先見さんから電話がかかってきたのは、9月16日のことだった。猛暑はピークを過ぎ、最高気温が30度を切る日が続いていた。最低気温も25度を切り、暑くて眠れないという状態から脱していた。そのせいか奥さんの体調もすっかり元に戻ったとスマホから明るい声が聞こえてきた。
 翌17日は朝からはっきりしない天気だった。どんよりと曇っており、午後から小雨の予報が出ていた。最高気温は28度くらいらしい。
 テレビはどのチャンネルも新首相誕生のニュースで溢れかえっていた。そして、閣僚人事と解散時期について、ああでもないこうでもないと解説者たちが持論を述べていた。
 わたしは耳だけそのニュースに貸して朝食の準備を始めた。いつもはミルクとパンと卵料理だが、今日は気温が下がったので和食にすることにした。といっても作るのはみそ汁だけだ。豆腐とわかめが入った小鍋に出汁入り味噌を溶かせば終わり。その間に冷凍していたご飯をチンすれば完成。あとはキュウリの浅漬けと納豆と梅干とシソ。どれも昨日スーパーで買ってきたものばかりだ。といっても和食に違いはない。久しぶりに日本人になったような気がしておいしくいただいた。

 天気がイマイチなので洗濯は止めて、コーヒーをお供にミュージックタイムを過ごすことにした。今日のパートナーは、秋の気配を先取りして『哀愁のヨーロッパ』を選んだ。原題は『EUROPA』。『EUROPEAN JAZZ TRIO』が2000年にオランダで録音した名盤。
 ジャケットの写真が美しい。枯葉の舞い散るアムステルダムの公園だろうか、老婆とその娘らしき2人の後姿と影が冬になる前の静寂を伝えている。実はジャケ買いしたのだ。アルバムデザインの素晴らしいCDに外れはないと信じているので一目惚れをして即買いをしたのだが、正解だった。それ以来、今日まで秋の定番になっている。

 タイトルナンバーが始まり、ゲスト・ギタリストとして参加している『ジェシ・ヴァン・ルーラー』の音色が聞こえてきた。サンタナの演奏で大ヒットした曲をジャズにアレンジして軽快に演奏している。
 2曲目からはピアノトリオの演奏が続き、うっとりとして聴いていると、大好きな曲が始まった。『THANK YOU FOR THE MUSIC』。スウェーデンの4人組、ABBAが歌って大ヒットした曲。40年近く前の曲なのにまったく古さを感じない。それに完全にジャズになっているので、あの有名なメロディーが出てくるまではアバの曲だとはわからない。だからこそサビになると頬が緩んでしまうのだが、もちろん演奏自体が素晴らしく、特に間奏のピアノソロはスウィングしていて、極上の世界へ連れて行ってくれる。
 その次も素晴らしい曲が続いた。『アランフェス協奏曲』。スペインのクラシック作曲家ホアキン・ロドリーゴが作曲したコンチェルト。しみじみ(・・・・)という言葉がピッタリの落ち着いた演奏。ギターとピアノのソロが交互に出てきて、その素晴らしい演奏に思わず聴き入ってしまう。
 わたしがこの曲を知ったのは、ジャズギタリスト『ジム・ホール』のアルバム『アランフェス協奏曲』だった。原題は『CONCIERTO(コンチェルト)』。《ジャズアルバム史上屈指のベストセラー》という帯の文言に惹かれて買ったアルバムだったが、大大大正解だった。19分超にも及ぶタイトルナンバーの演奏は荘厳であり深遠であるとしか言いようがなかった。
 その異次元の世界に惹き込まれて、時として時間を忘れた。そして、荘厳と深遠の中で自己を見つめた。正体不明の自己と対峙した。「わたしは誰?」と問い続けた。
 すると彼らはそれぞれの演奏でアドバイスしてくれた。ローランド・ハナがピアノで、ロン・カーターがベースで、スティーヴ・ガッドがドラムで、チェット・ベイカーがトランペットで、そして、ジム・ホールがギターで。「君は君だよ。誰でもない君自身だよ」と。
 わたしは自分を見失いそうになると、いつもこの曲に聴き入った。その度に音のメッセージが届いた。「雑音に耳を貸さなくていい。誰にも気兼ねしなくていい。深呼吸をして心を落ち着かせなさい」と。そして、いつも後押ししてくれた。「君らしく生きなさい」と。

 今日はこの2枚のCDを手土産にしよう。

 突然思い立った。そう決めると居ても立ってもいられなくなり、すぐに着替えてCDショップへ直行した。古いアルバムなので売っているかどうか心配だったが、2枚ともしっかり棚に並んでいた。『哀愁のヨーロッパ』は2011年再発版が1,399円というリーズナブルな価格で、『アランフェス協奏曲』は2017年の再発版が1,237円とこれまたリーズナブルな価格でわたしの手が伸びるのを待っていた。思わず、ラッキー! と声が出て、踊るような足取りでレジへ向かった。

 昼ご飯はざる蕎麦にした。お腹にもたれないように天ぷらが乗っていない海苔だけのシンプルなざる蕎麦だ。奥さんの美味しい手料理が待っているのだから、昼食を食べ過ぎてはいけない。ズズッとすすって蕎麦湯を楽しんで20分で店を出た。
 その後、2つほど用事を済ませてから電車に乗って吉祥寺まで移動したが、約束の時間までは少し余裕があったので、商店街のビルの中にある書店を覗いた。かなり大きな書店だ。ネットで調べると100万冊ほどの在庫があるという。なのでゆっくりと見て回りたかったが、そうもいかないので今日はビジネス書のコーナーに直行することにした。

 売場で目に付いたのがコロナ関連の本だった。パンデミックの時代にどう対応するかという内容のものが多いようだ。その他には啓発関係や教養を促すもの、年収を何倍にもする方法、働き方改革、人生の生き方、などの本も数多く並んでいた。その中に、カーネギーの『人を動かす』という本が混じっていた。もう80年以上前に書かれた本なのにまだ読まれていると思うとちょっと感動した。帯に《日本で500万部突破の歴史的ベストセラー》と書いてある。人間関係に関する本だが、いつの時代も人間関係に悩む人が多いのだろう。ギクシャクした時代が続く限り、これからも売れ続けていくのは間違いなさそうだ。
 その本を棚に戻して小説のコーナーへ移動すると、多くの本が平積みされており、直木賞受賞作、芥川賞受賞作、本屋大賞受賞作などに交じってシリーズ物も数多く並んでいた。中には累計150万部突破と帯に書かれたものもある。知らない作家だったが、結構売れているんだなと感心した。本が売れなくなったということがよく言われるが、平日にもかかわらずお客さんは多いし、店頭には新刊本が溢れているし、出版不況という感じはまったくしない。でも、活字離れが続いているのは事実だろうから、そのあたりのことは先見さんに訊いてみようと思いながら店をあとにした。