好きなんですよ。CDと違って大きくて迫力があるでしょ。まるで絵画のように思えることがあるし、これなんて完璧に芸術作品ですよね」と話題を変えてくれた。



