深く息を吸い込む。
 ヒュウという嫌な音はしない。
 母さんが心配したけど、学校には行けそうだ。

 夜、こっそり台所に下りて、おにぎりを作ろうとしているところを、母さんに発見されて、焦る。
「⋯⋯彼女に作ってあげてるの? 最近は男も女もないもんね」と言われて、驚いて訂正する。
「彼女なんかいないよ、友達のだよ」と。

 母さんが変な顔をして、僕を見た。僕はなんだか、まずい雰囲気に変わってきたことを察して、目を逸らした。
 咳が出る、こんな時に限って。

「男の子が、男の子にお弁当の用意してるわけ?」
「⋯⋯まぁ、そう」
「おかしくない?」
 僕は母さんの目を見られないまま、簡単に事情を話した。

 凪の家庭が片親なこと。毎日、買い弁だったこと。バイトばかりで、いつもひとりでがんばっていることなんかを、かいつまんで。

 母さんは、ふぅと小さくため息をついた。
「別にいいけど。それこそ、その子、彼女でも作った方が良くない? アンタが毎日、がんばらなくたって。自立しようと思うのは、悪くないけどね」

 僕は俯いていた。
 何も言い返せなかった。
 おにぎりを作るのは、僕が凪に対する好意で始めたことで、母さんが言うように「彼女でも作ったら」っていう問題じゃない。凪のせいじゃない。

「もう、わかったわよ! 今日は母さんがその子の分も作るから、アンタは寝てなさい。まだ咳が出てるじゃない。お弁当じゃなくて?おにぎり、2個ずつでいいんでしょう?」
「うん」

 じゃあお願い、と言って、部屋に戻る。
 階段の途中で、咳き込む。
 こんなのは珍しくて、最近ずいぶん良くなったのに、母さんの目にはそう映らないようだ。

 ハウスダストが飛ばないように、埃を丹念に払った家の中。
 ダニ対策に買った、特別フィルターの細かい掃除機。
 ネコはダメ、ハムスターもダメ。
 そういう環境に守られて育った。

 咳は治まってきたのに、なんだか寝苦しい。
 母さんに言われたことを考えると、涙が滲んだ。
 違うんだ、凪に必要なのはおにぎりだけじゃなくて――。

 なんだろう? 凪に必要なのは。
 今からでもメッセージで訊こうかと思ったけど、時計は0時を回っていた。
 凪はバイトから帰ってきて、もう寝てる頃だろうか?

 急に休んだりして、悪いこと、しちゃったな。
 やっぱり、はっきり伝えておけばよかった。
 雨が降ると、体調を崩すことが多いって。
 昨日も喉がヒュウと鳴っていた。予測できることだったのに。

 母さんは言外に、おにぎりはもう止めるよう、圧をかけてきた。
 潮時なのかな。せっかく凪と仲良くなれたのに⋯⋯。ずっと見ていた凪に近づけたと思ったのに⋯⋯。

「こういうことだよ」と言った凪の、湿った背中をふと思い出して、タオルケットにくるまる。
 いや、そういう意味じゃなくて。
 僕を頼ってもいいって、そう言ったから。もたれかかってもいいって言ったから。

 耳元で囁かれた「こういうことだよ」という言葉の湿度。それを思い出すと、胸がズキズキ痛んだ。
 どうして、心に何かが深く刺さったような気がするんだろう?

 こういうことって、どんなこと?
 わからないけど、凪は悲しくて、僕に何かを委ねたかったんだと思う。
 それが熱い身体の重みとなった。ただそれだけのこと。

 ケホッと軽く咳が出る。
 まだ微熱っぽい。気管支が腫れてるから。
 火照った身体を冷房でさまして、僕はいつの間にか眠りについた。

 ◇

「咳で休むの、久しぶりじゃない? マスク姿も久しぶり」
 登校途中で合流した伊郷がそう言った。大雑把そうに見えて、伊郷はわりと細かい。
 僕の体調の異変に先に気付くのは、広田じゃなくて、いつも伊郷だ。

「うん、前の日からちょっとヒューヒュー言ってたんだよね」
「もっと気を付けろよ。そういう時は早く寝てさ」
「心配かけて悪かったよ。今度からちゃんとそうするよ」

 伊郷は何かブツブツ、まだ言ってたけど、放っておくことにした。予防は難しいんだって言っても、多分、理解してくれないに違いない。

「アイツも心配してたぞ」
「アイツ?」
「藤沢。俺に声かけてきたくらい」

 ドキッとして、身体のどこかがピョンとなる。
 凪が、僕を心配して、広田にわざわざ訊いてきたなんて、信じられない。
 いつもの凪なら、考えられない。

「⋯⋯ちゃんと、心配いらないって言ってくれた?」
「ああ、言ったよ。高井は、そう言ってほしいんじゃないかと思って」

 胸を撫で下ろす。
 凪が、必要以上に心配していないか、それが気がかりだった。
 僕の持病みたいなものだって、心配ないんだって、わかってもらえたならそれでいい。

「でもさ、言っておいたから」
「え?」
「お前のこと、あんまり悩ませるなって」
「悩むのが普通だって言ったじゃん!」
「それとこれとは別。あんまり思い詰めるなよ」

 そう言われると、カバンの中のおにぎりが、ずっしりとした重さを持って感じられた。
 母さんの作ったおにぎりが、保冷剤と一緒にはいってる。

 僕は、みんなに心配かけるようなことをしてる?
 自覚がない。
 自覚がないのが、一番悪いことのように思える。

 でも。
 だって。
 言い訳はしようと思えばいくらでもある。
 だって、凪が全部、預けてくれたから。その気持ちに応えたい。

 教室に着くと、凪はまだ来ていなくて、欠席の理由を話すはずだったのに、時間ばかりが過ぎる。
 伊郷の、昨日のソシャゲのガチャで爆死した話を、面白おかしく聞かされる。予鈴が鳴る寸前、凪が教室に滑り込んできた。

 あ、と席を立ちそうになる。
 凪もこっちを見る。
 僕が来てることに安心したようで、軽く微笑むと窓際の席に座った。

 ここから、あの席までは遠い。ちょっと声をかけるというわけにはいかない。
 SHRが始まって、担任が、進路希望調査票を出してない人の話をする。
 僕は早々に出してしまった。凪はもう出したんだろうか?

 窓際の、凪を見つめる。
 雨上がりの空は輝いて、彼を眩しく照らす。
 こちらからは表情がよく見えない。
 頬杖をついた姿勢で、また海の方向を見てる。

 ――今日こそ見えるんだろうか?
 水蒸気がゆらゆらして、水平線のように見える。あれは、実は本当に水平線で。
 そうだとしたら、凪はどうするんだろう? ただ単純に喜ぶだけ? 
 きっと違う。何かがそこにあるはずだ。

 それが見えた時、凪がそこに走っていってしまう気がして、僕は彼の背中をじっと見た。
 どこにも行ってほしくなかった。
 手の届くところにいて、その体温と質量を、しっかり感じていたかった。

 凪が振り返る。僕にアイコンタクトを送る。
 軽く手を上げる。
 影になってる彼の表情が、はっきり見えたような気がした。子供のように微笑む、その表情が。

 ◇

「梁、行こう」
 席に着いたままだった僕の手を引いて、凪は僕を立たせた。
 僕はカバンからおにぎりを出した。
 気まずい。心の中に重石が沈んだようだ。

 ふたりで購買に行って、自販機の前に並ぶ。
 凪が「待ってろよ」と言って、僕を列から外して、イチゴオレとバナナオレを持って戻ってくる。
 制服のポケットからお金を出そうとすると「今日はいいよ」と言った。更にきまずくなる。

 屋上にはまだ所々に水溜まりが残っていて、今日はいつもの日陰には座れず、少しだけ傾いた秋空の下でお昼を取ることになる。
「お尻、濡らすなよ」と凪は笑った。

「昨日は大丈夫だった?」
「咳? いつものことだから」
「前からそんなに休んでた?」
「いや、最近はそんなに。昨日がたまたま良くなくて」
 真っ白いマスクを外しながら、僕は答えた。

 凪は、マスクを痛々しそうに見て、イチゴオレを僕に渡した。
「俺さ、昨日、気が向いて、それ飲んでみたんだ」
「凪が?」
「そう。そしたらめちゃ甘くて。バナナオレもフルーツオレも大丈夫なのに、なんでイチゴオレの甘さって特別なんだろうか?」

 笑顔が痛い。
 どうしてか、凪の笑顔から放たれた矢は僕の胸を射抜いて、傷痕がじくじく痛んだ。

「あれ? 今日のおにぎり、すごくキレイな三角じゃない? 腕を上げた?」
 そんなわけないじゃん、と思いつつ、何も言えない。誤魔化すことはできないし、嘘はつけない。
 本当のことを言うしかない。

「え? お母さんが作ってくれたの!?」
「⋯⋯そう」
「うわぁ、自分の母親にも作ってもらわないのに、友達の母親に作ってもらうなんて、バチ当たりだ」
「バチ当たりではないけどさ」

 おにぎりはわかめご飯と、夕食の残りの唐揚げが入ったおにぎりだった。
 そこに、梅干しはない。
 海苔の巻き方も、僕とは違った。

 僕が小さい頃から食べてきた、キレイな三角形のおにぎりがそこにはあった。
 それを凪が両手で大事そうに持っているのを、横目で見ている。
 凪が、一口齧る。

「それで、母さんに凪に作ってることがバレて。友達のおにぎりを作るなんて――」
「うん、俺もおかしいと思う。こんなのウィンウィンじゃないと思う。せめて、お前が作る日と、俺が作る日がないと。梁だけが毎日作るなんて不公平だ。何も返せるわけじゃないのに」

「そんなことが言いたいわけじゃなくて!」
「いいよ、終わりにしよう。甘えちゃったんだよ、俺。梁がやさしいからうれしくて」
「そんなこと言ってないじゃん」

 凪は強く僕の手を引くと、僕の頭を自分の肩に乗せた。
「⋯⋯甘えちゃうじゃん、俺。どんどん、勘違いしちゃう。梁が俺に良くしてくれるのは、俺が特別だからかもって」

 身体中の血が逆流して、世界がいっぺんに色を放つ。
 まるで、今まで生きてきたどの瞬間より、今が一番美しいかのように、鮮やかに世界が色づく。
 気が動転して、目眩を覚える。

「ごめん、そういうのはよく、わかんないかも」
 凪の胸を、僕の細い腕でぐっと押す。その分、凪が遠くなる。
『その子が彼女でも作ったら』って言葉が、頭の中をぐるぐる回る。

 最低だよ、母さん。
 このキレイなおにぎりが、僕たちの間を引き裂くなんて、思ってもみなかった。

「⋯⋯そうだね。広田くんにも釘、刺されちゃったし。梁が困るようなことはもうしないって、決めたんだ」
「釘? なんのこと?」
「だから、梁が悩むようなことはもう増やさないって。俺たち、離れた方がいいのかも」

 頭がぐるぐるする。思考が追いつかない。
 どうしてそんなことになるんだよ。
 凪を大切に思うことが、そんなに問題?
 僕はただ、凪のそばにいて、凪の笑顔を見守っていたいだけなのに――。

「梁!」
 膝の上から、母さんの作った完璧なおにぎりが、転げ落ちた。僕は不意に立ち上がると、屋上から出る重い扉の前に走った。

「梁!」
 再び凪が僕を呼ぶ。
 僕の名を呼びながら、こっちに向かって走ってくる。僕はドアノブに手をかけた。金属製の扉は重い。

 僕がドアノブに手をかけたその上に、凪の手が重なる。おい、と凪は半ば怒鳴るように声をかけてきた。
 何かが変わってしまう前に、ここを出なくちゃ。
 僕たちの何かが変わってしまう前に。
 僕は、今のままで十分だったのに――。

「梁⋯⋯走らせんなよ」
 凪は肩で息をしていた。僕はその上下する肩を見ていた。
 身体を折った姿勢だった凪は、ガッと身体を起こした。その目は、今まで見たことのないものだった。

「なんで逃げんだよ、逃げたって何も変わらないだろう?」
「僕は、何も変わってほしくない!」
「本当に? 本当にそう思ってる?」

 詰め寄られても言われてる言葉がわからない。凪のそばにいたい、ただそれだけだ。
 それだけのために、わざわざ毎日、火傷しそうな思いをしながらおにぎりを作って。
 それで。

「もう誤魔化せない。俺はお前が好きだ。気付いたんだ、この気持ちの名前に。もし、勘違いじゃなかったら、お前だってそうなんじゃないの?」
「⋯⋯僕は」

 足元の地面がやわらかくなった気がした。
 逆光で、凪の顔がよく見えない。
 表情が見えないまま、凪の顔が、スローモーションで近付いてきて、それから――。