「いらっしゃい」
「お待ちしておりました」

 マスク姿の2人が揃って玄関で迎えてくれた。

「お言葉に甘えまして」

 同じくマスク姿のわたしが言い終わらないうちに、「まあまあ」と言いながら、早くスリッパを履くように促された。

「先日は遅くまでお邪魔してしまって」

「まあまあ」

 また言い終わらないうちに、椅子に掛けるように促された。座ると、「ちょっと待っててくださいね」と言って、夫婦揃って台所へ向かった。

「ジャジャ~ン!」

 (くち)ファンファーレと共に先見さんがビールの小瓶を数本運んできた。そして栓抜きで開けようとするので、ちょっと待ってもらって、包装したDVDをテーブルに置いた。
 お土産だと告げると、「気を使わせてすみません」と頭を下げたが、すぐに「開けてもいいですか」とリボンを解いて、包装紙を丁寧に剥がして、DVDを取り出した。すると、たちまち顔が綻び、二つを手に持って台所へすっ飛んで行った。

「まあ~素敵」

 奥さんの声が聞こえたと思ったら、2人が寄り添うようにして戻ってきた。

「ありがとうございます。チェコってまだ行ったことがないのでとっても嬉しいです。ねえ、あなた」

 笑みを浮かべて頷いた先見さんはDVDをセットしてから、3つのグラスにビールを注いだ。

「お互い今日も平熱で体調に問題がないようなので最初からマスクを外して楽しみませんか。但し、唾が飛ばないように話す時は手で口元を塞ぐようにしたらどうかと思いますが、いかがでしょう」

 顔を覗き込むようにしたので、即座に頷いた。すると、先見さんが左手にビールグラスを持って右手で口元を覆ってから「乾杯!」と囁くように発声した。
 応えて無言でグラスを掲げてからググッと飲み干すと、なんとも言えずおいしかった。ビールの味ももちろんだが、それより何よりお2人と飲めること自体が幸せだった。
 するとそれが顔に出たのか、「いけるでしょう。うまいでしょう」とニコニコ顔になった先見さんがDVDプレーヤーのリモコンを持って、再生ボタンを押した。

 映像が流れてきた。『ドナウの調べ』だった。近代的でスタイリッシュな船が浮かんでいた。ドナウ川クルーズの専用船で、上流から中流にかけて10日間で巡る旅に乗客たちはワクワクしているような表情を浮かべていた。
 この旅はドイツを出発して、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、セルビアに至るまでの5か国の風景、橋、歴史的建造物などを川から楽しむだけでなく、上陸して料理や買い物なども楽しめるのだから期待の大きさがわかろうというものだ。
 見ると、先見さんも奥さんも早速、映像に惹き込まれているようで、気に入ってくれたことに内心ほっとした。

 映像のバックには『美しく青きドナウ』の調べが流れていた。流れるようなワルツに乗って奥さんの上半身が左右に動き、美しい景色が移ろうたびにため息のようなものが漏れた。先見さんはタクトを振るように両手の人差し指を胸の前で動かしている。
 2人の姿を見ていると、どんどん幸せな気持ちになってきた。いい人たちだな~、と思うと、ほっこりしてきた。

「次のビールを持ってきますね」

 そのまま見ててください、と言いながら先見さんが台所へ向かったが、戻ってきた途端、質問が飛んできた。

「チェコが国民一人当たりのビール消費量世界一だということを知ってましたか?」

「いえ」

 即座に首を大きく横に振ると、ビールを注ぎながら蘊蓄が始まった。

「チェコは20年以上も世界一をキープしているビール大国なんですよ」

「へ~、そうなんですね。1位はドイツとばかり思っていました」

「そうですよね。ドイツのイメージが強いですよね。でも、ドイツは3位なんです。2位はオーストリア。因みに日本は50位なんですよ」

「えっ、そうなんですか? 意外に低いですね」

 ちょっと驚いていると、先見さんではなく奥さんが口を開いた。       

「『ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー』なんていう宣伝が昔あったから、ドイツと日本は肩を並べているような気になった方も多いかもしれないけど、全然違うのよね」

 最年長の奥さんが昔を思い出すような眼差しで先見さんを見つめると、「まあね。あの宣伝は本場並みに美味しくなったというアピールと、北緯45度のビール産地を掛け合わせたものだったから消費量とは関係ないんだけどね。でも、インパクトがあったよね」と頷きを返した。
 しかし、わたしはその宣伝のことを知らないので、なんの話をしているのかまったくわからなかった。そのことに気づいたのかどうかわからないが、その話が続くことはなく、「ピルスナー発祥の地だから旨さが違うでしょう」と話題が変わった。でも、これもわからなかった。ラガーは知っているが、ピルスナーという言葉は聞いたことがなかった。なのでちょっと首を傾けていると、またしても先見さんが疑問を解くように説明を始めた。

「ピルスナーって余り馴染みのない言葉ですよね。でも、製法としてはよくご存じのラガービールと一緒なんですよ。下面発酵(かめんはっこう)といってドイツで発明された製造方法なんです。ただ、ドイツとは水の硬度が違っているので、風味が違うチェコのピルスナービールが生まれたんです。因みにピルスナーとは、ピルゼンという町で醸造が始まったことに由来しているようです」

 そうなんだ。ということは、スーパードライや一番搾りやザ・プレミアム・モルツなんかと造り方は一緒なんだ。

 ふ~ん、というように日本の代表的なビールを思い浮かべていると、奥さんが席を立った。それを見て、先見さんがDVDを止めた。