それからまた元の小径に戻って、西の方に歩いていくと、すぐに大きな通りに出た。車が結構走っていて、バイクや自転車もかなり多かった。右に行くと吉祥寺で、まっすぐ行くと三鷹駅と説明してくれたので、ここで別れるのかな、と思ったら、教授は右に曲がらずまっすぐ歩きだした。三鷹駅までご一緒出来るようだ。追いかけるように歩を進めて教授の隣に並ぶと、爽やかな風が頬を撫でた。

「気持ちいいわね」

 横顔に笑みが浮かんでいた。ここは『風の散歩道』と名づけられた通りなのだという。言い得て妙だ。本当に気持ちのいい風が吹いている。

 少し歩くと、左側に古い洋館のようなものが見えた。『山本有三(ゆうぞう)記念館』で、彼の代表作には小説『路傍(ろぼう)の石』や戯曲『米百俵』があるのだという。しかし、2冊とも読んだことがないのでそのことを伝えると、「あなたって本当に何も読んでいないのね」と笑われてしまった。確かに小説はほとんど読んだことがなかった。わたしが好んで読むのはノンフィクションばかりと言っても言い過ぎではなかった。

「私もそうだったわ。論文や専門書ばかり読んでいたからね。でもね、それだと視野が狭くなるような気がして小説を読み始めたの。教授になって少し経った頃だったかな」

 そして館を見つめていた目を細めて、「名作と呼ばれるものを読もうと思ってね、芥川龍之介とか、三島由紀夫とか、夏目漱石とか、川端康成とか、色々読んだの。太宰治と山本有三も同じ時期に読んだわ。ぐっと胸に沁みるものもあれば、う~ん……、という感じのものもあったけど、でも、多くの文学作品に触れて心が豊かになったような気がしたの。未知のものには触れてみるべきだと思うわ」と諭すように言った。
 それはそうかもしれないが、未読の論文やノンフィクションをほったらかしにして小説に手を出す時間はないように思えたのでそのことを正直に吐露すると、「時間は作り出すものよ。それに、新型コロナで休校になっている今はチャンスだと思うの。理詰めで考えるだけではなくて、感性を豊かにして右脳を働かすことも大事なことだと思うの。それになんと言っても作家は異質な人が多いからね」と笑ってから歩きだした。

 そこで会話が途切れて、しばらくのあいだ風に頬を撫でられながら歩いていると、右側に駅が見えてきた。そろそろお別れだなと思っていたら、教授が立ち止まって左の方を指差した。

「ここを真っすぐ行くと、信号の手前に『太宰治文学サロン』というのがあるのよ。作品の展示だけではなくて、当時の三鷹の写真とか地図なんかもあるし、ボランティアの人が色々教えてくれるから(ため)になると思うわよ。次、三鷹に来ることがあったら行ってみたらいいわ」

 ねっ、というふうに見つめてから目の前の階段を上りだした。付いていくと、上り切ったところにコンビニがあり、その先にスーパーがあった。結構、人で賑わっていた。

「最近、読んだのはね」

 突然、話題を変えて、うふっと笑った。

「ダンテの『神曲(しんきょく)』なの」

 またうふっと笑った。しかし、なぜ笑ったのかわからなかったので、「ダンテって、かなり昔の人ですよね」と返すと、なんの躊躇もなく「1265年頃にフィレンツェで生まれた人よ。イタリア最大の詩人と呼ばれているわ」と正確な答えが返ってきた。
 感心していると、「大好きな女性がいてね、ベアトリーチェって言うんだけど、片思いのままでその女性が亡くなってしまったの。嘆き悲しんだダンテは彼女に会うために架空の世界に身を投げたの。それは地獄、煉獄(れんごく)へと旅する物語になったんだけど、煉獄で巡り会った彼女に天国を案内してもらうという幸運な結末を描いたの。現世で叶わなかった想いを詩の中で遂げたのよ。かわいいと思わない」とまたまたうふっと笑った。
 わたしはどう反応していいかわからなかったので黙って聞いていたが、「これから読もうとしているのはね」とまたまたまたうふっと笑って、「百年の孤独なの。知ってる?」と覗き込むように顔を見られた。

「いえ。でも、お酒なら知っていますけど」

 同じ名前の麦焼酎があるのだ。上品なウイスキーのような味がして、入手困難になるほど人気のある焼酎だ。

「その名前の由来になった小説なの。ガルシア=マルケスというコロンビアの作家が書いたものよ。ノーベル文学賞も受賞している人なの」

 そこで、駅に通じる建物の自動ドアが開いた。
 中に入ると前方右にスタバがあり、若い女性で賑わっていた。それを左に見ながら突き当りを左に曲がると、小さな改札口が見え、〈SONY入ってる〉のSuicaをかざして中に入ると、奥の階段を下りて中央線のホームに出た。

 中央辺りで教授が立ち止まったので、わたしは向き合って目を覗き込んだ。

「何か悩んでますか?」

 突然訊いたせいか、えっ、というような顔をされたが、すぐに「バカね、なに言ってるの」と笑われた。

「でも、人間失格とか、地獄を旅する詩とか、百年の孤独とか……」

 大笑いされた。ホームにいる人が振り向くほどの大きな笑い声だった。

「それは小説の話でしょ。無理矢理、私に結び付けないでよ」

 今度は左腕をギュッと掴まれた。

「まあ、それならいいですけど……」

 痛くはなかったが左腕を擦りながら電車がホームに入ってくるのを見つめていると、電車が止まった途端、教授の声が聞こえた。

「百年の孤独を飲みながら百年の孤独を読むっておつ(・・)だと思わない?」

 えっ? もしかして、

「あなたの分は残しておくからまた遊びにいらっしゃいね」

 そう言い残して吉祥寺方面行きの中央線快速に乗り込んだ。そのすぐあとに特別快速が反対側のホームに入ってきたので乗り込むと、対面のドアのところに立つマスク姿の教授が手を振っていた。振り返すと、教授が何か言ったようだったが、その声は耳に届かなかった。でも、わかった。わたしは頭を下げながら心の中で同じ言葉を丁寧に返した。

「ありがとうございました」