「凪、行こう」
 お昼休みになると僕は、ビニル袋をふたつ持って、凪を呼ぶ。まだ慣れない。声が掠れてるかもしれない。

 凪はその窓際の席から、まるでプールから出る時のように机に両手を突っ張って、立ち上がった。

「凪」と呼ぶには少なからず、抵抗があった。僕にとって窓際の彼はずっと、「藤沢」だった。遠かったはずの「藤沢」が「凪」になって、質量を持って、僕の隣を歩く。

 そうしてふたりで、屋上への扉を開け放ち、9月の真っ青な高い空の下で、海の匂いを探した。
 海は、その残り香さえ、そこに流してはくれなかった。

 それでも僕らは懲りずに、そこにあるはずの水平線を見据えて、給水塔の影に並行に座っておにぎりを食べた。
 もぐもぐと、体力を蓄えるように。

 最初、逃げたくなるほど緊張したその行為も、慣れてくると昔から当たり前のことだったように思えて、凪の隣は思っていた以上に快適だった。
 まるで、スペシャルなシートのように。

「今日の具は?」
「⋯⋯毎日訊いてくるけどさ、自分で食べてみて確かめた方が楽しくない?」
「そうかな? 梁の口から聞きたいけど」

 ドキッとする。まるで不意打ちだ。
 心に刺さったその矢を引き抜いて、心臓を鎮める。それにはいつまで経っても慣れなかった。

「まだ緊張してんの?」
「え?」
「こうやって並んで、毎日おにぎり食べてても、俺に慣れないのかなぁと思って」
「そういうわけではないけど」

 そういうわけではないけど、なんだろう。
 なんて返したらいいんだろう。
 凪の隣はいつだって熱くて、僕は常に凪を感じてる。照り返すアスファルトの熱より強く。

「⋯⋯今まであんまり口をきいたことがなかったからだよ、きっと」
「じゃあなんで俺?」
 息を呑む。
 いつか、訊かれると思っていた。

 そう言っておいて、保冷剤で冷んやりしたおにぎりを口に頬張ると、梁は僕を見た。
 そこを突かれると、弱い。思わず目を伏せる。

「まぁ、いいか。梁が俺を選んでくれたから、こうやって⋯⋯お、ツナマヨ?」
「ツナマヨ、どう?」
「美味い。すげぇ。作れるんだ?」
「作ってみた」

 作ってみた、なんて、さり気なく答えたけど、実は作る前にネットで作り方を検索した。勘違いな味付けになるより、着実に美味しいものを、凪に食べさせたかった。

 へぇ、作れるもんなんだ、と言いながら、凪の目はまだ前を見据えている。何処かにあるはずの、水平線を見逃さないように。

「確かに先に聞いちゃうより、楽しみは後の方がいいかもな。明日は何が入ってるのか、すげー楽しみ」
「明日⋯⋯」
「あれ? 明日はダメだった?」

 僕は何故かひどく恥ずかしくなって、下を向いた。アスファルトについた僕の手と凪の手が、触れ合いそうになっていることに気がついて、ドキッとする。
 こんなことひとつで、いちいち動揺する僕を知られたくない。

「凪は何がいい?」
「なんでもいいの?」
「ほら、聞くのとできるのは違うからさ」
「確かに」

 凪はぶつぶつ言いながら、熟考モードに入った。
 そんな小さなことを真剣に考える姿が、かわいい。
 凪の、長いまつ毛が伏せ目がちになって、影を落とす。その影を、僕は見ている。いつものように。

「考えてみたけど、意外と嫌いなものはないみたい。コンビニで働いてるって言ったじゃん? おにぎりの陳列もするんだけどさ、右から左に思い浮かべてみて、食べられないものはなさそうだ」

 そうなんだ⋯⋯と喋る口元を見ていた僕は、ハッとして目を上げた。

「どうした? 飯食べて眠くなった?」
「そういうわけじゃない」
 バレたかな、と思った。じっと彼を見ていたことを。かぁっと顔が赤くなるのを感じた。

「悪いな、毎日。おにぎりだって、買えば安いものでもないのにさ」
「いいんだよ。言ったじゃん、僕の自立の練習だって」
「そっか、そっか。でもそんなに無理して自立なんてしなくていいんじゃない? 大学生になれば、弁当なんて持っていかなくなると思うよ」

 返答に詰まる。
 もう一度、俯く。僕はこんなに口下手なわけじゃなかったのになぁ。

「それでもさ、こういうところから少しずつ、自立したいな、って。凪に付き合ってもらっちゃって悪いけど」
「俺は助かっちゃってるから、そこんとこは気にするなよ」

「僕は凪にちゃんと食べてほしいだけ」
 言ってしまってから、ハッとする。そんなこと、口に出すつもりじゃなかった。変なヤツだと思われるかもしれない。

 ポン、と大きな手のひらが、沸騰しそうな頭の上に置かれる。
「ありがとな。俺のこと、気にしてくれて。親切ってほんと、ありがたいよ」

 そんなことを言われると思わなかったので、凪の、ふざけた手を下ろそうとしてその手に触れると、僕のそれと同じくらい、熱かった。

「そんな風に思わなくて、いいよ。ほんと、不格好なおにぎりで申し訳ないよ」
「え、それって”愛”で補完されるんじゃないの? ――悪かった、変な言葉、使って。つまり、俺たち、友達だろ?」

 うん、と小さな声で頷く。
 僕は凪の友達という場所を手に入れた。きっと、僕より親しい友達は、凪にはいない。

「今度さ、バイト先にも来いよ。今なら『千円以上お買い上げで商品が当たるクーポン』キャンペーン、やってるよ」

 凪の家は僕の家とは逆方向だった。
「うん、そのうち、凪が働いてるところ、見に行かないとな」
「あ、チェックだな?」
「なんだよ、自分から言い出したくせに」

 僕たちの笑い声は、青い空に吸い込まれていった。
 十分だった。
 あの席からずっと横顔を眺めていた日々から、ずいぶん前進した。

「明日はおかず、何にしようかな?」
「考えてないの?」
「考えてないよ、まだ」
「なんだ、なんとなく決めてるのかと思った」
「そんな、今晩のおかず決めてる主婦じゃあるまいしさ」

 そう言いながら、今朝、母さんに「買い物に行くなら鮭、買ってきて」とお願いしていた。
 明日のおにぎりは多分、鮭だ。おにぎりの具のことを毎日、考えてる。
 つまり、凪に小さな嘘をついたわけだ。

 風がそよぐこともない青空の下で、僕たちはお腹を満たして、空を見ていた。
 凪が先にアスファルトに寝転んで、僕も隣に寝転んだ。

 空が高くなっていく。
 波音が聞こえないまま、夏が少しずつ、遠のいていく。
 背中からじわじわと伝わる熱は、僕の心の温度に似ているかもしれなかった。

 ◇

 有馬さんは僕を見かけると、「高井くーん!」と名前を呼びながら走ってきた。
「どうしたの?」
「伊郷くん、知らない?」
「伊郷? なんか新作のデザートが今日発売だって走って帰ったけど」

 有馬さんは怒っているようだった。
 プンと機嫌を損ねたその顔が、かわいい。彼女は黒い髪を乱さないように、後ろにひとつに結んでいる。以前からちょっと気になってた。
 首裏が涼しそうだ。

「伊郷くん、今週、掃除当番なのに、昨日も帰っちゃったの。もう! 何か言ってやってくれない?」
「電話しようか?」
「いいわよ、もう終わったから」

 有馬さんの怒りは、とどまることがなさそうだった。怒りのやり場がないようだった。

 そんな彼女の瞳がふと、止まって、あまり身長の変わらない僕の目を見た。

「でも最近、伊郷くんたちより、藤沢くんと仲が良くない? よく一緒にご飯食べてるよね?」
「ああ、うん⋯⋯」
 僕は返事を濁した。内心、穏やかじゃなかった。
 指先がピクッと動く。

「いいなぁ。藤沢くんて、誰とも仲良くしないタイプなのかと思ってた。でも、前に化学の実験で一緒になったんだけど、やさしいよね、藤沢くん。うらやましいな⋯⋯って、なんか喋りすぎちゃった。やだな。高井くんて、喋りやすいんだもん! ごめんね、引き止めちゃって」

 じゃあね、と手を振ると、有馬さんは走っていってしまった。向こうから、「有馬ー!」と、彼女の友達が呼ぶ声が聞こえた。

 凪を、よく思う女の子がいるんだ。
 それはそうだ。凪のキレイな横顔を見ているのは、僕だけとは限らない。
 凪はそれに無頓着なようだけど。

 もし凪に彼女ができたら、どうしよう?
 せっかく友達になれたのに、昼休みに一緒にご飯を食べる権利も奪われてしまう。

 凪はきっと”彼女ファースト”だろう。僕に対する態度からもわかる。
 凪を特別に想ってくれる人を、大切にしないわけがない。
 もしそうでなければ、僕だって凪に近付きたいと思わなかったはずだ。

 僕は、知らず知らずのうちに、自分の心臓の位置をギュッと握りしめていた。シャツがシワになった。
 何がそんなに僕の胸を痛めつけるのか、わかったようでわからないふりをした。

 そう、僕は見ないふりをした。
 わからない気持ちにはとりあえず、蓋をする。そういうのは得意だった。

 ◇

「どうかした?」
「え?」
 隣を歩く凪が僕の顔をのぞき込む。僕の心臓が小さく飛び上がる。
「大丈夫、今日のおにぎりが大爆発起こしてても、俺は一口で食べちゃうから」

「⋯⋯そんな爆発は起きてないよ」
 爆発が起きたのは、僕の心の中だ。
 ほんの小さな爆発が、心の中で燻っている。

「凪は、クラスの女子で、いいなと思う子はいる?」
 凪は妙なものを見た、という顔をした。そして両手を頭の後ろに組んで、口を開いた。

 僕の胸もおかしな鼓動を打った。
 どうしてこんなことを聞いちゃったんだろうと、上履きの先端を見つめた。

「梁がそういうこと、言い出すと思わなかった。で、梁は誰に興味を持ってるの?」
 凪は前を向いたまま、歩き続けた。その言葉は淡々としていて、無表情だった。

「え、あ、その、⋯⋯有馬さん」
「ああ、あの髪の長い」
 ぶっきらぼうな物言いが、凪が彼女に興味を持っていないということを、明らかに物語っていた。

「女子ってよくわかんねぇけどな」
「え?」
「俺たちと考えてること、違わない?」
「確かに、女の子の考えてることなんかわかんないし」

「もしさ、有馬さんが、梁と付き合いたいって言ったらどうすんの? それでも友達でいてくれる?」

 凪はまだ前を真っ直ぐに見ていた。僕の顔を見ない。
「まぁ、それは梁の自由だもんな。梁に春が来た時は、一番に教えてくれよ。最初に祝いたいから」

「ねぇ、凪、不機嫌になってない? 例えそんなことがあったとしても、僕は凪におにぎりを作るし」
「ストップ。そんな風におにぎりだけもらったら、俺は施されることになるだろう? そんなことされる必要はないよ」

「施しとか、そんなつもりは⋯⋯。僕はただ純粋に凪に」
 凪は僕の背中を軽く叩くと、「冗談。施しとか思ってないよ。純粋にうれしいし、美味い。梁の作るおにぎりが美味い。お前を好きになる女子ができないことを、願ってる」

「ひ、ひどいな。⋯⋯でも、有馬さんのことは、本当はもうどうでもいいんだ」
「なんだよ、それ? お前さっき、有馬さんがいいって言ったばっかじゃん」
「だからもういいんだって」

 屋上へと続く階段まで、もう少しだった。凪は僕の手から、「持つよ」とビニル袋を手に取った。
 4つのおにぎりは凪の手に提げられて、ぶらぶら揺れた。階段を上る度に熱気が強くなる。

 凪が、重い扉を開ける音が響く。
 一面に眩しい空が広がる。
 今だけは、僕と凪だけの空だ。誰にも邪魔はできない。

 いつもの場所に座ると、凪はさりげなく腰を下ろした。そして隣をポンポンと叩く。
 その小さな呼び声が、うれしい。
 そっと、腰を下ろす。

「梁さ、ここに来るようになって、日焼けしたんじゃない?」
「え? そうかな?」
「日焼け止め、塗ってこいよ」
「嫌だよ、女子じゃあるまいし」

 凪は片膝を立てた姿勢で、その膝に寄りかかるようにして、こう言った。
「俺が嫌なの。俺のせいで梁が真っ黒になったりしたらさ」
「何それ?」
「⋯⋯梁には、梁のままでいてほしいから」

 僕は自動的に足を動かして、すとんと凪の隣に腰を下ろした。
「だってさ、梁の友達にも悪いじゃん。一緒に昼飯食べるようになっただけでも、俺、罪深いのに、梁のこと、変えちゃったらさ」

 凪の言ってることは、僕にはちょっと難しかった。
 イチゴオレのパックにストローを刺す。
「わ!」
 持ち方が悪くて、パックからジュースがこぼれる。

 大丈夫かよ、と持っていたティッシュで僕が濡らした制服のズボンを拭いてくれる。
「だからさ、こういうところ」
「え?」
「こういうところ、変わったら嫌だろう?」

 どういうこと?  そう思ったら、凪はにこっと笑った。
「変わんないで。例えば彼女ができたとしても」
 言われたことの意味が、よくわからなかった。