――あれ、窓際の席。
 夏がまだ終わりきれない9月の空の下、眩しい光が教室に差し込んでる。制服の、白いシャツが日差しを反射する。目に刺さる。

 暦の上では秋なのに、鳴きやまない蝉の声。
 国語教師の眠気を誘う朗々とした音読、ちっとも効かない空調の音、教科書を立てて気持ち良さげに寝てるヤツ、艶のある長い髪が、ノートを取る女子の肩で揺れる。

 そんな中で、藤沢凪(ふじさわなぎ)は、いつも窓の外を見ている。
「この方角が海の方角なんだよ」と、いつだか藤沢は笑った。だから、この先に海が見えるかもしれないと――。

 だけど今日も藤沢の目は、海を捉えることができないようだった。瞳が、動かない。頬杖をつきながら、じっと。
 だから、僕が見ていることにも気付かない。こんなにじっと見てるのに、ちっとも。

 廊下側の、ちょっと後ろの席から、僕は藤沢を見ている。気持ちが透明になる。
 それがいつの間にか習慣化してしまったことに、自分でも気付いていた。

 海を見ようと目をこらす凪、その横顔を見つめる僕。まるで少女マンガみたいで笑える。

 だけど、僕を見つめる笑えない僕がいることに、最近気が付いた。
 僕はゲイじゃない。かわいい女の子には目が行く。

 でも藤沢の横顔が網膜に焼き付いている。それくらい、毎日眺めている。

 多分、これは病気だ。心臓が痛い。
 新手の、手強い病気だ。病院に行かなくてもわかるくらい、手強い。

 藤沢とは”すごく仲がいい”とは言えない仲だ。
 ただのクラスメイト、というのが正しい。

 ◇

(りょう)、帰りにコンビニ寄るだろう? 新作出たんだよ! プレミアムアイスの」

 帰りのSHRを終えると、新しい物好きの伊郷(いごう)が、弾かれたポップコーンのように席を立つ。前の方の席から、帰っていく生徒の列を遡って、後ろ側の広田と僕の席に寄ってくる。

「なんだよ、新作って」
「SNSで見つけた」
「お前もすきだよなぁ。よく情報を拾ってくるよ。そこんとこは脱帽する」
「そこんとこだけかよ」

 伊郷は明らかにしょぼんと沈んだ。

 藤沢よりも仲のいい友達がいて、いつもそいつらとつるんでる。同中のヤツらで”何をするのも一緒”というヤツだ。3人の中で、誰かに彼女ができない限り変わらない関係。それが心地よくもある。

「限定のチョコミントプレミアムが出たらしい」
 伊郷がネットで見つけたネタ。

「チョコミントはもうよくない? 食べ飽きた感がある」
 広田がもっともらしく言う。
「梁はどうよ?」と両側から聞かれて、僕は机に肘をついて顔をのせた。
 チョコミント⋯⋯ミントグリーンにチョコチップの入った。

 カバンに荷物を詰める藤沢を見る。藤沢はバイトをしているらしい。これから行くのかもしれない。

「チョコミントはもう良くない? つーかさ、そろそろ秋になるのにチョコミントはなくない? もっとさぁ、⋯⋯秋ってなんだ? 栗とか? 栗食べるにはまだ暑いなぁ」
「じゃあ今日は帰りにコンビニはよすか?」

 なんとなく藤沢に目が行く。背が高いのに、女みたいにキレイな横顔をしている。その横顔が、身を翻して後ろ姿になる。
 気持ちが逸る。背中が、遠ざかって行く。

「藤沢!」
 いつもひとりでいることが多い藤沢が、こっちを見る。僕を、見る。

「帰り、コンビニ寄るんだけど一緒に行かない?」
 広田と伊郷は驚いた顔をした。藤沢も僕を振り向いて、目を見開いた。
 暑い。ツクツクボウシが耳に響く。

 僕だって驚いた。自分から声をかける勇気なんて、ないと思ってたから。
 接点のない、見てるだけの関係だと思っていた。

「誘ってくれてありがとう。悪いけど、これからバイトなんだ」
「そっか。こっちこそ、忙しいのに誘ってごめん」
「謝るなよ。じゃあ、またな」
 おう、と3人で見送った。声なんかかけなきゃよかった。ガラにもなく。

 いきなり声をかけた自分を振り返る。男が男を、なんて気持ち悪いよなぁ、きっと。
 僕はおかしくなった? 正しい方向に、舵を切っているのか?

「梁が机の上で溶けてる。やっぱりコンビニ寄ろう。アイスが必要だろう」
「うるさい。アイスが必要なのはお前たちだよな」と僕は答えた。

「藤沢に声かけたりすると思わなかった。接点なくない? 出席番号も離れてるし」
「⋯⋯そうだよ」
 自分でもおかしいと思ってる。藤沢だけが、僕を駆り立てる。

 藤沢のいなくなった教室は無機質な匂いに満ちていた。さっきまで感じてた潮風は、どこかに消えてしまった。

 ◇

 いつもと変わらず騒がしい教室。
 昼休み、机を引きずる音があちこちで聞こえる。
 僕はカバンの中から小さい袋をふたつ取り出して、息を吸う。

「藤沢!」

 その小さなビニル袋は、持ち上げるとカサッと小さな音を立てた。

 こんなことをするのは大いにバカげてると思いつつ、席を立って、購買に向かおうとする藤沢の背中を慌てて追う。
 拒否られるの、前提だ。僕だって相手が仮に女子でも、こんなことされたら気味が悪い。

「藤沢さ、いつも買い弁だろう? ⋯⋯お節介なのはわかってるんだけど」

 ビニル袋をぐいと前に出す。「ん」と言うように。
 藤沢の顔には『不可解』という3文字が貼ってある。そりゃそうだ、僕だって不可解だ、こんなことをしている自分が。
 首筋に汗がつたうのを感じる。

 藤沢の昼飯はいつも買い弁だ。
 購買の弁当か、コンビニの白いビニル袋から、工場で作られたおにぎりや調理パンが出てくる。
 大体ふたつ。それから、学校の自販機で買ったバナナオレ。

 毎日、僕の弁当は母さんの手作りだ。それが当たり前だった。
 買い弁なんて身体に悪いよな⋯⋯とベッドに寝転がって思い付いたのが、このおにぎりだ。

 弁当を作るのは無理な僕でも、おにぎりくらいなら作れないこともない。
 藤沢の、食生活を少しだけ健康寄りにしてやりたいという、僕の身勝手な願いだ。

 寝る前に台所に下りて、おにぎりを握る。
 手のひらに広げたラップにご飯をのせる。熱い。火傷しそうだ。たかがおにぎりのくせに。

 決めてあった具を入れると、おにぎりは砕ける。まるで爆発するように。
 細心の注意を払って、握る。手を握る時のように、ふわりと。

 真っ黒い海苔を貼る。貼った瞬間に、おにぎりに吸い込まれるように海苔はべちゃっと溶けた。
 でもいい、これで完成だ。
 母さんがするように、アルミホイルで丁寧に包む。

 それにしても突拍子すぎる。心臓がバクバク言う。席を立って追いかける前に巻き戻したい。
 今さら無理だ。時間は不可逆だ。

「⋯⋯これはどういう? もらっていいってこと?」 ぐぐっと言葉に詰まる。押し出すように、できるだけ真っ直ぐ、言葉を並べることにする。

「買い弁ばっかだなって、ずっと気になってたんだよ。あんまり接点もないのに、ほんと、お節介だと思うんだけど」

 一瞬、沈黙。
 ふたりの間におにぎりが2個入ったビニル袋。 僕たちはそれをじっと見てる。
 少しでも目を逸らしたら、大事な何かを見逃してしまいそうで。

「ありがたく受け取るよ。ハグする?」
「いや、そういうのは特には! その、日本人だし⋯⋯」
「だよな、冗談だよ。それくらい、うれしいってこと」

 耳まで真っ赤になってるに違いない。
 自分からは見えないからまだマシだけど、恥ずかしいことに変わりはない。
 藤沢の目は、とても見れない。気持ち悪いと思われてるかもしれない。

 踵を返して席に戻ろうとすると、後ろから、緊張して強ばった背中に声をかけられた。

「おい、ちょっと待てよ。せっかくだから一緒に食おうぜ」
 え!? 予想外の反応にどうしていいのかわからない。

 あたふたしていると、広田が肩を叩く。
「行ってこいよ」と小さく呟くと、手に自分の買ってきたカフェオレを押し付けて、伊郷のところに戻って行く。
 マジかよ、と頭の中が高速回転する。

 無駄に速く打つ鼓動のせいか、身体中が熱い。異常気象の猛暑のせいだ。秋がまだ足踏みしている。

「よく食べてる場所があるんだけど、そこでいい?」
「うん」

 後を着いて廊下に出て、階段を上る。
 このまま上るとどん詰まりだ。一番上の、埃っぽい踊り場が藤沢のパーソナルスペースなんだろうか?
 僕なんかが来ちゃって良かったのかと、思わずきょろきょろしてしまう。

「知ってる? ここ本当は開くんだぜ」

 ドアノブにどんな細工をしたのか、ガチャガチャという音がして、屋上への扉は開いた。
 藤沢の、振り向いた顔が逆光で見えない。どんな顔をしてるのか、まるでわからない。

 ――彼は9月の空の光の中に溶けてしまったかのようだった。

「ふう、暑いな、アスファルトの上は。大丈夫? 教室に戻る?」
 僕は首を横に振った。大丈夫だと、意志を伝えるように。

「教室に戻ってもいいんだよ。ほら、広田たちといつも一緒に食べてるじゃん」
 そんな細かいことを知ってるなんて、意外だ。僕が藤沢を見てたように、藤沢も僕を見てたってことだ。

「今日は風もないな」
 まるで潮風の匂いを嗅ぐように、藤沢は上を向いた。僕も同じように、首を上げて匂いを嗅いでみる。海の匂いがしない。

「とりあえず、日陰に入ろう」
「うん」

 僕たちは給水塔の陰に、並んで座った。
 藤沢側の、半身が熱い。日陰で見えないはずの太陽に、じりじり焦がされていくようだ。
 どうしよう、何も言えない。

 藤沢はビニル袋からアルミホイルの塊を取り出すと、「おにぎり? ひょっとして、高井が作った?」と訊いた。
 うん、と小さく頷くのが精一杯で、何も言えない。
 喉の奥がからからで、上手く言葉が出ない。

「あ、ごめん! 藤沢、飲み物ないよな? これ、よかったら飲んで」
 僕は慌てて、広田にもらったカフェオレを差し出した。藤沢は大きな手のひらで、それを制した。

「あとで買うからいいよ。そこまでしてもらったら、何も返せなくなる」
「お返しなんかいらないよ。僕が勝手に」
「気にしてくれたんだろう? うれしいよ、素直に」

 ほんとかな、とチラッと横を向く。藤沢は眩しく微笑んだ。
「お前って、いいヤツなのな」
 アルミホイルがカサカサ音を立てる。急に、その包みが安っぽく見えて後悔する。

「⋯⋯僕は弁当なんて、作ってもらってて、当たり前だと思ってたから。これを機会に自立」
「すごいじゃん。俺はそんなのできないからなぁ。朝は弱くてバタバタだし」
「冷蔵庫に――あ、寝る前に作って、冷蔵庫に入れておいたから」
 藤沢はにこっと微笑んだ。

「高井が女の子だったら、俺、すぐにヤラレちゃうな」
「え?」
「冗談。女の子じゃなくても、うれしい」

 僕の握った不格好なおにぎりが、藤沢の口の中に入る。
 その瞬間を見ている。
 まるで藤沢が、海を探すような時の気持ちで、憧れを目で見ている。潮風が、鼻をくすぐるような気がする。

「梅干し。お、当たり。俺、梅干し好きなんだよね。結局、梅干しには何も勝たなくない?」
「よかったよ、気に入ってくれて。あっ、種を抜くの忘れた!」
「OK、噛まないように気を付ける」

 何がそんなにおかしいのか、藤沢はくくっと笑った。
 藤沢の、一挙手一投足が気になる。それによって、僕の耳の奥に鳴り響く鼓動が、高鳴ったり静まったりする。

「あのさ、『凪』でいいよ。『凪』って呼んでよ。それから、コンビニだよ」
「え?」
「ほら、訊きたかったんじゃないの? バイトのこと。昨日、そんな顔してなかった?」

 そんな顔してたかな、と思う。頭が熱くなって、熱中症で倒れそうだ。目眩ってこんな感じ?
「コンビニで働いてるの?」
「そう、8時までだけどね。高校生は8時までしか働けないんだ。だから収入は少ないんだけどね」

 そう言って、もう一口、おにぎりを頬張った。もぐもぐ食べる横顔はちょっとうれしそうに見えて、こっちまでうれしくなる。

「何か欲しいものがあるの?」
「欲しいもの、ではないけど、必要なものはいろいろあるじゃん?」
「えーと、例えば」
「ほら、これとか」
 凪はひょいとビニル袋を持ち上げた。

「弁当?」
「そう。自分で作ればいいのにさ、なかなかそれができない。高井みたいに思い切ってやってみればいいのにな」

 静まれ、心臓。
 不思議と指先が冷えていくような感覚に陥る。

「梁。梁って呼んで。みんなもそう呼ぶし、僕も凪って呼ぶから」
 凪は瞬きをして僕を見て、目尻をやさしく下げた。

「じゃあ遠慮なく、梁って呼ばせてもらう。梁、ほら、おにぎり食えよ。俺が作ったんじゃないけど、美味いから」

 ボンッと自爆しそうになる。
 自分でやったことなのに、恥ずかしくて堪らない。こんなの、やっぱり女の子みたいだ。

「梁、もうひとつは具、何?」
「⋯⋯おかか。好きなものがわからなかったから」
「ああ、そうだよな。でも俺、おかか好きだよ。さっぱりしてるし、こういう暑い日は塩分必要だよね」

 ヤバい!
 どこまでもやさしい。
 それに話が弾まないのもヤバい!
 これじゃただのキモい男じゃん。隣にいればいい、みたいにさ。

「あ、あのさ。もし良かったらなんだけど、明日も作ってきていいかな? えっと、自立の練習」
 ポン、と頭の上に手が乗った。
 目を上げて見ても、その手は見えなかった。

「梁、なんでそんなにビクビクするんだよ。俺、うれしいけどな。梁がお昼、誘ってくれて。いつもひとりで、ここから遠くを見てるばっかりだし」
「何を見てるの?」
「海。つっても見えないけど。キレイなんだぜ、水平線が輝いて。このアルミホイルくらい、滲んで光るんだ」

 遠い、彼方の水平線に思いを飛ばす。
 潮騒。
 漂う潮風の香り。
 砂を踏みしめる感触。
 足元をすくう波。

「海が好きなの?」
「好きっていうか⋯⋯上手く言えない。遠くに行きたいだけなのかもしれないし」
「遠くに?」

 凪は僕の顔を見た。のぞき込んで笑う。
 その笑顔のひとつひとつが、心臓を揺り動かす。

「梁は遠くへなんて、行かなくていいんだよ」
 そう言った瞳は、翳って見えた。少し寂しそうな孤独な瞳。
「僕も⋯⋯」
「ここにいなよ。居場所があるんだから」

 僕は複雑な気持ちで、凪の目をのぞき込んだ。
 その目の奥に、水平線を見た気がして、不意に不安になる。

 願いは本当になるんだろうか?
 もしそうなら、いつか凪は海の果てに行ってしまうのかもしれない、考えすぎかもしれない。
 拭いきれない不安だけが残った。