窓ガラスに吹き付ける雨が、バラバラッと重い音を立てる。風が、雨を叩きつける。
 窓の外はどんより空気が澱んで、教室の空気も濁っているようだ。

 チラッといつものように、気付かれないように廊下側の席を見ても、そこには探してる姿は見えない。
 梁は今日は欠席だ。
 担任が声を張り上げる。提出物の締切が今日だと。

 そんなのどうでもいい。
 俺は机に突っ伏した。
 進路のことなんかより、梁のことが心配だった。

 SHRが終わって、みんな移動教室の準備を始める。ガタガタと机の揺れる音があちこちで響く。
 俺も道具を持って、移動しようとする広田を捕まえた。

「ごめん。梁、風邪ひどいのかな。広田、何か知ってる?」
 誠実そうな広田は、ゆっくりその話をしてくれた。

「高井、子供の頃、喘息が酷くて、こういう気圧の乱れた日は咳が止まらなくなったりするらしいよ。昨日も『もしかすると明日、ダメかも』って言ってた。胸が重いって。藤沢は何も聞かなかった?」

 軽く動揺する。梁との関係の深さを、試されてるようで。
「気圧変化に弱いって」
「うん、それだよ」

 伊郷が後ろから「もう行こう」と、気のせいでなければちょっと嫌な顔をして、そう言った。
 広田が「遅れそうだな。藤沢も一緒に行こう」と言って歩き始める。
 断る理由もなく、ついて行く。

 雨の日のリノリウムの廊下は、湿っていて滑りやすい。上履きが変な音を立てる。
 購買のおばさんたちが、開店の準備をしている。始まるのは2時間目が終わってから。中休みの間からだ。

 そうか、今日は梁のおにぎりは食べられないのか。
 今日の具はまだ考えてないと、そう言っていた。
 いつも寝る前に作ると言っていたおにぎりは、まだ冷蔵庫にはいってるんだろうか?
 それとも夜には具合が悪くて、作らなかったかも。

 バカ⋯⋯。具合が悪いならそんな日の夜に、自転車を漕いで、店に来たりしなくてよかったのに。
 俺の誘い方が、強引だったのかもしれない。

 中庭の欅の木も、風に枝を揺らしていた。
 今日は一日、雨らしい。
 梁の肺が、苦しくないことを祈る。

「⋯⋯俺の言うことじゃないけど藤沢さ、高井のこと、あんまり悩ませないでやってよ」
「え?」
「アイツ、なんかお前のことで深刻になってる。何があったのかは聞いてないけど。心当たりはある?」

 心当たり⋯⋯昨日の家の話かな、と思う。
 それで昨日もわざわざコンビニまで来てくれたのかも。

 梁はいつも俺にやさしい。やさしすぎるくらいだ。
 やさしさで、言葉に詰まる。
「ありがとう」が口から出てこない。言うべきことなのに。

「気を付けるよ。広田からも言っておいて。俺のことで悩んだりするなって」
「悩むのが普通だよって、答えておいたから、責任取ってあげてね」

 沈黙。
 雨が中庭のレンガを強かに打ちつける音だけが響く。
 梁のいない空間は、居心地が悪い。

「藤沢さぁ、有馬さんとどうなってんの?」
 思わぬところから声がかかって驚く。
 てっきり伊郷は俺を嫌いなんだとばかり。

「有馬さんて、髪の長い子だよね?」
「髪の長い子はたくさんいるだろう? ほら、髪をひとつに束ねてる」

 ああ、ぼんやりとその姿が頭に浮かぶ。
 ちょっと、背の高い子だ。クラス委員になりそうなタイプの。

「その子がどうしたの?」
「高井から何も聞いてない?」
 うん、とうなずく。伊郷は俺の方をチラッと見て「聞いてないならいいんだ」と言った。

 そこには彼らと梁の間にしかわからない、何かがあって、俺にはそれがわからない。
 絶対的に、一緒にいた時間が違う。その長さの差が俺を打ちのめす。

 時間を遡ることはできないし、仮にできたとしても、梁と同じ中学に通うこともできない。
 もっと早く、自分から声をかけるべきだったかもしれない。こんな気持ちになるくらいなら――。

 化学室が近付いて、自然、早足になる。
 ふたりは「あとで」と約束をして、教室に入っていく。
 俺には約束をする相手はいない。ずっとそうだったけど、いつもと違う気持ちになった。

 化学室のテーブル状の机の席、梁はあの辺。
 じっと見ても梁が現れるわけがない。
 思ってもみない、深いため息が出る。
 なんか調子がおかしい。どこか壊れたみたいだ。

 ◇

 久しぶりに戦場に赴く。
 戦利品はコロッケサンドとクリームパン。
 自販機の前で順番待ちして、一瞬迷って、イチゴオレを買う。バカみたいだ、と思う。

 いつも梁と上る階段をあがって、屋上への扉の前の踊り場に座る。埃がふわっと立ち上る。誰も来ない、掃除もされてない場所だ。

 梁と昼飯を一緒にするまでは、屋上に出るのは風に当たりたい日だったり、気まぐれで、バカみたいに焼けたアスファルトの上に、ひとりで出ることは少なかった。

 この汚れた狭いスペースでも、誰に見られることもなくひとりでいられたし、それで良かった。
 肝心なのは、ひとりでいられること。

 銀色に光るアルミホイルの代わりに、透明なビニル袋を開ける。
 久しぶりに、湿ったコロッケの油の匂い。梁は購買を利用しない。

 梁と一緒に食べようと思ったのは、気まぐれじゃなかった。
 まさか、なんの予告もなくお手製のおにぎりを持ってくるとは思わなかったけど、遅かれ早かれ、いつか俺たちは話をするに違いないと思っていた。

 窓の外を見ている背中に、誰かの視線。
 あんなにしょっちゅう見られてたら、見てなかったふりをされても気付かないわけがない。
 目が合ったことも何度かあった。

 長い一学期の間、席替えをしてからずっと、見られてる気がしてた。
 ふと、視線を感じる。
 俺を見てるのはいつも同じヤツで、『高井梁』という男だった。

 そう、男だ。
 男から、そんなに見つめられるなんてことはないと思う。
 自分を疑った。
 でも何度確かめても、それは同じ方向から投げられてる視線だった。

 だからあんな風に、声をかけられても、それほど不思議じゃなかった。
 いつかきっと声をかけてくる、という確信があったからだ。

 だから思い切って誘った。
 いつもは誰にも邪魔をされたくないと思う、スペースへ。

 今日はあいにくの雨で屋上へは出られないけど、広い空の下に、梁を誘った。
 梁は喜んでくれたようだった。なんだかうれしく思った。

 ずっと、家のことが気がかりで、学校にいる間も、家のことやバイトのこと、父さんのことを考えてしまって、授業に身が入らなかった。

 窓の外に海でも見えないかな、と目を凝らしても、見えるのは田んぼや家や近くの幼稚園の屋根。
 海なんか、見えそうになかった。

 つまらない。
 何がそんなにつまらないんだろう。
 そう、ここにこうして生きていることがつまらない。

 父さんのいる生活がどんなに貴重だったかと思うと、授業中でもため息が出た。
 何の心配もない生活。
 自分と、弟のためのこれからの学費もバカにならない。

 母さんは「せめて進学して」と言ってくれてるけど、大学に行っても、勉強よりアルバイトに精を出すことになりそうで、進学のことは後回しだった。
 今日、提出の進路希望調査票も真っ白だ。

 それとなく、梁がどこを志望してるのか、聞こうと思っていた。
 聞いたからと言って、どうするというわけじゃないけど、何かの目安にはなりそうな気がした。

 例えば、梁の大学に近いところから選んだり。
 そんな自分を、ちょっと気持ち悪いと思う。
 コロッケサンドの袋が、ガサッと音を立てる。蛍光灯の光を反射して。

 自覚がないわけじゃなかった。
 でも、実際に近くにいるようになってから、梁の存在はどんどん俺の中で膨れ上がって。
 離れてみるとよくわかる。梁を思うと、胸がギュッと締め付けられる。

 だから、梁が俺のことを気持ち悪く思っていても仕方ない。
 梁の方が俺に執着してるのかと思ってたのに。
 いつの間にか、手放せなくなっていた。

 コロッケサンドの袋が空になって、ピンク色の、イチゴオレに手を伸ばす。
 梁のため以外に買ったことがない。ピンクの、かわいいパッケージに溶けそうに甘いジュース。

 梁が選ぶのはいつもそれで、しあわせそうな顔をして、給水塔の下でそれを飲んだ。
「かわいい」という言葉は、いつからか梁のための言葉になった。

 かわいい――。
 だってかわいいだろう? 俺のために毎晩、寝る前におにぎりを作る姿を想像する。
 不器用な手で作る、ちょっとひしゃげた三角。
 作る時、手がちょっと熱いんだ、とそう言った。

 俺より少し小さな手。
 身長差がそうさせてるんだろうけど、あの手に手を重ねると、心がぽかぽかする。
 おにぎりを作った後のように、温かい手。

 手汗をかいているんじゃないかとヒヤヒヤしたけど、梁は何も言わずにそのまま、手を重ねていてくれた。

 梁の温度に安心する。
 梁の重みに、その質量に、存在を感じる。
 その存在が、俺の心の中の見て見ぬふりをしてた”孤独”を癒す。

 コロッケサンドの後に、クリームパンを開ける。
 カスタードクリームの入ったこのパンを、きっと梁は気に入るだろう。
 今度、中休みにこっそり買ってきたら、嫌な顔をするだろうか? おにぎりがあるのにって。

 それとも素直に喜ぶだろうか?
 ピンクのイチゴオレと、甘いカスタードのクリームパン。
 きっと喜ぶと思う。

 そう思いながら食べると、舌の上のクリームもよりいっそう滑らかな気がして、喉をするっと通っていく。

 明日、雨さえ止めば、梁は学校に来るんだろうか?
 外は絶望的に土砂降り。
 咳は学校に来られないほど、苦しいらしい。
 無理してほしくない気持ちと、早く顔を見たい気持ちが交錯する。

 そうだ、と思ってスマホを出す。
 一応、連絡先の交換はしてある。
 メッセージ、いきなり送ったら、驚くかな?

 指先が、アプリの画面上を行ったり来たりする。
 こんな小さなことに迷うなんて、どうかしてる。
 でも、もし今、丁度寝ていたら⋯⋯。
 咳で眠れなかった小さな眠りを、壊してしまうかもしれない。

 屋上を吹き渡る風は、凶暴に、ごうごうと音を立てて、いつもの安らかな時間を踏みにじっていく。

 起こしてしまったら、かわいそうだし。
 そう思いつつ、メッセージを書く。
 筆無精だし、上手い言葉が思い浮かばない。梁が安心できる言葉がいい。悩みなく、眠れるような。

『身体、大丈夫? 今日はゆっくり休めよ』

 考えた末に打った言葉はやけに短くて、まるでぶっきらぼうだ。愛想のひとつもない。
 もっとやさしい、アイツに合った言葉を――。

 ディスプレイとにらめっこしていると、手の中のスマホが震えた。
 その着信が、喜びに変わる。

『凪、おにぎり持って行けなくてごめん! ちゃんとお昼、食べてる?』
 ぽかん、とそのメッセージを見つめる。辛いのは自分の方なのに、と思う。

『ちゃんと購買で買って食べたよ。大丈夫、イチゴオレも飲んだし。美味しかったから、今度、購買のクリームパン、奢るよ。いつものお礼ね』

『お礼なんていらないよ、って言いたいけど、クリームパンは魅力的だなぁ。僕、甘いもの、好きなんだよ』

 知ってる。
 くすっと笑う。まるで梁がここにいるような錯覚を覚える。カスタードクリームを口の端に付けた、梁の顔が目に浮かぶ。

 会いたい――そう打とうとして、指が止まる。
 胸の鼓動がテンポを崩す。早足で、俺を置いていこうとする。

『凪がいないとつまらない。早く会いたいな』
『具合はどうなの?』
『子供の頃に比べたら、ずっといいよ。気圧の谷を越えれば体調、良くなるから』
『雨が早く止めばいいのにな』

 か細い肩を抱きしめたことを、不意に思い出す。
 あんなことをした俺を、怖くないのかと訝しむ。だって、怖いだろう、普通に。
 男なんかに抱きしめられたら⋯⋯。

『あのさ、今日の埋め合わせ、考えとくから』
『何?』
『だから、一緒に食べられなかった埋め合わせ。どうせまたひとりで食べてるんでしょう?』

 こんな時にも心配されてる⋯⋯。心配するのは俺の方なのに。
 抱きしめた時の体温を思い出す。今にも雨が降り出しそうだった空と、対称的な梁の温もり。
 しっとりした首筋の、甘い香り。

『そろそろ予鈴、鳴るんじゃない? 明日は絶対、学校に行くから』
『無理すんなよ』
『うん、じゃあ明日ね』

 手を振るピンクのうさぎのスタンプが押される。
 男の使うスタンプじゃないだろう、と思いつつ、『またね』と手を振るカエルのスタンプを押す。

 ホッとする。
 元気そうだ。
 ⋯⋯こんな気持ちになるのは初めてだ。誰かのことをこんなに想うなんて。
 古い蛍光灯がチカチカする。

 これじゃまるで、この気持ちは――。