夕方5時ちょっと前に先見邸に到着した。2か月半ぶりなのでちょっと緊張してインターホンを押すと、ほとんど待たされずにマスク姿の先見さんがニコニコしながらドアを開けてくれた。その後ろには同じくマスク姿の奥さんが立っていて、元気そうな笑顔で迎えてくれた。その表情を見て、ホッとした。

「ご心配おかけしました」

 靴を脱いで上がった途端、奥さんが頭を下げた。

「暑さに負けたみたいです」

 知らないうちに体力を消耗していたのだろうと先見さんがフォローした。

「年を取るとだめですね」

 自嘲気味に奥さんが肩をすくめたので、「でも、お元気になられてなによりでした」と精一杯の笑顔を作ってその話題を終わらせた。

 リビングに通されて椅子に座ると、「今日はドイツのビールを楽しんでください」と先見さんがビールの小瓶をテーブルに並べた。ラベルに『オクトーバーフェスト』と記されていた。

「本来なら9月19日から10月4日まで開かれるのですが、今年は新型コロナの影響で中止になったのです」

 バイエルン州ミュンヘンで開催される世界最大のビール祭りがオクトーバーフェストで、600万人もの観光客が押し寄せ、700万リットルものビールが消費されるのだという。

「新型コロナがなければ行けてたかもしれないのですが」

 一瞬、残念そうな表情になったが、「でもせめて日本で祝おうと、オクトーバーフェストの名が付いたビールを通販で取り寄せたんですよ」と笑顔に戻って栓を抜いたので、「ちょっと待ってください」と制して、持参したフェイスシールドを紙袋から取り出した。

「これならいちいちマスクを外したり着けたりしないで済みますから」

 すると2人が、あらまあ、というような表情を浮かべたが、両親のように拒否はしなかった。

「では、お言葉に甘えて」

 先見さんが装着すると奥さんも身に着けたが、「なにか、SFの世界に入ったみたいですね」と笑ったので、私もつられて笑った。確かに3人がフェイスシールドをつけている姿は普通ではなかった。

「でも、これで安心して飲めるからさっそくやりましょう。乾杯!」

 ビールを注ぐなりグラスを掲げたので慌てて掲げ返したが、喉越しだけでなく飲んだあとの爽やかな苦みとほのかな甘みがなんとも言えなくてたまらなくおいしかった。それは2人も同じらしく、続けざまに小瓶が空いた。

 見計らったように奥さんが台所に向かい、大きな皿を手にして戻ってきた。

「今日はソーセージを用意しました」

 ドイツのビールに合わせてドイツ産ソーセージを取り寄せたのだという。テーブルに置かれた大皿の上には細長いフランクフルター、ニンニクとハーブを練り込んだテューリンガー、ハーブやスパイスが効いたニュルンベルガー、白くてずんぐりしたヴァイスヴルストが3本ずつ並んでいて、付け合わせのジャガイモとザワークラフトが別皿に盛られていた。しかし、それ以上に興味をひかれたのは奥さんのエプロンだった。泡が溢れそうになっているビールのイラストが描かれているもので、オクトーバーフェストで女性の売り子が着用しているのだという。

「ミュンヘンの気分を少しでも味わっていただければと思いまして」

 笑みを浮かべた奥さんの心遣いが嬉しかった。そのせいか、思わず「乾杯!」と大きな声が出てしまった。その途端、恥ずかしくなってフェイスシールドの上から口を押えるように手をやったが、そんなことは気にしてないというふうに、2人はとびきりの笑顔で応えてくれた。

 ビールとソーセージでお腹がいっぱいになった頃、先見さんが見慣れぬお酒とグラスを運んできた。オランダの国民酒と専用グラスだという。

「イェネーファといって、ジンの起源になったお酒なんですよ」

 グラスは花が開いたような形になっていて、チューリップグラスと呼ばれているのだという。その縁までたっぷり注いだと思ったら、なんとグラスに直接口を付けた。呆気に取られていると、最初の一口は手を使わないのがオランダ流なのだと説明してくれた。

「但しアルコール度数が38度もあるので、少しずつゆっくりお楽しみください」

 頷きを返してほんの少しだけ口に含むと、芳醇な風味がいっぱいに広がって、思わずニンマリとしてしまった。それで気に入ったことを察してくれたのか、「ビールと一緒に飲むのもありなので、それもお楽しみください」とオランダのビールを注いで、チューリップグラスの横に置いた。わたしはその機を逃さなかった。すかさず手土産のCDをバッグから取り出してテーブルの上に置いた。

「オランダのお酒にはオランダ人の演奏が合うと思いますが、いかがでしょうか」

 表紙に手を向けると、2人の視線がその写真に集まった。

「素敵なデザインですね。ヨーロピアン・ジャズ・トリオですか。ロマンティックな演奏が聞こえてきそうです。早速かけてもいいですか?」

 身を乗り出した先見さんは、CDをセットして再生ボタンを押した。

『哀愁のヨーロッパ』が流れてきた。するとすぐさま「この曲大好き」と奥さんの声が弾んだ。彼女はサンタナの大ファンだった。そして四曲目が始まると、「アバも大好き。私の青春の歌」と言って、「♪ THANK YOU FOR THE MUSIC ♪」と口ずさみ始めた。すると先見さんもそれに続き、つられてわたしも歌うと、三人の歌声が軽やかにシンクロした。

 曲が終わると奥さんが立ち上がったので、「お手伝いします」と腰を浮かせたが、やんわりと断られた。そして座るように促されて、「主人の相手をお願いしますね」と笑って、皿を乗せたトレイを運んでいった。手伝いができないのは少し残念だったが、わたしはこのチャンスを生かすことにした。話題を変えたのだ。