「乗りたい車がない」

 それだけ言って蒲鉾に箸を伸ばしたが、それを口に入れる前に母が割り込んだ。

「あなたが生まれる前まではホンダの車に乗っていたのよ。確か……」

「プレリュード」

 すぐに父が取り戻した。しかし、母も負けていなかった。

「カッコ良くてね、すれ違う車がみんなわたしたちのことを見ていたのよ。デートカーって呼ばれていて、若い男女の憧れの車だったの」

 と言われてもピンとこなかった。ホンダと言えばN-BOXやN-WGNが有名で、もちろんフィットやフリードなども知ってはいたが、どちらかと言えば軽自動車のイメージが強かった。

「あのままいってくれればよかったんだけどな。カッコ良さよりも実用性を追求し始めたから興味がなくなった」

 父が苦々しそうな表情でその後のことを語り始めた。『トールボーイ』と呼ばれた『シティ』という車が発端だったという。『マンマキシマム・メカミニマム』という発想で作られた車で、人間のための空間を最大にすることを優先するデザインだったという。それをカッコいいという人もいたらしいが、父にとっては幻滅でしかなかったようだ。二輪の国際レースを完全制覇し、F1でも圧勝を続けたホンダのイメージとはかけ離れていたと嘆いた。

「世界中の若者が憧れるメーカーだったのにな」

 残念だというようにゆらゆらと首を振った。

「それでBMWに乗り換えたの?」

 父は僅かに頷いた。『駆け抜ける喜び』という哲学を基に究極のドライビングマシンを追求した姿勢が確固たるブランドイメージを作り上げていて、それに共感したのだという。でも、それだけではなく、『スポーツセダン』というカテゴリーを創造し、デザインを洗練させていったことにも魅力を感じたのだそうだ。

「しかし、本来ならホンダがやるべきことだった。BMWにやられてしまうとは思わなかった」

 なんのために巨額の費用をF1に注ぎ込んだのか、と顔を曇らせて、「BMWのブランドポリシーを見習って欲しかった」と嘆いた。それは、『すべきでないことは絶対にやらない』というものなのだという。つまり、BMWのブランドイメージを壊すようなことは一切しないと内外に向かって宣言しているのだ。

「『何をすべきか』と考える人は多いが、『何をすべきでないか』と発想する人は稀なんだ。残念なことに前者がホンダで後者がBMWだった」

 自らが作り上げたスポーツセダンというカッコいいイメージを壊すような車は一切開発しなかったことがBMWの成功の秘訣だと言い切った。そして、「世界が憧れるホンダという稀有(けう)なイメージを具現化できる経営者がいればまったく違った結果になったはずなんだが」と残念そうに首を振った。

「本田宗一郎さんという凄い創業者がいたのにそれができなかったの?」

「その頃にはもう社長を辞めていた」

 創業以来共に歩んできた藤沢武夫副社長と共に身を引いたのは1973年のことで、その潔さに世間から絶賛を浴びたらしいが、その反動は大きく、経営スタイルは大きく変わっていったのだという。

「本田さんはカッコ良さに拘っていたから、もし彼がずっと社長だったら実用一点張りの車なんか出さなかったはずだ」

 その時、この前読んだ本の中で笑っている本田さんの顔が思い浮かんできた。

「もし生きていたらN-BOXのことをどう評価したと思う?」

「さあね。まあ、最初に造ったのが軽自動車だったし、その時の設計思想がエンジンルームなどの機構スペースを最小限にして車のスペース効率を高める『ユーティリティー・ミニマム』だったから今の設計思想に文句はないと思うが、デザインに対してはどうかな? 流線型のレーシングカーが大好きだったから口を挟みたくなったかもしれないな。でも、第一線を引いたあとは経営に口を出さなかったみたいだから、気に入らなかったとしても何も言わずにニコニコしていたのかもしれない。自分の息子を会社に入れなかったほどの人だから、後継者に会社を任せた以上は口を挟まなかったんだろうね。ただ、誤解されないように言っておくが、N-BOXは決して悪い車ではない。というより、これだけ売れているのだから満足度が高い車のはずだ。でもね」

 そこで声を止めて残念そうに首を振った。

「お父さんにとっては興味の対象から外れているということね」

 心情を代弁したつもりだったが、父は反応せず、予期しないことを口にした。

「でも、飛行機には大いに期待している」

 HONDA JETに無限の可能性を感じているのだという。

「夢が叶ったんだから感慨深いよ」

 本田さんが10歳だった頃、浜松の練兵場でアメリカ人飛行家がアクロバット飛行を披露したのだという。それを見た本田さんは、いつか自分も飛行機を作りたいと思ったそうだ。それは生涯を貫くような熱心な願いであり、熱烈な望みであったという。そのこともあって、自動車の製造に乗り出して間もない昭和39年には『ホンダエアポート』という会社を設立して、小さな飛行場を造ったという。

「へ~、そうなんだ」

 その頃の本田さんを想像していると、父がいきなり立ち上がって、部屋を出て行った。すぐに戻ってきたが、右手にはパンフレットのようなものが持たれており、それをテーブルに置いてわたしの方に動かすと、鮮やかな機体が目に飛び込んできた。ホンダジェットだった。

「カッコいいだろ」

 自慢げな声が耳に届いた。確かにカッコ良かった。流線形に赤と白のツートンカラー。主翼の先端がほぼ直角に上を向いてキリッとしている。それに何より翼の上にエンジンが乗っている独特のフォルムに目を奪われた。

「誰の真似でもない唯一無二の飛行機、それがホンダジェットだ。『どうだ!』っていう感じだろ」

 その通りだと思って頷くと、牟礼内教授から聞いた盛田昭夫さんの言葉が甦ってきた。

『消費者がどんな製品を望んでいるかを調査して、それに合わせて製品を作るのではなく、新しい製品を作ることによって消費者をリードしていかなければならない。消費者に利便性や使い方などを教えながら市場を作っていかなければならないのだ。もし市場調査を重視していれば、ウォークマンは生まれなかった』

 ホンダジェットは正にソニーにおけるウォークマンだと思った。それを父に伝えると、我が意を得たり、というように頷いた。

「本田さんはよく言ってたそうだ。『需要がそこにあるのではない。われわれのアイディアがそこに需要を作り出すのだ』と」

 なるほどと思った。市場充足型の開発ではなく、市場創造型の開発こそが革新的な新製品を生み出す源に違いなかった。ソニーの創業者とホンダの創業者が同じ視点で経営していたからこそ次々にアッと驚くような新製品を生み出せたのだ。

「ホンダはこの小型飛行機だけで終わらせることはないと思う。次は大型のビジネスジェットに挑戦するだろうし、電動の垂直離着陸機(eVTOL)も開発している。宇宙領域への挑戦も表明しているからロケットの開発もしているはずだ」

 自動車会社という観点だけでホンダを見ていると本質を見失うという。

「10年後にはまったく違う異次元の価値を持つ企業になっているかもしれないな」

 そこで何故か不敵な笑みが浮かんで確信ありげな表情になったが、その顔を見つめる母の目が愛情あふれているように感じた。2人が夫婦である理由が少しわかったような気がした。