夏休みが終わって2学期が始まった。また地獄の日々が始まるかと思うと、足がすくんだ。それでもお母さんに心配をかけたくないので無理して学校へ行ったが、当然のように寒田と黄茂井の虐めが始まった。席に着くなり名前を囃し立てられた上に、両腕をつねられた。それは、言葉の暴力だけでは済まないということを意味していた。これから何をされるかわからないと思うと、怖くて体がすくみ、心臓がキュッとなった。
でも、昼休みになると状況が一変した。三文字悪ガキ隊が突然、教室に来て、寒田と黄茂井を睨みつけたのだ。〈虐めてないだろうな〉というように怖い顔で睨みつけたのだ。彼女たちは〈とんでもない〉というふうに首を振ったあと、逃げるように席を立って教室を出ていった。
それはとてもありがたいことだったが、頭に浮かんだのは寒田と黄茂井に報復されるということだった。このままで済むわけはない。それどころか、エスカレートするのは間違いない。そのことを考えると、恐怖しか感じることはできなかった。
*
心配は当たってしまった。
「言いつけたわね」
放課後、寒田と黄茂井に凄い目で睨まれて、体育館の裏に連れていかれた。
「ただでは済まさないからね」
壁に押し付けられた瞬間、寒田の膝がお腹に飛んできた。
痛かった。すごく痛かった。それに、すごく怖くて涙があふれてきた。
「今度言いつけたら」
黄茂井が鉛筆の先をわたしの頬に向けた。突き刺すという脅しに違いなかった。わたしは立っていられなくなって、崩れるようにお尻から落ちた。
「立ちなさいよ」
寒田に髪の毛を掴まれて上に引っ張られた。
でも、立つことはできなかった。
すると左右に揺さぶられて、顔が左に右に揺れた。
わたしは声を出して泣き出した。
それでも揺さぶりは続いた。
髪の毛が抜けるかと思うほど強く揺さぶられた。
「やめて!」
泣きながら訴えた。でも、聞いてもらえなかった。わたしは気持ち悪くなって吐きそうになった。
「ううっ」
えずきそうになった時、いきなり男の人の声が聞こえた。
「どうした?」
用務員のおじさんだった。箒と塵取りを持っていた。
「なんでもありません」
ごまかすように髪の毛を撫で始めた寒田が明るい声を出した。
「もう大丈夫よね」
黄茂井がわたしを立ち上がらせて、汚れを払うようにスカートを手ではたいた。
「保健室へ連れて行こうか?」
用務員さんが心配そうに顔を覗き込んだが、わたしは何も言えなかった。言い付けたら今度は何をされるかわからないからだ。だから黙っていると、用務員さんは「あとは私がするから」と言って、寒田と黄茂井に視線をやった。2人は頷いて、そこから立ち去った。
「酷いことされたのかい?」
わたしは首を振った。本当のことなんて言えるはずはなかった。
「そう……」
納得していないようだったが、校門まで送ると言って、背中を軽く押された。わたしはランドセルを背負って、用務員さんの横を歩いた。
校庭を横切っていると、バットを持った建十字とサッカーボールを持った横河原に出くわした。2人はわたしと用務員さんの顔を見て、ん? というような表情になった。でも、何も言わず、すれ違った。
図書館に寄ろうかと思ったが、本を読む気にはならなかった。
まっすぐ家に帰って、部屋に入り、ランドセルを置くと、涙があふれてきた。ベッドに横になって、掛け布団を頭から被って、声を出さずに泣いた。
お母さんには何も言わなかった。疲れているのがわかっているのに心配をかけたくなかった。普通の振りをして晩ご飯を食べて、テレビを見た。
*
翌日は起きられなかった。学校に行くなんてできるわけはなかった。お母さんに「お腹が痛い」と言って、休ませてもらった。
一日中ベッドの中でごろごろしていた。本を読むのは無理だった。テレビを見る気も起らなかった。お母さんが作ってくれていたおじやを温めて食べた時以外はベッドの中にいた。
日が暮れてきた。お母さんが帰ってくる時間になったので、心配かけないようにパジャマを脱いで、洋服に着替えた。
それから少ししてインターフォンが鳴った。お母さんはそんなことはしないので誰かなと思ったら、ディスプレーに男の子の顔が映っていた。
建十字だった。
思わず「はい」と返事すると、「大丈夫だからな」と言った。
その途端、顔が替わった。
横河原だった。
「心配ないからな」
画面から消えると、奈々芽が現れた。
「明日来いよ」
親指を立てた。
その後ろに建十字と横河原の顔が映ったと思ったら、「じゃあな」と言う声が聞こえた。返事をする間もなく、彼らは遠ざかっていった。
わたしは無人になったディスプレーをいつまでも見つめていた。頭の中には、「大丈夫だからな」「心配ないからな」「明日来いよ」という言葉がぐるぐると回っていた。
何かあったのは間違いないと思った。
建十字と横河原が用務員さんにあのことを聞いたのだろうか?
それを奈々芽に話して寒田と黄茂井に詰め寄ったのだろうか?
本当のことはわからないが、自分の知らないところで何かがあったのは間違いないように思えた。でなければ3人がうちに来てあんなことを言うはずはない。でも……、
思考を中断するように玄関の方でガチャっという音がした。お母さんが帰ってきたようだ。わたしは急いで玄関に行って、「おかえりなさい」と明るい声で出迎えた。
「お腹はどう?」
「大丈夫。もう治った」
「そう、良かった」
口元を緩めたお母さんがビニール袋をわたしの方に突き出した。受け取って中を見ると、フルーツゼリーが入っていた。ミックス、オレンジ、マンゴーの3種類だった。どれも大好きなものだった。「ありがとう」と言うと、お母さんがまた口元を緩めた。
少し気分が楽になって普通に夕食を食べれたが、眠ると、嫌な夢を見た。寒田と黄茂井に蹴りと肘打ちをされている夢だった。うなされて目が覚めると、心臓がものすごい勢いで動いていた。走った時よりも速く動いていた。怖くなって体を丸めた。
もう眠ろうとは思わなかった。これ以上怖い夢を見たくなかった。現実だけでも死にそうなのに、夢の中でも虐められたら耐えられるわけがなかった。
もう学校には行けないと思った。
不登校児になるしかないと思った。
友達ができないまま一生が終わるのだと思った。
でも、そうなるとお母さんが悲しむだろうなと思った。
泣くかもしれないなと思った。
それは嫌だった。
嫌だったが、学校には行けそうもなかった。
でも……、
そんなことがぐるぐる回っている間に窓が明るくなった。
*
いつもの時間にお母さんが部屋に入ってきた。
「ど~お?」
心配そうな顔だった。
「行けない」という言葉が歯の裏側まで押し寄せてきたが、それをそのまま口に出すわけにはいかなかった。無理して飲み込んだ。これ以上心配をかけるわけにはいかない。無理矢理笑みを浮かべると、お母さんは頷いて、ドアを閉めた。
パジャマを脱いで着替えていると、どこからか、「大丈夫だからな」という建十字の声が聞こえたような気がした。「心配ないからな」という横河原の声も、「明日来いよ」という奈々芽の声も蘇ってきた。その声たちに押されるように部屋を出て、洗面所に向かった。
*
教室の前の廊下に3人がいた。手を上げて「おはよう」と言われた。小さな声で「おはよう」と返した。
教室に入ると、3人がついてきて、わたしが席に着いたのを見てから、寒田と黄茂井を取り囲んだ。そして、「わかっているだろうな」と言って、3人が拳を握った。2人は無言で頷いて、教室から出ていった。
給食が終わって昼休みになると、また3人がやってきて2人を取り囲んだ。それだけでなく、放課後も同じ事を繰り返した。
それが毎日続いた。蛇に睨まれた蛙状態になった寒田と黄茂井がわたしにちょっかいを出すことはなくなった。



