今日の空は曇り。
 天気予報は、今夜半過ぎからの雨を告げている。
 雨の日は嫌いだ。

 昼休みが近付いて、英語教師が課題を配る。僕は昨日のことを思い出して、鼓動が速くなるのを感じていた。

 昨日、屋上で、凪と密着したこと――。
 意識しないわけにはいかない。授業が終わって、凪が窓際の席から僕の席に歩いてくる。
 教室は今日も賑やか。

「梁、これ」
 机の上に置かれたのは、ピンクのイチゴオレと、黄色いバナナオレのパックだった。
「どっちがいい?」
「奢ってもらうなんて悪いよ」
「イチゴオレだろ? いつも飲んでるじゃん」

 昨日、凪に「かわいい」と言われたことが、頭を掠める。
 そうかな、僕はそんなに女子っぽいだろうか?

 でも、ピンクも黄色もあまり変わらない気がして、いつも通りのイチゴオレに手を伸ばす。凪は得意げな顔で、にこにこ笑った。

「今日はさ、何入れてきたの?」
「いつも通り、腐るの防止に安定の梅干しと、昨日、凪が食べたいって言ってたから昆布の佃煮」
「え? 梁チョイスで良かったのに」
「食べたいもの、言ってくれた方が楽だよ」と、僕は本音を言った。

 昨日のドキドキが、階段を一段上るごとに足元から戻ってきて、自然に足が重くなる。
 嫌だったわけじゃない。
 ただちょっと怖い。凪に、こんなにも惹かれていく自分が。

 僕の重い足取りに気付いたのか、凪が振り返る。
 そして手を差し出す。
 僕はおにぎりの包みを渡そうとする。
 凪が「違う、手を出せよ」と言う。

 それだけのことなのに、恥ずかしさで溶けそうになる。この間まで、手を握ることはなんでもないことだったのに――。

「曇ったってちっとも涼しくないな。かえって蒸し暑い」
「雨の前の日って、そんなものじゃない?」
「梁は雨、好き?」
「⋯⋯あんまり。頭痛とか酷くなるんだ」
「ああ、低気圧症か」

 まぁ、そんなとこ、と答えて僕はアルミホイルを開ける。齧ってみると梅干しだった。
 ダメになってた食欲が復活する。

「梁さ、バイト先に来なよ。キャンペーン終わるよ、もうすぐ」
「うちの近くにも系列店、あるよ。僕、この前スムージー当たった」
 そっか、と凪は苦笑した。

「バイト、週に何回くらい行ってるの?」
「シフト希望は週4で出してる。毎週、希望通りってわけにはいかないけど」
「週4って多くない? 勉強の負担にならない?」

 まぁね、と凪はなんとも言えない顔で笑った。自嘲気味、というか、説明しにくい顔だった。

 うちの学校はそこそこ進学校で、成績もそこそこ良いことを期待されていた。でも凪が成績悪いなんて、聞いたことはない。

「勉強時間、足りなくない?」
「なんとかやってる。自分から進んでバイトしてるわけだし。これで成績下がったら、担任からバイト減らすように言われちゃうからね」

 凪は僅かに悲しそうな顔をした。
 僕には、何がそこまで彼にバイトをさせるのか、わからなかった。

「なんだよその、あからさまに理由を聞きたそうな顔は」
「そんな顔、してないよ」
「いーや、した。俺の顔、じっと見てたもん。穴が開くかと思った!」

 大袈裟だな、と思いながら笑うと、急に鼻をつねられる。
「仕方ねぇなぁ。梁になら、言ってもいいかな⋯⋯」
 凪にしては珍しい歯切れの悪い言葉に、胸の奥がざわつく。

 僕たちは並んで座っていた。
 アスファルトについていた僕の手に、凪の手が重なる。手汗をかくのを感じる。
 昨日の、キスまがいのことを思い出して、鼓動が速まる。

「俺さ、片親なんだよ。だからどうしたって話なんだけど、そんなヤツ、ごろごろいるし」
 うん、と小さく相槌を打つ。

「父親がさ、中学の時に亡くなったんだ。交通事故。横断歩道を渡ってるところを、無理に曲がってきた車に轢かれて。⋯⋯どう? 刺激強くない? ここで止めようか?」

「大丈夫、聞きたい。凪の話だから」
 凪の話なら、全部聞いてみたい、そう思った。そうやって僕の中は、少しずつ凪で満たされて、足りない部分を補いたいと思うようになった。

「ぶつかったならともかく、轢かれちゃったらさ、もうお終いだよ。父さんは即死で、俺と、今は中学生になった弟と、母さんが残された。母さんは運良く、結婚前に資格をいくつか取って事務職で働いてたから、再就職先に困らなかった。父さんの保険金も下りた。でもさ――」

 そこで凪は言葉を区切った。
 そして、僕の手をギュッと握りしめた。
 もしかすると、無意識だったかもしれない。

「お金って日々かかるじゃん? 弟はまだバイトもできないし、もしできる年齢だとしても『働けよ』なんて言えない。高校に行ったら学業に専念して、できるだけいい学校に行かせてやりたいじゃん?」

 僕は真横にある凪の顔を見た。
 伏せ目がちのまつ毛の影が、その瞳に落ちていた。

「そうしたら自分が使う細々なことくらい、自分で稼ごうって、そう思ったんだ。母さんの収入が決して悪いわけじゃないんだよ。だから反対もされたけど、自分で選んだんだよ。高校生って雇ってもらえるところ、少なくて、で、コンビニ。時給がいいわけじゃないけどね」

 今度は僕の顔を見て、口の端を上げて笑った。
 さみしさが、僕を侵食する。
 でもそのさみしさは多分、凪のもので、僕のものじゃない。

「だから助かってる、本当に。梁がおにぎり作ってくれて。自分で弁当くらい作ればいいんだろうけど、甘えてるんだよ、梁に。それに、一緒にいる時間にすっかり慣れちゃって、俺、もう多分、戻れない、梁のいない時に」

 昨日とは反対に、凪は僕の身体にもたれかかった。その体温は、不思議なことに、昨日とは違うものに感じた。
 熱いくらいだったのに、やわらかい温度。
 陽だまりのような温もりに、やさしさを感じる。

 僕は鼓動が激しくなるのを感じながら、凪の肩に腕を回した。そしてその汗ばんだ髪を、恐るおそる撫でた。

 怒られるかもしれないと思ったけど、そんなことはなくて、代わりに僕と同じ数の心拍を感じた。
 ドクン、ドクン、⋯⋯と強く打つ脈拍は、これが夢じゃないと物語っていた。

「ひとりにしないから」
「うん」

 握られていた手に、再び力が入る。
 僕らは繋がっていた。9月の空の下で、きつく――。

 頭のどこかで考える。
 友達にすることじゃ、ないんじゃないかな?
 だとしたら、凪はなんなんだろう?
 ⋯⋯凪は凪だ。大切な人だ。それでいい。

 僕らはしばらくその姿勢のままでいた。
 凪の体重を、少し重く感じてきた頃、彼は頭を上げた。そして何事もなかったかのように、バナナオレを口にした。

「誰かに寄りかかるなんて、久しぶりだった」
 人好きのする笑顔で凪は微笑んだ。
 僕はもう、何も言えなくて、赤くなって俯いた。

 軽率だっただろうか?
 ううん、そんなことはない。
 凪を大切にしたい、切実にそう思ったんだ。

「⋯⋯もっと、寄りかかってもいいよ」
 バナナオレを、ごくん、と飲み下す音がした。
「それって、こういうことだよ」

 躊躇うことなく、やさしく、正面から凪は僕を抱きしめた。驚きとともに、うれしさが現れる。
 僕はその背中をギュッと抱きしめると、背中のシャツを握りしめた。緊張で、どうにかなりそうだ。

 その質量を感じていると、予鈴が鳴る。
 凪は身を剥がして「ごめん、甘えちゃって」と言った。

 僕は恥ずかしくて凪の目も見られず、「それ、空になった? 捨てておくから」とゴミになったバナナオレとイチゴオレを手に持つ。

 曇り空は今にも涙をこぼしそうで、僕を感傷的な気持ちにさせた。

 ◇

 伊郷は先生に呼び出されていて、広田とふたりきりだった。
 教室は静かで、グラウンドから運動部のかけ声が、窓を越えて流れ込んでくる。

 空調は既に切られて、開け放たれた窓から入る風で、くすんだ色のカーテンが揺れた。

「僕さ、少しおかしいかもしれない」
「どういうこと?」
「凪のことばっかり考えてて。その、家庭事情とかも聞いちゃったし」

「同情してんの?」
「⋯⋯してる」
「どんな話か知らないけど、同情したんなら、それなりの重さがあったってことだろう? 藤沢のことばかり考えちゃっても、無理ないよ」

 そうなのか、と心のどこかで安堵する。
「それにさ、そんなに心を開いてくれたなんて、うれしいじゃん」
 うん、と僕はうなずいた。

「藤沢って誰にでもそういうこと、言うタイプじゃないでしょう? 尚更うれしくて当然だよ」

「凪を受け入れてあげて、正解だと思う?」
「俺らが同じような話をしたら、突っぱねる?」
「突っぱねたりしないよ」
「つまり、そういうこと。考えすぎ」

 慌ただしく廊下を走る音がして、伊郷が戻ってくる。「遅くなってごめん」と謝って、カバンに荷物を詰め始めた。

 僕と広田は手分けして窓を閉めて、きっちり施錠した。
 広田が言った。
「明日は雨だな。高井、大丈夫?」
「今のところは」
 気を付けろよ、と彼は言った。

 ◇

 薄闇の中を自転車を滑らせて走る。日が落ちるのが、ずいぶん早くなった。
 雨はまだ降っていない。

 僕は少しの距離を走って、その四角く明るい箱を目指していた。
 レシートクーポンキャンペーンが終わる前に。

 そこに着くと、自転車のスタンドを立てて、窓の外から中をチラッとのぞく。
 思ってた人がそこにはいない。
 別の、大学生らしい人が、忙しそうに品出しをしていた。

 なんだ、今日は休みなのか、となんとなくホッとして、中に入る。
 軽やかなチャイムが鳴る。

 僕は特に必要なものはなかったので、ドリンクコーナーに行き、ペットボトルを1本、手に取った。
 レジに向かうと無人で、セルフレジに向かおうとしたところに、店員が顔を出す。

「こちらへどうぞ」と呼ばれて、何も考えずにペットボトルを置いた。

「なんだ、来たんだ」
 え、と顔を上げるとそこには凪の顔があった。
 いきなりのことで、言葉が出ない。

「だって、凪が『来なよ』って何度も言うから」
「うん、うれしい。どう、制服似合ってる?」
 見慣れない制服姿の凪は、言われなければ高校生とは思えなかった。いつもとは別人のようで、距離を感じる。

「もうすぐ上がりだからさ、外で待っててよ」
「うん」
 大丈夫、これはいつもと同じ凪だ。何も焦る必要はない。

「このままでいいですか?」
 凪は他人行儀に、定型文でそう訊いた。
 僕は、はい、と俯いた。

 ちょっとコンビニにいただけなのに、空はもう真っ暗で、風が出てきた。
 喉を通る呼吸が、ひゅう、とおかしな音を立てる。

 着替えなくちゃ出てこられないんだろうと、冷たいミルクティーのキャップをひねりながら、凪を待つ。
 甘ったるい液体が、喉を潤す。

 思ったより遅くなって、母さんが心配してるだろうな、と思う。
 出かける支度をしていると「どこに行くの?」と声をかけてきた。僕は「ちょっとコンビニまで」と答えた。嘘じゃなかった。

 夕飯の時間をとっくに過ぎてる。
 スマホの表示は、20時を越えた。
 凪は、毎日こんな時間まで働いているのかと思うと、胸が軋んだ。

 この時間、僕はのうのうと夕飯を食べて、お風呂に入ってるところだ。
 一日の汗を流して、お風呂上がりに、新しい汗をかく。
 そういう普通のルーティンで生活している。

 塾にも行ってなかった。
 親も放任だし、実際それほど成績も悪くなかった。
 高望みさえしなければ、志望校には滑り込めそうだった。

 車のヘッドライトが夜を切り裂く。
 家路を急ぐ人が、コンビニ前の交差点を渡る。
 なんでもないそんな光景が、胸をギュッと締め付ける。

「轢かれちゃったらさ」と言った凪の言葉をリフレインする。ひとは、脆い。

「ごめん、待たせて」
 赤いギンガムチェックのシャツを羽織った凪が、明るい声で、裏口から出てきた。
 その鮮やかなシャツに、目を取られる。

「そんなに待ってないよ」
「嘘つけ。ミルクティー、もうほとんど空じゃん。飲んで行っちゃえよ。また甘いもの、買ってくなぁと思ってたんだ。無糖のコーヒーは飲めないんだろう?」

 意地悪だなぁ、と思いながらミルクティーを飲み干す。
 昼間はあんなに、弱った顔、見せたくせに。

「梁、自転車?」
「うん」
「じゃあ、少しだけ送るよ。どっち?」

 人通りの多い方を指さした。
 駅の方角だ。僕の家は、駅を越えた向こうにある。

「いいな、学校近くない?」と凪が言った。
「多分、近い方だと思う。徒歩通だし」
「朝は伊郷たちと一緒?」
「約束はしてないけど、一緒になることが多いよ」

 へぇ、と気のない返事が聞こえる。
 人々が、駅へ向かう僕たちを追い越す。足早に、ゆったりした坂道を上っていく。

「ここまででいいよ」と僕が言うと、凪は俯いて足元の石を蹴飛ばした。
 小さな石は、すぐに回転を止めてその場に留まった。

「もうちょっと送るよ。線路下のガード、くぐったとこまで」
「あそこ、ひとりじゃ危なくない?」
「お前さ、女じゃあるまいし」
 凪が明るい声で笑った。それもそうか、と僕も笑う。

「俺の方がお前を心配してるから、送るの。大事な梁、だからな」
 耳がこそばゆくなる。
 学校の外でそんなセリフを聞くなんて、慣れてない。

「明日のおにぎりの具、もう決めた?」
「まだ決めてない。冷蔵庫に、母さんが何か用意してくれてるんじゃないかなぁ」

「いつもおばさんが決めるの?」
 凪は心做しか、シュンとして見えた。
「そんなことないよ。大抵は僕が決める。でも今日は買い物頼まなかったから」
 そっか、と凪は呟く。

 その小さな呟きを拭き消すように、電車が高架上を通過する。僕らは口をつぐむ。

 電車が言ってしまうと、凪の方から足を止めて「気を付けてな」と言った。
 僕は後ろ髪を引かれる気持ちを振り切って、自転車に跨った。「また明日」と一言残して。