――あれ、窓際の席。
夏がまだ終わりきれない9月の空の下、眩しい光が教室に差し込んでる。制服の、白いシャツが日差しを反射する。目に刺さる。
暦の上では秋なのに、鳴きやまない蝉の声。
国語教師の眠気を誘う朗々とした音読、ちっとも効かない空調の音、教科書を立てて気持ち良さげに寝てるヤツ、艶のある長い髪が、ノートを取る女子の肩で揺れる。
そんな中で、藤沢凪は、いつも窓の外を見ている。
「この方角が海の方角なんだよ」と、いつだか藤沢は笑った。だから、この先に海が見えるかもしれないと――。
だけど今日も藤沢の目は、海を捉えることができないようだった。瞳が、動かない。頬杖をつきながら、じっと。
だから、僕が見ていることにも気付かない。こんなにじっと見てるのに、ちっとも。
廊下側の、ちょっと後ろの席から、僕は藤沢を見ている。気持ちが透明になる。
それがいつの間にか習慣化してしまったことに、自分でも気付いていた。
海を見ようと目をこらす凪、その横顔を見つめる僕。まるで少女マンガみたいで笑える。
だけど、僕を見つめる笑えない僕がいることに、最近気が付いた。
僕はゲイじゃない。かわいい女の子には目が行く。
でも藤沢の横顔が網膜に焼き付いている。それくらい、毎日眺めている。
多分、これは病気だ。心臓が痛い。
新手の、手強い病気だ。病院に行かなくてもわかるくらい、手強い。
藤沢とは”すごく仲がいい”とは言えない仲だ。
ただのクラスメイト、というのが正しい。
◇
「梁、帰りにコンビニ寄るだろう? 新作出たんだよ! プレミアムアイスの」
帰りのSHRを終えると、新しい物好きの伊郷が、弾かれたポップコーンのように席を立つ。前の方の席から、帰っていく生徒の列を遡って、後ろ側の広田と僕の席に寄ってくる。
「なんだよ、新作って」
「SNSで見つけた」
「お前もすきだよなぁ。よく情報を拾ってくるよ。そこんとこは脱帽する」
「そこんとこだけかよ」
伊郷は明らかにしょぼんと沈んだ。
藤沢よりも仲のいい友達がいて、いつもそいつらとつるんでる。同中のヤツらで”何をするのも一緒”というヤツだ。3人の中で、誰かに彼女ができない限り変わらない関係。それが心地よくもある。
「限定のチョコミントプレミアムが出たらしい」
伊郷がネットで見つけたネタ。
「チョコミントはもうよくない? 食べ飽きた感がある」
広田がもっともらしく言う。
「梁はどうよ?」と両側から聞かれて、僕は机に肘をついて顔をのせた。
チョコミント⋯⋯ミントグリーンにチョコチップの入った。
カバンに荷物を詰める藤沢を見る。藤沢はバイトをしているらしい。これから行くのかもしれない。
「チョコミントはもう良くない? つーかさ、そろそろ秋になるのにチョコミントはなくない? もっとさぁ、⋯⋯秋ってなんだ? 栗とか? 栗食べるにはまだ暑いなぁ」
「じゃあ今日は帰りにコンビニはよすか?」
なんとなく藤沢に目が行く。背が高いのに、女みたいにキレイな横顔をしている。その横顔が、身を翻して後ろ姿になる。
気持ちが逸る。背中が、遠ざかって行く。
「藤沢!」
いつもひとりでいることが多い藤沢が、こっちを見る。僕を、見る。
「帰り、コンビニ寄るんだけど一緒に行かない?」
広田と伊郷は驚いた顔をした。藤沢も僕を振り向いて、目を見開いた。
暑い。ツクツクボウシが耳に響く。
僕だって驚いた。自分から声をかける勇気なんて、ないと思ってたから。
接点のない、見てるだけの関係だと思っていた。
「誘ってくれてありがとう。悪いけど、これからバイトなんだ」
「そっか。こっちこそ、忙しいのに誘ってごめん」
「謝るなよ。じゃあ、またな」
おう、と3人で見送った。声なんかかけなきゃよかった。ガラにもなく。
いきなり声をかけた自分を振り返る。男が男を、なんて気持ち悪いよなぁ、きっと。
僕はおかしくなった? 正しい方向に、舵を切っているのか?
「梁が机の上で溶けてる。やっぱりコンビニ寄ろう。アイスが必要だろう」
「うるさい。アイスが必要なのはお前たちだよな」と僕は答えた。
「藤沢に声かけたりすると思わなかった。接点なくない? 出席番号も離れてるし」
「⋯⋯そうだよ」
自分でもおかしいと思ってる。藤沢だけが、僕を駆り立てる。
藤沢のいなくなった教室は無機質な匂いに満ちていた。さっきまで感じてた潮風は、どこかに消えてしまった。
◇
いつもと変わらず騒がしい教室。
昼休み、机を引きずる音があちこちで聞こえる。
僕はカバンの中から小さい袋をふたつ取り出して、息を吸う。
「藤沢!」
その小さなビニル袋は、持ち上げるとカサッと小さな音を立てた。
こんなことをするのは大いにバカげてると思いつつ、席を立って、購買に向かおうとする藤沢の背中を慌てて追う。
拒否られるの、前提だ。僕だって相手が仮に女子でも、こんなことされたら気味が悪い。
「藤沢さ、いつも買い弁だろう? ⋯⋯お節介なのはわかってるんだけど」
ビニル袋をぐいと前に出す。「ん」と言うように。
藤沢の顔には『不可解』という3文字が貼ってある。そりゃそうだ、僕だって不可解だ、こんなことをしている自分が。
首筋に汗がつたうのを感じる。
藤沢の昼飯はいつも買い弁だ。
購買の弁当か、コンビニの白いビニル袋から、工場で作られたおにぎりや調理パンが出てくる。
大体ふたつ。それから、学校の自販機で買ったバナナオレ。
毎日、僕の弁当は母さんの手作りだ。それが当たり前だった。
買い弁なんて身体に悪いよな⋯⋯とベッドに寝転がって思い付いたのが、このおにぎりだ。
弁当を作るのは無理な僕でも、おにぎりくらいなら作れないこともない。
藤沢の、食生活を少しだけ健康寄りにしてやりたいという、僕の身勝手な願いだ。
寝る前に台所に下りて、おにぎりを握る。
手のひらに広げたラップにご飯をのせる。熱い。火傷しそうだ。たかがおにぎりのくせに。
決めてあった具を入れると、おにぎりは砕ける。まるで爆発するように。
細心の注意を払って、握る。手を握る時のように、ふわりと。
真っ黒い海苔を貼る。貼った瞬間に、おにぎりに吸い込まれるように海苔はべちゃっと溶けた。
でもいい、これで完成だ。
母さんがするように、アルミホイルで丁寧に包む。
それにしても突拍子すぎる。心臓がバクバク言う。席を立って追いかける前に巻き戻したい。
今さら無理だ。時間は不可逆だ。
「⋯⋯これはどういう? もらっていいってこと?」 ぐぐっと言葉に詰まる。押し出すように、できるだけ真っ直ぐ、言葉を並べることにする。
「買い弁ばっかだなって、ずっと気になってたんだよ。あんまり接点もないのに、ほんと、お節介だと思うんだけど」
一瞬、沈黙。
ふたりの間におにぎりが2個入ったビニル袋。 僕たちはそれをじっと見てる。
少しでも目を逸らしたら、大事な何かを見逃してしまいそうで。
「ありがたく受け取るよ。ハグする?」
「いや、そういうのは特には! その、日本人だし⋯⋯」
「だよな、冗談だよ。それくらい、うれしいってこと」
耳まで真っ赤になってるに違いない。
自分からは見えないからまだマシだけど、恥ずかしいことに変わりはない。
藤沢の目は、とても見れない。気持ち悪いと思われてるかもしれない。
踵を返して席に戻ろうとすると、後ろから、緊張して強ばった背中に声をかけられた。
「おい、ちょっと待てよ。せっかくだから一緒に食おうぜ」
え!? 予想外の反応にどうしていいのかわからない。
あたふたしていると、広田が肩を叩く。
「行ってこいよ」と小さく呟くと、手に自分の買ってきたカフェオレを押し付けて、伊郷のところに戻って行く。
マジかよ、と頭の中が高速回転する。
無駄に速く打つ鼓動のせいか、身体中が熱い。異常気象の猛暑のせいだ。秋がまだ足踏みしている。
「よく食べてる場所があるんだけど、そこでいい?」
「うん」
後を着いて廊下に出て、階段を上る。
このまま上るとどん詰まりだ。一番上の、埃っぽい踊り場が藤沢のパーソナルスペースなんだろうか?
僕なんかが来ちゃって良かったのかと、思わずきょろきょろしてしまう。
「知ってる? ここ本当は開くんだぜ」
ドアノブにどんな細工をしたのか、ガチャガチャという音がして、屋上への扉は開いた。
藤沢の、振り向いた顔が逆光で見えない。どんな顔をしてるのか、まるでわからない。
――彼は9月の空の光の中に溶けてしまったかのようだった。
「ふう、暑いな、アスファルトの上は。大丈夫? 教室に戻る?」
僕は首を横に振った。大丈夫だと、意志を伝えるように。
「教室に戻ってもいいんだよ。ほら、広田たちといつも一緒に食べてるじゃん」
そんな細かいことを知ってるなんて、意外だ。僕が藤沢を見てたように、藤沢も僕を見てたってことだ。
「今日は風もないな」
まるで潮風の匂いを嗅ぐように、藤沢は上を向いた。僕も同じように、首を上げて匂いを嗅いでみる。海の匂いがしない。
「とりあえず、日陰に入ろう」
「うん」
僕たちは給水塔の陰に、並んで座った。
藤沢側の、半身が熱い。日陰で見えないはずの太陽に、じりじり焦がされていくようだ。
どうしよう、何も言えない。
藤沢はビニル袋からアルミホイルの塊を取り出すと、「おにぎり? ひょっとして、高井が作った?」と訊いた。
うん、と小さく頷くのが精一杯で、何も言えない。
喉の奥がからからで、上手く言葉が出ない。
「あ、ごめん! 藤沢、飲み物ないよな? これ、よかったら飲んで」
僕は慌てて、広田にもらったカフェオレを差し出した。藤沢は大きな手のひらで、それを制した。
「あとで買うからいいよ。そこまでしてもらったら、何も返せなくなる」
「お返しなんかいらないよ。僕が勝手に」
「気にしてくれたんだろう? うれしいよ、素直に」
ほんとかな、とチラッと横を向く。藤沢は眩しく微笑んだ。
「お前って、いいヤツなのな」
アルミホイルがカサカサ音を立てる。急に、その包みが安っぽく見えて後悔する。
「⋯⋯僕は弁当なんて、作ってもらってて、当たり前だと思ってたから。これを機会に自立」
「すごいじゃん。俺はそんなのできないからなぁ。朝は弱くてバタバタだし」
「冷蔵庫に――あ、寝る前に作って、冷蔵庫に入れておいたから」
藤沢はにこっと微笑んだ。
「高井が女の子だったら、俺、すぐにヤラレちゃうな」
「え?」
「冗談。女の子じゃなくても、うれしい」
僕の握った不格好なおにぎりが、藤沢の口の中に入る。
その瞬間を見ている。
まるで藤沢が、海を探すような時の気持ちで、憧れを目で見ている。潮風が、鼻をくすぐるような気がする。
「梅干し。お、当たり。俺、梅干し好きなんだよね。結局、梅干しには何も勝たなくない?」
「よかったよ、気に入ってくれて。あっ、種を抜くの忘れた!」
「OK、噛まないように気を付ける」
何がそんなにおかしいのか、藤沢はくくっと笑った。
藤沢の、一挙手一投足が気になる。それによって、僕の耳の奥に鳴り響く鼓動が、高鳴ったり静まったりする。
「あのさ、『凪』でいいよ。『凪』って呼んでよ。それから、コンビニだよ」
「え?」
「ほら、訊きたかったんじゃないの? バイトのこと。昨日、そんな顔してなかった?」
そんな顔してたかな、と思う。頭が熱くなって、熱中症で倒れそうだ。目眩ってこんな感じ?
「コンビニで働いてるの?」
「そう、8時までだけどね。高校生は8時までしか働けないんだ。だから収入は少ないんだけどね」
そう言って、もう一口、おにぎりを頬張った。もぐもぐ食べる横顔はちょっとうれしそうに見えて、こっちまでうれしくなる。
「何か欲しいものがあるの?」
「欲しいもの、ではないけど、必要なものはいろいろあるじゃん?」
「えーと、例えば」
「ほら、これとか」
凪はひょいとビニル袋を持ち上げた。
「弁当?」
「そう。自分で作ればいいのにさ、なかなかそれができない。高井みたいに思い切ってやってみればいいのにな」
静まれ、心臓。
不思議と指先が冷えていくような感覚に陥る。
「梁。梁って呼んで。みんなもそう呼ぶし、僕も凪って呼ぶから」
凪は瞬きをして僕を見て、目尻をやさしく下げた。
「じゃあ遠慮なく、梁って呼ばせてもらう。梁、ほら、おにぎり食えよ。俺が作ったんじゃないけど、美味いから」
ボンッと自爆しそうになる。
自分でやったことなのに、恥ずかしくて堪らない。こんなの、やっぱり女の子みたいだ。
「梁、もうひとつは具、何?」
「⋯⋯おかか。好きなものがわからなかったから」
「ああ、そうだよな。でも俺、おかか好きだよ。さっぱりしてるし、こういう暑い日は塩分必要だよね」
ヤバい!
どこまでもやさしい。
それに話が弾まないのもヤバい!
これじゃただのキモい男じゃん。隣にいればいい、みたいにさ。
「あ、あのさ。もし良かったらなんだけど、明日も作ってきていいかな? えっと、自立の練習」
ポン、と頭の上に手が乗った。
目を上げて見ても、その手は見えなかった。
「梁、なんでそんなにビクビクするんだよ。俺、うれしいけどな。梁がお昼、誘ってくれて。いつもひとりで、ここから遠くを見てるばっかりだし」
「何を見てるの?」
「海。つっても見えないけど。キレイなんだぜ、水平線が輝いて。このアルミホイルくらい、滲んで光るんだ」
遠い、彼方の水平線に思いを飛ばす。
潮騒。
漂う潮風の香り。
砂を踏みしめる感触。
足元をすくう波。
「海が好きなの?」
「好きっていうか⋯⋯上手く言えない。遠くに行きたいだけなのかもしれないし」
「遠くに?」
凪は僕の顔を見た。のぞき込んで笑う。
その笑顔のひとつひとつが、心臓を揺り動かす。
「梁は遠くへなんて、行かなくていいんだよ」
そう言った瞳は、翳って見えた。少し寂しそうな孤独な瞳。
「僕も⋯⋯」
「ここにいなよ。居場所があるんだから」
僕は複雑な気持ちで、凪の目をのぞき込んだ。
その目の奥に、水平線を見た気がして、不意に不安になる。
願いは本当になるんだろうか?
もしそうなら、いつか凪は海の果てに行ってしまうのかもしれない、考えすぎかもしれない。
拭いきれない不安だけが残った。
夏がまだ終わりきれない9月の空の下、眩しい光が教室に差し込んでる。制服の、白いシャツが日差しを反射する。目に刺さる。
暦の上では秋なのに、鳴きやまない蝉の声。
国語教師の眠気を誘う朗々とした音読、ちっとも効かない空調の音、教科書を立てて気持ち良さげに寝てるヤツ、艶のある長い髪が、ノートを取る女子の肩で揺れる。
そんな中で、藤沢凪は、いつも窓の外を見ている。
「この方角が海の方角なんだよ」と、いつだか藤沢は笑った。だから、この先に海が見えるかもしれないと――。
だけど今日も藤沢の目は、海を捉えることができないようだった。瞳が、動かない。頬杖をつきながら、じっと。
だから、僕が見ていることにも気付かない。こんなにじっと見てるのに、ちっとも。
廊下側の、ちょっと後ろの席から、僕は藤沢を見ている。気持ちが透明になる。
それがいつの間にか習慣化してしまったことに、自分でも気付いていた。
海を見ようと目をこらす凪、その横顔を見つめる僕。まるで少女マンガみたいで笑える。
だけど、僕を見つめる笑えない僕がいることに、最近気が付いた。
僕はゲイじゃない。かわいい女の子には目が行く。
でも藤沢の横顔が網膜に焼き付いている。それくらい、毎日眺めている。
多分、これは病気だ。心臓が痛い。
新手の、手強い病気だ。病院に行かなくてもわかるくらい、手強い。
藤沢とは”すごく仲がいい”とは言えない仲だ。
ただのクラスメイト、というのが正しい。
◇
「梁、帰りにコンビニ寄るだろう? 新作出たんだよ! プレミアムアイスの」
帰りのSHRを終えると、新しい物好きの伊郷が、弾かれたポップコーンのように席を立つ。前の方の席から、帰っていく生徒の列を遡って、後ろ側の広田と僕の席に寄ってくる。
「なんだよ、新作って」
「SNSで見つけた」
「お前もすきだよなぁ。よく情報を拾ってくるよ。そこんとこは脱帽する」
「そこんとこだけかよ」
伊郷は明らかにしょぼんと沈んだ。
藤沢よりも仲のいい友達がいて、いつもそいつらとつるんでる。同中のヤツらで”何をするのも一緒”というヤツだ。3人の中で、誰かに彼女ができない限り変わらない関係。それが心地よくもある。
「限定のチョコミントプレミアムが出たらしい」
伊郷がネットで見つけたネタ。
「チョコミントはもうよくない? 食べ飽きた感がある」
広田がもっともらしく言う。
「梁はどうよ?」と両側から聞かれて、僕は机に肘をついて顔をのせた。
チョコミント⋯⋯ミントグリーンにチョコチップの入った。
カバンに荷物を詰める藤沢を見る。藤沢はバイトをしているらしい。これから行くのかもしれない。
「チョコミントはもう良くない? つーかさ、そろそろ秋になるのにチョコミントはなくない? もっとさぁ、⋯⋯秋ってなんだ? 栗とか? 栗食べるにはまだ暑いなぁ」
「じゃあ今日は帰りにコンビニはよすか?」
なんとなく藤沢に目が行く。背が高いのに、女みたいにキレイな横顔をしている。その横顔が、身を翻して後ろ姿になる。
気持ちが逸る。背中が、遠ざかって行く。
「藤沢!」
いつもひとりでいることが多い藤沢が、こっちを見る。僕を、見る。
「帰り、コンビニ寄るんだけど一緒に行かない?」
広田と伊郷は驚いた顔をした。藤沢も僕を振り向いて、目を見開いた。
暑い。ツクツクボウシが耳に響く。
僕だって驚いた。自分から声をかける勇気なんて、ないと思ってたから。
接点のない、見てるだけの関係だと思っていた。
「誘ってくれてありがとう。悪いけど、これからバイトなんだ」
「そっか。こっちこそ、忙しいのに誘ってごめん」
「謝るなよ。じゃあ、またな」
おう、と3人で見送った。声なんかかけなきゃよかった。ガラにもなく。
いきなり声をかけた自分を振り返る。男が男を、なんて気持ち悪いよなぁ、きっと。
僕はおかしくなった? 正しい方向に、舵を切っているのか?
「梁が机の上で溶けてる。やっぱりコンビニ寄ろう。アイスが必要だろう」
「うるさい。アイスが必要なのはお前たちだよな」と僕は答えた。
「藤沢に声かけたりすると思わなかった。接点なくない? 出席番号も離れてるし」
「⋯⋯そうだよ」
自分でもおかしいと思ってる。藤沢だけが、僕を駆り立てる。
藤沢のいなくなった教室は無機質な匂いに満ちていた。さっきまで感じてた潮風は、どこかに消えてしまった。
◇
いつもと変わらず騒がしい教室。
昼休み、机を引きずる音があちこちで聞こえる。
僕はカバンの中から小さい袋をふたつ取り出して、息を吸う。
「藤沢!」
その小さなビニル袋は、持ち上げるとカサッと小さな音を立てた。
こんなことをするのは大いにバカげてると思いつつ、席を立って、購買に向かおうとする藤沢の背中を慌てて追う。
拒否られるの、前提だ。僕だって相手が仮に女子でも、こんなことされたら気味が悪い。
「藤沢さ、いつも買い弁だろう? ⋯⋯お節介なのはわかってるんだけど」
ビニル袋をぐいと前に出す。「ん」と言うように。
藤沢の顔には『不可解』という3文字が貼ってある。そりゃそうだ、僕だって不可解だ、こんなことをしている自分が。
首筋に汗がつたうのを感じる。
藤沢の昼飯はいつも買い弁だ。
購買の弁当か、コンビニの白いビニル袋から、工場で作られたおにぎりや調理パンが出てくる。
大体ふたつ。それから、学校の自販機で買ったバナナオレ。
毎日、僕の弁当は母さんの手作りだ。それが当たり前だった。
買い弁なんて身体に悪いよな⋯⋯とベッドに寝転がって思い付いたのが、このおにぎりだ。
弁当を作るのは無理な僕でも、おにぎりくらいなら作れないこともない。
藤沢の、食生活を少しだけ健康寄りにしてやりたいという、僕の身勝手な願いだ。
寝る前に台所に下りて、おにぎりを握る。
手のひらに広げたラップにご飯をのせる。熱い。火傷しそうだ。たかがおにぎりのくせに。
決めてあった具を入れると、おにぎりは砕ける。まるで爆発するように。
細心の注意を払って、握る。手を握る時のように、ふわりと。
真っ黒い海苔を貼る。貼った瞬間に、おにぎりに吸い込まれるように海苔はべちゃっと溶けた。
でもいい、これで完成だ。
母さんがするように、アルミホイルで丁寧に包む。
それにしても突拍子すぎる。心臓がバクバク言う。席を立って追いかける前に巻き戻したい。
今さら無理だ。時間は不可逆だ。
「⋯⋯これはどういう? もらっていいってこと?」 ぐぐっと言葉に詰まる。押し出すように、できるだけ真っ直ぐ、言葉を並べることにする。
「買い弁ばっかだなって、ずっと気になってたんだよ。あんまり接点もないのに、ほんと、お節介だと思うんだけど」
一瞬、沈黙。
ふたりの間におにぎりが2個入ったビニル袋。 僕たちはそれをじっと見てる。
少しでも目を逸らしたら、大事な何かを見逃してしまいそうで。
「ありがたく受け取るよ。ハグする?」
「いや、そういうのは特には! その、日本人だし⋯⋯」
「だよな、冗談だよ。それくらい、うれしいってこと」
耳まで真っ赤になってるに違いない。
自分からは見えないからまだマシだけど、恥ずかしいことに変わりはない。
藤沢の目は、とても見れない。気持ち悪いと思われてるかもしれない。
踵を返して席に戻ろうとすると、後ろから、緊張して強ばった背中に声をかけられた。
「おい、ちょっと待てよ。せっかくだから一緒に食おうぜ」
え!? 予想外の反応にどうしていいのかわからない。
あたふたしていると、広田が肩を叩く。
「行ってこいよ」と小さく呟くと、手に自分の買ってきたカフェオレを押し付けて、伊郷のところに戻って行く。
マジかよ、と頭の中が高速回転する。
無駄に速く打つ鼓動のせいか、身体中が熱い。異常気象の猛暑のせいだ。秋がまだ足踏みしている。
「よく食べてる場所があるんだけど、そこでいい?」
「うん」
後を着いて廊下に出て、階段を上る。
このまま上るとどん詰まりだ。一番上の、埃っぽい踊り場が藤沢のパーソナルスペースなんだろうか?
僕なんかが来ちゃって良かったのかと、思わずきょろきょろしてしまう。
「知ってる? ここ本当は開くんだぜ」
ドアノブにどんな細工をしたのか、ガチャガチャという音がして、屋上への扉は開いた。
藤沢の、振り向いた顔が逆光で見えない。どんな顔をしてるのか、まるでわからない。
――彼は9月の空の光の中に溶けてしまったかのようだった。
「ふう、暑いな、アスファルトの上は。大丈夫? 教室に戻る?」
僕は首を横に振った。大丈夫だと、意志を伝えるように。
「教室に戻ってもいいんだよ。ほら、広田たちといつも一緒に食べてるじゃん」
そんな細かいことを知ってるなんて、意外だ。僕が藤沢を見てたように、藤沢も僕を見てたってことだ。
「今日は風もないな」
まるで潮風の匂いを嗅ぐように、藤沢は上を向いた。僕も同じように、首を上げて匂いを嗅いでみる。海の匂いがしない。
「とりあえず、日陰に入ろう」
「うん」
僕たちは給水塔の陰に、並んで座った。
藤沢側の、半身が熱い。日陰で見えないはずの太陽に、じりじり焦がされていくようだ。
どうしよう、何も言えない。
藤沢はビニル袋からアルミホイルの塊を取り出すと、「おにぎり? ひょっとして、高井が作った?」と訊いた。
うん、と小さく頷くのが精一杯で、何も言えない。
喉の奥がからからで、上手く言葉が出ない。
「あ、ごめん! 藤沢、飲み物ないよな? これ、よかったら飲んで」
僕は慌てて、広田にもらったカフェオレを差し出した。藤沢は大きな手のひらで、それを制した。
「あとで買うからいいよ。そこまでしてもらったら、何も返せなくなる」
「お返しなんかいらないよ。僕が勝手に」
「気にしてくれたんだろう? うれしいよ、素直に」
ほんとかな、とチラッと横を向く。藤沢は眩しく微笑んだ。
「お前って、いいヤツなのな」
アルミホイルがカサカサ音を立てる。急に、その包みが安っぽく見えて後悔する。
「⋯⋯僕は弁当なんて、作ってもらってて、当たり前だと思ってたから。これを機会に自立」
「すごいじゃん。俺はそんなのできないからなぁ。朝は弱くてバタバタだし」
「冷蔵庫に――あ、寝る前に作って、冷蔵庫に入れておいたから」
藤沢はにこっと微笑んだ。
「高井が女の子だったら、俺、すぐにヤラレちゃうな」
「え?」
「冗談。女の子じゃなくても、うれしい」
僕の握った不格好なおにぎりが、藤沢の口の中に入る。
その瞬間を見ている。
まるで藤沢が、海を探すような時の気持ちで、憧れを目で見ている。潮風が、鼻をくすぐるような気がする。
「梅干し。お、当たり。俺、梅干し好きなんだよね。結局、梅干しには何も勝たなくない?」
「よかったよ、気に入ってくれて。あっ、種を抜くの忘れた!」
「OK、噛まないように気を付ける」
何がそんなにおかしいのか、藤沢はくくっと笑った。
藤沢の、一挙手一投足が気になる。それによって、僕の耳の奥に鳴り響く鼓動が、高鳴ったり静まったりする。
「あのさ、『凪』でいいよ。『凪』って呼んでよ。それから、コンビニだよ」
「え?」
「ほら、訊きたかったんじゃないの? バイトのこと。昨日、そんな顔してなかった?」
そんな顔してたかな、と思う。頭が熱くなって、熱中症で倒れそうだ。目眩ってこんな感じ?
「コンビニで働いてるの?」
「そう、8時までだけどね。高校生は8時までしか働けないんだ。だから収入は少ないんだけどね」
そう言って、もう一口、おにぎりを頬張った。もぐもぐ食べる横顔はちょっとうれしそうに見えて、こっちまでうれしくなる。
「何か欲しいものがあるの?」
「欲しいもの、ではないけど、必要なものはいろいろあるじゃん?」
「えーと、例えば」
「ほら、これとか」
凪はひょいとビニル袋を持ち上げた。
「弁当?」
「そう。自分で作ればいいのにさ、なかなかそれができない。高井みたいに思い切ってやってみればいいのにな」
静まれ、心臓。
不思議と指先が冷えていくような感覚に陥る。
「梁。梁って呼んで。みんなもそう呼ぶし、僕も凪って呼ぶから」
凪は瞬きをして僕を見て、目尻をやさしく下げた。
「じゃあ遠慮なく、梁って呼ばせてもらう。梁、ほら、おにぎり食えよ。俺が作ったんじゃないけど、美味いから」
ボンッと自爆しそうになる。
自分でやったことなのに、恥ずかしくて堪らない。こんなの、やっぱり女の子みたいだ。
「梁、もうひとつは具、何?」
「⋯⋯おかか。好きなものがわからなかったから」
「ああ、そうだよな。でも俺、おかか好きだよ。さっぱりしてるし、こういう暑い日は塩分必要だよね」
ヤバい!
どこまでもやさしい。
それに話が弾まないのもヤバい!
これじゃただのキモい男じゃん。隣にいればいい、みたいにさ。
「あ、あのさ。もし良かったらなんだけど、明日も作ってきていいかな? えっと、自立の練習」
ポン、と頭の上に手が乗った。
目を上げて見ても、その手は見えなかった。
「梁、なんでそんなにビクビクするんだよ。俺、うれしいけどな。梁がお昼、誘ってくれて。いつもひとりで、ここから遠くを見てるばっかりだし」
「何を見てるの?」
「海。つっても見えないけど。キレイなんだぜ、水平線が輝いて。このアルミホイルくらい、滲んで光るんだ」
遠い、彼方の水平線に思いを飛ばす。
潮騒。
漂う潮風の香り。
砂を踏みしめる感触。
足元をすくう波。
「海が好きなの?」
「好きっていうか⋯⋯上手く言えない。遠くに行きたいだけなのかもしれないし」
「遠くに?」
凪は僕の顔を見た。のぞき込んで笑う。
その笑顔のひとつひとつが、心臓を揺り動かす。
「梁は遠くへなんて、行かなくていいんだよ」
そう言った瞳は、翳って見えた。少し寂しそうな孤独な瞳。
「僕も⋯⋯」
「ここにいなよ。居場所があるんだから」
僕は複雑な気持ちで、凪の目をのぞき込んだ。
その目の奥に、水平線を見た気がして、不意に不安になる。
願いは本当になるんだろうか?
もしそうなら、いつか凪は海の果てに行ってしまうのかもしれない、考えすぎかもしれない。
拭いきれない不安だけが残った。



