1週間後、先見さんの奥さんの体調は数日で戻ったとの連絡があった。しかし、念のためしばらく静養させたいので、9月に入ってからもう一度電話すると言われた。猛暑が続いているのでくれぐれもご自愛くださいと伝えて電話を切った。

 夏休みが始まってからは週に1回のリモート講義もなくなり、論文読破と音楽鑑賞とニュース視聴だけの日々が続いている。変化のない毎日に飽き飽きしている上に、先見邸訪問が延期になり、完全にやる気が失せてしまった。論文を読む気にもならないのでテレビをつけると、相変わらず新型コロナウイルスのニュースばかりだった。その猛威は衰えるどころか増していた。

 8月10日には世界の累積感染者数が2,000万人を超え、死者数は70万人を超えた。当然のごとく外出制限が強化され、その煽りを受けて世界中で教育が中断されていた。そのことで2,400万人の子供や若者に影響が出ていて、今後に深刻な影響を及ぼすとネットニュースが伝えていた。格差解消のためには教育が不可欠だが、学校に通えない状況が続くと将来に渡って格差拡大が続いていくのだ。それは既に現実のものとなっており、一部の裕福な子供がリモートで教育を受けている半面、それ以外の子供たちはその機会さえない上に親の収入減によって学校へ行くのを諦めざるを得なくなっている。
 世界は益々二極化している。富める者と富まざる者に。いや、富める者と貧しき者に。教育の場に身を置きながら傍観せざるを得ない無力さに歯がゆい思いを抱いたが、如何ともしがたかった。新型コロナの猛威が収まるのを願うことしかできない。

 がん検診を受ける人が大幅に減っているというニュースにも心を痛めた。前年の同じ時期と比べて90パーセント減だというのだ。新型コロナの影響で検診そのものが中止になっている上に、病院に行くのを躊躇う人が増えているのも原因なのだという。受診が遅れると早期発見ができなくなり、進行した状態で見つかることになるので、治療や予後に影響することになる。

 死亡原因の1位であるがんへの対応が遅れることになると……、

 心の中に冷たい風が吹いた。

 それにしても暑い! 

 うだるようだ。17日は朝から異常な暑さだった。冷房のかけ過ぎは体に悪いと思って弱風にしているせいか、息苦しく感じるほどだった。
 そんな中、団扇(うちわ)で扇ぎながらテレビを見ていると、国内最高気温という見出しが瞳を突き刺した。静岡県の浜松市で41.1度を記録したのだという。その他にも40度に迫る地域が複数赤い文字で表示されており、それを見ただけで汗が噴き出しそうになった。今年も異常気象だ。地球環境はどんどん悪化している。終末時計がまた進んだように感じると、うだるような暑さの中、またも心の中に冷たい風が吹いた。

        *

 その日の夕方のテレビではGDPに関するニュースが大々的に報じられた。マイナス27.8パーセントで、リーマンショック時を10パーセントも超える下落幅なのだという。1980年以降で最大の落ち込みだと、解説者が深刻な表情で語った。業種別の影響にも言及していたが、飲食業や観光業に大きな影響が出ていると強調していた。特に観光業は酷いらしい。外国人観光客が途絶えた上に、日本人も行動自粛しているから人の移動が止まっているのだ。GO TOトラベルによって少しは上向いてきたかもしれないが、観光業にお金を落とす人が激減している状態を脱するまでには至っていない。だから、ホテルや旅館などの宿泊施設、そこに納入する業者、そこに人を運ぶ交通各社、どこも大きな痛手を被っている。
 しかし、それは日本だけの問題ではない。世界の観光産業の損失は34兆円に達しており、これはリーマンショック時の3倍以上という。といって、人の移動を自由にすれば感染は拡大する。新型コロナが沈静化するまで出口は見えない。世界中にブリザードが吹き荒れているように感じた。

 生命保険の解約が急増しているというニュースにも心が痛んだ。中小企業の経営者などが解約しているという。手元資金の確保が原因らしい。資金繰りの悪化に備えているのだろう。〈背水の陣〉という言葉が耳の奥でこだました。

 別のニュースにも心が凍った。家賃が払えない人が急増しているという。滞納や解約の相談を受けた不動産業者が大幅に増えているらしく、家賃の保証会社が倒産するケースも出ているという。仕事を失った人や賃金を引き下げられた人、ボーナスがゼロになった人など、生活を維持していくのが難しい人が増えているのだ。
 先行き不安は確実に広がっている。気持ちの悪い寝汗をかいている人も多いだろう。その汗は凍ってしまっているかもしれない。そう思うと、冷ややかで不快な汗が背中から噴き出してくるような気がした。

        *

 予期していなかったニュースが飛び込んできたのが28日だった。

『安倍首相が辞任の意向』

 それが報道された瞬間、東京株式市場は急落し、600円を超える下げ幅を記録した。それは日本中に激震が走った瞬間だった。安倍一強と言われ、首相として在任最長記録を更新したばかりで、次の総裁選挙まであと1年残っている中での辞任だった。
 誰もが驚き、首を捻った。しかしそこには理由があった。持病の悪化という理由が。難病に指定されている潰瘍性大腸炎が再発したらしいのだ。新薬が効いて健康を維持していると聞いていたが、この新型コロナ対応の心身への負担は想像を超えていたのかもしれない。記者会見時の表情には無念が滲み出ていた。

 日本はどうなってしまうのだろう? 

 真っ先に浮かんだのは日本の行く末だった。次期首相候補者が取りざたされていたが、どの候補者が相応しいのかまったくわからなかった。
 人々の命と健康を守ってくれるのは誰なのか? 
 新型コロナ対策を的確に進めてくれるのは誰なのか? 
 日本経済を立て直せるのは誰なのか? 
 世界のリーダーと伍していけるのは誰なのか? 
 ニュースを見ていても何もわからなかった。
 しかし、誰がなるのか、というのはとても大事なことで、今回の新型コロナはリーダーの重要性を浮き彫りにした。マスクもしないリーダーや、ただの風邪だと(うそぶ)くリーダーが統治する国は感染が拡大し死者は増え続けた。なってはいけない人がリーダーになった国は混乱を極めている。選んではいけない人をリーダーに選んだ国民は不幸への片道切符を買ったのも同然の状態に追い込まれている。今こそ1票の重要性を再認識しなければならない。日本の首相を直接選ぶことはできないが、投票する権利の重要性について改めて考えさせられた。

 わたしたちの命と健康と将来を守ってくれるのは誰なのか? 

 すべての国民が真剣に考えなければならない。それは、自らの命と健康と将来を守ることだからだ。