彼を見送ったあと、わたしは教育文化省に戻り、結婚してアメリカへ渡ることを事務局長に告げた。

「そう。よかったね。おめでとう」

 こっちが驚くほど大喜びしてくれた。

「でも、親友とは別れないよね」

「えっ? 親友って……」

 なんのことかわからなかった。

「君の親友だよ」

「……」

 首を傾げていると、「教育という名前の親友だよ」と答えを告げられた。それだけでなく、アメリカの大学院への留学を勧められた。そこは建十字が所属する球団の本拠地にあり、教育学で世界最高の権威を誇る名門大学院だった。

「国家百年の計は人創りにある。資源のない日本にとって、人こそ最大の財産だ。その財産を生み出すのは教育をおいて他にはない。結婚して夫を支える存在になることは素晴らしいことだが、それによって自らの使命を追い求めることを諦める必要はない。幸運と言っていいかどうかわからないが、大リーガーは遠征が多い。その間、君は有り余る時間を持つことができる。その時間を君の親友のために使って欲しい。教育という親友のために。それが君の使命だと思うからだ」

 そして、わたしの両肩を掴んで強い声を発した。

「教育は未来への投資だ。教育無くして日本の未来はない。その未来を創るのが君の使命だ。だから君は教育という親友と絶対別れてはならない。絶対にだ」

        *

 教育文化省を辞したその足で、市役所で桜田市長に、教育委員会で堅岩教育長に、スポーツ学園で夏島校長と秋村教頭、それに、丸岡と鹿久田に挨拶を済ませ、いつもの道を家に向かって歩いた。それは、小学生の頃、毎日歩いた道だった。歩きながら色々な事を思い出した。本当に色々な事を。

 しばらく歩くと、あの公園に差し掛かった。わたしが小学4年生の時、ベンチに一人で座って本を読んでいた公園だった。
 ふと見ると、見知らぬ女の子が一人でベンチに座っていた。手には本を持っていた。でも、読んでいなかった。本を読むふりをして、上目遣いに友達を目で追っていた。誰か遊んでくれないかな、というような目をしていた。でも、誰もその子のことを気にしていなかった。不憫(ふびん)に思ったので、近づいて声をかけた。

「何を読んでいるの?」

 でも、その子は、〈見ないで〉というようにバタンと本を閉じた。その途端、まるで本がイヤイヤをしているかのように動いて手から離れていった。わたしは芝生の上に落ちたその本を拾いあげた。『いじめっ子、いじめられっ子』というタイトルが目に入った。それに気づかないふりをして本を返すと、その子はタイトルが見えないように本を裏返した。そして、上目遣いにわたしを見た。その目には小学4年生だった頃のわたしと同じ悲しみが宿っているように見えた。わたしはその子の目と同じ高さになるようにしゃがんだ。

「お姉ちゃんと一緒に遊ぼ」

 するとその子は、えっ、というように目を見開き、口を開けた。思いもかけない言葉に戸惑っているようだった。どうしたらいいかわからないようだった。それでも、しばらくしてその子の口から小さな声が漏れた。

「あのね」

 一瞬、口ごもった。

「な~に?」

 わたしは、その子の言葉を待った。

「あのね、」

 その子の小さな手がわたしの手に触れた。

「待っていたの。わたし、ず~っと待っていたの。誰か声をかけてくれないかなって」

 完