井の頭公園駅に戻って、そこからほぼ南へ上っていくと、道の両側に立派な家々が見えてきた。道なりに行くと玉川上水にぶつかるらしいが、教授の家はそれより手前の右側にあるというので、一軒一軒表札を見ながら確認して歩いた。
5分ほどで見つかった。
MUREUCHI。
しっかりとした書体で存在感を表していた。
インターホンを押して返事を待っていると、「あら、いらっしゃい」とハスキーな声が聞こえ、ほどなくして玄関の扉が開いた。相変わらず60間近とは思えない若々しい顔で、久し振りに見る生顔だった。それでもマスクをしていないので変な感じがしたが、それを察したのか、すぐに右手に持っていたものを顔に付けた。
「これ、いいでしょ」
透明のフェイスシールドだった。
「どうしたのですか?」
「いいでしょう。ネットで見つけたから買っちゃったの」
ペロッと出した舌がシールド越しに見えたと思ったら、「あなたの分もあるわよ」と後ろに隠していた左手を前に出した。
「ありがとうございます」
受け取ってマスクの上からそれを付けてシールド越しに見ると、なんか違う世界に来たような感じになったが、「さあ、入って」と促されて、現実に戻った。
リビングに通されたので、プチケーキセットを差し出すと、「ありがとう」と受け取ってくれたが、何故か悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「お茶もいいけど、お酒にしない?」
誘うような目で見つめられた。
「お昼からですか?」
言ってはみたものの、すぐに口角が上がってしまった。否定する理由なんてあるはずがなかった。おいしいお酒が出てくるに違いないのだ。だからすぐに頷くと、「決まりね」とウインクのようなものを投げて隣のキッチンへ向かい、ボトルとグラスを2つ持って戻ってきた。
「これ、おいしいのよ」
フランスの白ワインだという。教授は慣れた手つきでキャップを外してコルクを抜いて、大きくてふくよかな丸みを帯びたモンラッシェ型のグラスに注いだ。
「このリースリングはちょっと違うわよ。それに、こうやってすると飲みやすいしね」
フェイスシールドの先っぽを持ち上げて、グラスを口に当てて優雅に飲み込むと、「ん~、最高」と満面笑みになった。
「では、いただきます」
たまらなくなってマスクを外してから同じように先っぽを持ち上げて一口飲むと、半端なかった。辛口なのにまろやかで、すっきりしているのに複雑な味が感じられて、それに上品な甘味があとから追いかけてくる。
「トレビアン♪」
思わず歌うような声が口を衝いた。
「かなりいけるでしょ」
笑みが返ってきたのでクイックモーションで二度頷くと、「アルザスの白は最高なのよ」と自慢げな表情で見つめられた。しかし、アルザスというのがわからなかった。だからすぐに地図を頭に思い浮かべてフランスの東西南北すべてを探し回ったが、その場所に辿り着くことはなかった。
「コルマールって知ってる?」
えっ? まだアルザスを探しているんですけど、と言うわけにもいかないので首を振ると、「リクヴィルは?」とまた新たな地名が飛び出してきた。
これもまったく聞いたことがなかった。すぐに首を振ると、「では、ストラスブールは?」と更に追い打ちをかけられた。もうお手上げだった。大きく首を振るしかなかった。すると、「知らないか~」とガッカリしたような声が漏れたが、思い直したように表情を戻して、「ちょっと待っててね」と立ち上がって、部屋を出て行った。
すぐに戻ってきた教授の手には本があった。表紙に『アルザスワイン街道』と大きく書かれている。それをテーブルに置いた教授が表紙をめくると、折り畳まれた地図が見えた。
「ここがコルマール、ここがリクヴィル、そしてここがストラスブール」
次々に指差す先に横文字の地名とワイン畑を示す色付けがあった。それで地名もワイン街道というのもわかったが、それがどの位置にあるのかわからなかった。するとその疑問が伝わったのか、ページをめくって新たな地図を広げた。
「アルザスはここよ」
指差したところを見ると、フランスとドイツが接する地域が濃い緑で塗られていた。ライン川を境にして西がフランスで東がドイツだったが、そこで教授の蘊蓄が始まった。



