真っ暗な空には細い三日月。
 ささやかに動く空調の音と、がんばってきらめく満天の星。みんな、宵闇の奥に沈んでいきそうなところを、一生懸命浮かんでいる。

 ベッドの中で、揺れている。
 まるで波に揺られるように。
 やわらかい波に、足元がすくわれそうになる。
 眠気がひたひたと足を濡らそうと迫っている。なんとかもがいて、意識を保っている。

 ――例えば彼女ができたとしても。

 それはこっちのセリフで、凪に彼女ができたら、もうおにぎりはお終いだ。また母さんのお弁当に戻る。
 屋上もない、おにぎりもない生活に逆戻りだ。

 帰り道、アイツらとコンビニ前でアイスを食べてる時に伊郷に訊かれた。
「藤沢って面白いヤツ?」って。

 僕がすぐに答えられずにいると「大体、どうして藤沢におにぎり作ろうって思っちゃったわけ? よりによって、あの藤沢だよ」と広田は呆れたように言った。

「凪⋯⋯藤沢はいいヤツだよ」
「餌付けしてくれるヤツにはな」
「凪に何か嫌なことされた?」
「いや、なんだかつまんないだけ。昼飯の時だけだけど、高井を独占されてるの、つまんない。後から来たくせに」

 伊郷の感情的な一言に、広田がストップをかける。

「ちょっと待て。高井にだって選ぶ権利があるわけだし。伊郷だってもしも彼女ができたらさ、俺らとこんな風に帰ったりしないだろう?」
「なんだよ、じゃあ藤沢は高井の彼氏かよ。高井、ゲイなの?」
 そんなこと⋯⋯と広田も閉口する。

「そんなにおかしいかな、藤沢と昼休み、一緒にいるのって」

 伊郷を押さえながら、広田が口を開ける。
「そんなの個人の自由だろう? でも一般論で言えば、そうだなぁ、やっぱり野郎におにぎりは作りたくないかなぁ」

 そこで図らずも僕は自分ではっきりわかるくらい、赤くなってしまって。足元から屋上のアスファルトの熱気が立ち上ってきているのかと思った。

 僕って、ちょっと変なのかもしれない。
 凪のことをずっと見てたり。
 おにぎり作ろうと思っちゃったり。
 屋上で、あのやわらかい笑顔を見ちゃったりすると、何も考えられなくなっちゃったり。

 変かな?
 友達だ。僕はゲイじゃないし。
 ただ僕は凪に近付きたかった。誤魔化しようがないくらい。凪を知りたかった。
 あの目が探す水平線を、一緒に見たいと、ずっと思っていた。

 廊下側の席から、窓際の凪を見て。
 凪の見ている風景の中に、本当は、自分も入ってみたいと思ってたんだ⋯⋯。

 足元に触れる温かい波のように、眠りが僕を誘おうとする。
 凪⋯⋯。
 凪のことを考えずにいられない。眠気が引き潮のように去っていく。

 僕が変わったら、何が困るんだろう?
 変わらないでほしいって、どんな気持ちでそう言ったんだろう?

「例えば彼女ができたとしても」
 できないよ、彼女なんて。いらない。凪がそばにいてくれれば。

 日向の匂いがするタオルケットに丸くなって、眠りの姿勢になる。
 でもまだ頭の芯が眠りを拒んでいる。
 そこには凪の笑顔があるからだ。太陽みたいな、満開の花のような、笑顔があるからだ。

 ◇

「おはよう」
「おはよう」
 伊郷は気まずそうに、机に腰を下ろしたまま、僕から目を背けた。

 教室の中は「おはよう」が飛び交って、今日も賑やかだった。

「昨日は悪かったよ、変なこと、言っちゃってさ」
「ううん、僕も悪いんだよ。何も相談せずに、凪とお昼、食べることになっちゃったから」
「そこは、気にすんなよ。でもさ、ちょっとさみしいじゃん。中学の時からずっと、つるんでたのに。クラスが分かれたときだってさ、帰りはいつも一緒だったし」

 不思議なことに、普段は小さいことは気にしない伊郷が変に感傷的になって、僕まで引きずられそうになる。

 そうだ、ずっと一緒だった。
 それこそ、女の子なんか挟まないで、ずっと。
 冬になると3人でコーヒーのペットボトルを買って、寒いなって笑いながら、飲むそばからコーヒーは冷えていった。

 そういう思い出がいくつも、僕らの間にはあって、そこから飛び出して凪のところに行った僕は、まさに反逆者だ。流刑になってもおかしくない。

 だけどみんなはまだ僕を友達として扱ってくれて、僕を話題の中心に据えてくれる。

「俺が梁を変えちゃったら悪いじゃん」と、凪は言った。
 それってこういうことなのかもしれない。

「なぁ、高井の好きな子って有馬さんだよな? 有馬さん、噂になってるぞ。藤沢のこと、好きなんじゃないかって」

「え、そうなの? 高井、有馬さんだったんだ。高井らしい。有馬さん、真面目だし、しっかりしてるし。俺、昨日、掃除当番サボって、すげぇ怒られたし」

「有馬さんのことは、もういいんだ。フラれた」
 ふたりとも、んっ、と口を閉じた。
「マジで? 告ったの? 玉砕したってこと?」

「いや、その⋯⋯、この前、有馬さんと凪のことで話して」
「有馬さん、藤沢が好きだって?」
「はっきりは言われてないけど、多分」
「なんだそれで今朝は浮かない顔してるのか」

 浮かない顔?
 そんな顔してるのかな?
 迷っているのはそんなことじゃなくて、凪の笑顔が眩しかったことなんだ。

 僕ってやっぱりおかしくないか?
 憧れてた女の子にフラれたことより、男のことを考えてるなんて。
 あの、給水塔の影で凪が見せる笑顔に、一喜一憂してる。

 有馬さんの肩甲骨の長さまである、長い髪が目に入る。ちょっと前まで生き生きとして見えたその背中は、なぜか今はもう、セピア色で。

 凪が有馬さんを、好きじゃなければいいなんて、友達なら思っちゃいけないことを思ってる。凪のことばかり考えてる。

 僕だって嫌だ。
 凪が、僕を塗り替えていく。

 ◇

「いただきます」
 今日もガサガサと広げたアルミホイルの中から出てきた、僕の作った不格好なおにぎりに、凪はかぶりつく。健全な食欲だ。

「あ、明太子じゃん!」
「凪、辛いの好きだって言ってたでしょ? この前」
「でも梁は、辛いのダメだって言ってたじゃん」
「いいんだよ、別に」

「あー! 梁のおにぎり、明太子入ってないじゃん。昆布? ずいぶん渋い具だね。俺も好きだけど」
「ああ、うん、僕のことはいいんだよ。凪を喜ばせたかっただけ。明日は昆布にしてあげるよ」

「そういうことを言ってるんじゃない。平等がいいって言ってんの」
「⋯⋯だってレパートリー、少ないし」
「ローテーションでいいじゃん。気にすんなって」
「食えれば何でもいいみたいに聞こえる」

 はぁー、と、凪は大袈裟にひとつ、ため息をついた。
「俺さ、ずっとひとりで食べてたし、梁と食べられるの、すごい楽しい。だからさ、梁にも楽しんでほしい。自立の一歩だけじゃなくて」

 少しずつ高さを増していく青空の下で、僕らはたわいもない話を続けていた。
 依然として今日も、水平線が見える気配はない。

「だってさ、僕が凪にしてあげられるのって、これくらいじゃん?」
「何かをしてほしいなんて、頼んだ覚えないけど?」
「違う、僕が、自発的にそう思ったんだ」

 凪はいつもみたいに片膝を立てた姿勢で、黙って明太子のおにぎりを、もぐもぐ食べた。
 不機嫌そうにおにぎりを頬張る姿は、いつもはみんなよりちょっと大人っぽく見えるところが、いい感じに削れてかわいく見えた。

「⋯⋯美味しいよ、明太子。また作って」
「どうしたの、急に」
「だって、梁、怒ってるのかと思って」
「怒ってないって。なんでそんなこと思ったの? 僕こそ、凪が怒ってるのかと思って」

 凪は食べ終わったおにぎりのアルミホイルをぐちゃぐちゃと文字通り丸めると、「俺、梁の家にたくさんアルミホイル買って持っていかなきゃだな。おばさんに感謝しないと」とビニル袋の中にそれを入れた。

「偶然、聞こえちゃったんだ。有馬さんのこととか、友達のこととか。友達は大事にした方がいい。俺なんかより」
「凪だって友達じゃん」
「そうだけど、ほら、新参者だからさ」

 どんよりとした曇り空みたいな沈黙が、ふたりの間に横たわる。
 どうして凪にそんな心配させちゃったかな、と思う。

 立てた膝の上に置かれた顔が僕を見て、そして目を閉じる。聞き間違いでなければ、凪はひとつ、深呼吸をした。

「友達と争わなきゃいけないほど、深い関係じゃないだろう、俺たち。もちろん俺は毎日、餌付けされてて、もう野良には戻れないかもしれないけど」

「凪といる時間が大事って言ったら、僕、おかしいかな?」
「おかしいかもしれない。もっと元々の友達を大事にしろって」

 な、と凪はいつもするように、僕の肩を軽く叩いた。その反動で、身体が段々倒れて、凪の肩に軽くもたれかかった。
 凪は何も言わなかった。

「なんかさ、情緒不安定。おかしいんだ、凪がいないとダメかも」
 凪はそっと、まるで遠回りするように、僕の肩に自分の腕を回した。肩に、凪の腕の重みを感じる。

「それはさ、実は俺が梁のこと、そういう風に思ってるからだよ。伝染したんだ、多分」
「凪も僕がいないと不安になることがある? そんなのないでしょう?」

 僕がそう思ったのは、学校外での凪を知らなかったからだ。
 アルバイトをしている凪には、外に、僕の知らない友達がいるのかもしれなかった。
 例えば同中の、前からの友達とか。

「梁といる時間が一番大切だよ」
 真面目な声だった。ふざけたところの一切ない声に、僕の方が一歩引いた。

「⋯⋯どういうこと?」
 凪は僕の肩に回した手にギュッと力を込めると、僕の目を捉えた。
 目と目は見つめ合ったまま、こつんと額と額を合わせた。

 そんなことを誰かとするのは初めてだったので、どういうリアクションを取ればいいのかわからない。
 でも別にキスしたわけじゃないし⋯⋯、とそこまで考えて、僕は身体を凪から離した。

「な、凪! 一体何を考えて?」
「あ、梁が元気になった。よかった。明日の昼飯にはありつけないかと思ったよ」
 散々だ。また顔に熱が集まるのを感じる。心臓の鼓動は痛いくらい、激しい。

「そんなにからかって、楽しい?」
「からかってなんかないよ。全部、本当だよ。梁といる時間が、最近楽しみで仕方ないんだ」

 僕は黙って、イチゴオレをとりあえず飲んだ。
 喉が渇いていたようで、イチゴオレはいつも以上に甘ったるく、喉を潤した。

「今日も暑いから、喉、渇くよなぁ。早くきちんと秋らしくなればいいのに」
 見上げた空に、入道雲はなかった。薄い雲がちらちらと浮かんでいた。もう、真夏の空ではなかった。

 僕たちは、秋に包囲されている。
 秋は僕たちとの距離を、じりじりと詰めている感じがした。

「難しく考えちゃうの、癖なの? もっと自由でいいのに」
「凪ってたまに、年上みたいな物言いをする」
「嫌?」
「嫌じゃない」

 凪は僕の頭に手をやると、ゆっくり僕の身体を自分の方に倒した。僕の身体は正直で、電気が走ったかのように、ビリッと一瞬、痺れた。

「まだ暑いな」
「⋯⋯冬の方が空気が澄んで、遠くまでよく見えるって」
「なんの話?」
「だから、水平線」

 ああ、と凪はふっと微笑んだ。
 潮風が、僕の頬を撫でる。
 凪と僕の距離は0メートルで、もう心臓が口から飛び出しそうだ。

 頭に当てられてた腕がするりと離れて、顔と顔が向かい合う。
 凪の目の中に、僕の姿が映る。その僕は凪を見ていた。
 僕の目の中にも凪がいるはずだ。

 そっと、手が顔に近づく。
 もうダメだ――。僕は目を、ギュッと瞑る。
 突き飛ばした方がいいのかもしれない。距離が近すぎる。

 ふふっと凪は軽く笑った。
 僕は目をそろっと開けた。

 からかわれた、そう思った時、「米粒ついてる。ここ」と凪の指が頬に触れる。米粒は躊躇いなく、凪の口の中に消えた。

「かわいいな、梁」
 確かに凪はそう言った。
 そして僕の頭をぐいと自分に寄せた。

 それが意味するところはわからなかった。
 ただ、首筋に汗をかいた。
 べたべたした僕は、嫌じゃないんだろうか、と思う。

 凪は、汗の匂いがした。
 でもそれは嫌じゃなかった。

 僕たちはそうしてずっと、予鈴が鳴るまで、何も言わずに身体を寄せていた。
 一言も、喋らずに。

 予鈴が鳴ると、凪は何事もなかったかのように立ち上がり、ゴミをまとめた。
 そして呑気な声で「あー、気持ちよくて寝ちゃったよ」と言った。

 なんだ、眠かったのかと思って、頭の中に『自意識過剰』という言葉が浮かぶ。
 僕の頭もぼんやりしていた。

「熱中症の危険もあるし、気を付けないと。眠くなる時は、危ないんだってよ」
 凪は僕を見て、くすっと笑った。そして手を伸ばすと、手をぐいと引いて僕を立たせた。

「じゃあ、何か水分、奢ってもらおうかな」
「冗談でしょ? もう急がないと授業、始まるって」
「冗談だよ。行こう、まだこうしていたいとこだけどさ」

 軽やかに身を翻すと、凪は屋上の重い扉に向かって歩き出した。その後を追う。いつものように。

 ◇

 三日月は、昨日よりちょっと、太って見えた。
 僕はそれを見あげて、昨日とは違ってしまった自分のことを思っていた。

 家族以外の誰かと、あんな風に親しく、触れ合ったことがあったかな⋯⋯。

 考える必要もない。だって、そんのなことはなかった。
 誰かに、抱き寄せられるようなことは、なかった。

 少し湿った凪のシャツ、その仄かな汗の匂い。
 そういうものを、すぐ近くに、今も感じる。
 覚えてしまった、凪の隣を――。

 星は歌うように瞬いて、僕に微笑んでいるようだ。
 僕はきっちり仰向けになり、天井を見つめた。
 よく知ったはずの天井さえ、昨日までとは違って見える。

 知ってしまったことを、知らないことには戻せない。もう、戻れない。

 僕を変えたくないと言ったその人が、すっかり僕の世界の色を変えていく。
 眠れない。
 闇の中でも、世界は極彩色だ。

 目を閉じてもまだ、彼の心臓の音が聴こえる気がして。僕のそれも、彼に聴かれた気がして。
 そう思うと足元に寄せる眠りの波が、少しずつ遠ざかるように思えた。

 眠れない夜が、続きそうな予感がした。