桜田市長に会うのは久しぶりだった。公約実現に向けて土日も返上して働いていると聞いていたのでそれは当然だったが、突然、電話がかかってきて「お願いしたいことがある」と言われたのだ。用件はその時に話すということだったので内容はわからなかったが、開校が近づいているので、その準備に関することではないかと勝手に推測していた。
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市長室応接コーナーのアームソファに座ると、何故か彼は教員時代に視察で見たヨーロッパの街並みのことを話し出した。開校のことではなかったので意外だったが、その話は興味を引くのに十分な内容だった。木々と花々が織り成す自然の調和、それに溶け込むような建造物、合理性とは一線を画す柔らかな発想を促す空間、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、スペイン、ポルトガルで見た様々な都市の街並み、すべて最高だったと聞かされて、わたしは身を乗り出さずにはいられなかった。
「小学生の時に写真で見たヨーロッパの街並みが忘れられません。花と緑に溢れて本当に素敵で。ですので、市長選挙の街頭演説で夢開美観都市計画の話を聞いた時は飛び上がるほど嬉しくて、思わずヨーロッパの街並みを頭に思い浮かべました」
すると、桜田は嬉しそうな表情で何度も頷いたあと、意外なことを切り出した。
「実は海外視察を計画しているんだ」
彼は立ち上がり、机の上に置いてあった書類を取って、戻ってきた。そして、それをわたしの前に置き、下線が引かれてある個所を指で示した。ローマ、そして、フィレンツェという文字が目に飛び込んできた。一瞬にして目が釘付けになり、身動きできなくなった。夢にまで見た憧れの地なのだ。目を離すことなんてできるはずがなかった。
「一緒に行かないか」
穏やかな声が耳に届いた。
「美観都市計画を立案するためにローマとフィレンツェに行って、旧市街の街並みをしっかり見たいと思っている」
誘惑するような響きに夢心地になりそうだった。でも、すぐに現実に引き戻った。
「とても素敵なお誘いで夢のようなお話ですが、イタリア視察に同行させていただくのは無理だと思います。わたしは教育委員会に身を置く者で、政治的な独立を義務付けられておりますので、市が主催する視察に行くことは難しいと思います」
はっきりと断ったが、それでも桜田は笑みを浮かべて、そんなことはわかっている、そんな心配は無用だ、というばかりに首を縦に振った。そして、「君は夢開スポーツ学園の提唱者なのだから、それに関連する都市計画の関係者の一人であることは疑いのない事実だ。だから視察に随行するのになんの問題もない。堅岩教育長にも話を通しておくから心配しなくていい」と背中を強く押された。
すると、なんと1週間後、教育委員会から出張命令が下った。その書類を信じられない思いで見続けたわたしは、現実感のないまま、あたふたと出発準備を始めた。
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3月中旬の忙しい時に慌ただしく出発したのだが、そんなことを忘れさせてくれるほどローマとフィレンツェは余りにも素晴らしかった。幼い頃から憧れた地は期待を裏切らなかった。しかし、駆け足で見て回る視察ではまったく物足りなかった。それに、1週間では短すぎた。あっという間に最終日を迎えることになった。
視察団全員での夕食会が終わって部屋で帰国準備をしている時だった、桜田からラウンジに来ないかという誘いがあった。最後の夜を楽しもうというのだ。断る理由はなかった。気持ちが高揚していたわたしは一も二もなく誘いに応じた。
ホテル最上階から見る夜景は素晴らしかった。それに、初めて飲むカクテルが美味しかった。赤ワインとウォッカとスイート・ベルモットをステアしてあるらしく、アルコールは高めのようだが、すっきりとした感じなので飲みやすかった。そのせいか、少し饒舌になってしまった。しかも、ウイスキーのオンザロックを飲む桜田がニコニコして聞いてくれるので、なおさら歯止めが利かなくなった。なにしろ、視察で見た旧市街の街並みに加えて、絵画や彫刻などの美術品の素晴らしさを目の当たりにし、視察が終わったというのに興奮が冷めるどころか、ますます大きくなっていたのだ。だから自分一人の胸にしまっておくことができなくなっていた。特に、ある絵画の強烈な印象を語らずにはいられなかった。
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フィレンツェでの僅かな自由時間を利用して、わたしはウフィツィ美術館に直行した。ルネサンスの名画を数多く所蔵しているこの美術館は大人気で、バカンスの時期には入館待ちで大行列ができるほどだが、その日は珍しく観光客が少なく、すんなりと入ることができた。
わたしは『ボッティチェリの間』に急いだ。そこには有名すぎる2枚の名画が飾られていた。『春・プリマヴェーラ』と『ヴィーナスの誕生』。どちらも1400年代後半に描かれたもので、サンドロ・ボッティチェリの代表作と言われている。そしてこの2つは〈双子のヴィーナス〉と呼ばれていて、『春・プリマヴェーラ』が〈地上のヴィーナス〉、『ヴィーナスの誕生』が〈天上のヴィーナス〉なのだという。
わたしは構図や色遣いの余りの美しさに息を呑んだ。そして、500年以上前の絵画とは思えない、その素晴らしい保存状態に驚嘆した。だから、この2枚の名画をずっと見ていたかった。
でも、時間がなかった。後ろ髪を引かれながらも『ダ・ヴィンチの間』に急いだ。どうしても見たい絵があるのだ。『受胎告知』。レオナルド・ダ・ヴィンチのデビュー作とも言われる作品だが、ぼかし手法や遠近法による立体感は遥かに想像を超えていた。20歳そこそこでこんなに素晴らしい絵を描けるなんて信じられなかった。わたしは手で口を押さえたまま動けなくなった。
でも、すぐに次の美術館へ移動しなくてはならなかった。またもや後ろ髪を引かれながらウフィツィ美術館を飛び出した。
目指す場所はピッティ宮殿内にあるパラティーナ美術館だった。アルノ川にかかるヴェッキオ橋を渡り、直進すると大きな建物が左に見えた。ピッティ宮殿だ。壮大で美しい外観をじっくり見ていたかったが、時間がなかった。急いで中に入り、階段を上って2階に急いだ。でも、入口が見つからなかった。焦ったが、キョロキョロしても始まらないので、人の流れを観察した。何人もの人が一定方向へ動いていた。その流れについていくと、入口にたどり着いた。中に入って時間を確認すると、閉館まで40分を切っていた。焦った。どうしても見たい絵が2つあった。それだけはなんとしてでも見ておきたかった。急ぎ足で展示室内を移動した。
目当ての一つはティツィアーノ・ヴェチェッリオの絵だった。『マグダラのマリア』だけは見ておかなければならない。見落とさないように気をつけながら幾つもの部屋を横切っていくと、展示スペースの三分の二ほど行ったところにその絵はあった。ひっそりと壁に掛けられていた。かくれんぼをしているように、目立たなく飾られてあった。
本物を目の当たりにして、その官能美に吸い込まれそうになった。長い髪を体に巻き付け、それでも隠し切れない豊かな乳房を晒し、彼女の目は天を見上げているようだった。もともと娼婦だったとも噂されたマグダラのマリアがこの懺悔によって聖母になったのだろうか?
目が離せなくなった。でも、時間は残り少なかった。まだあの絵を見ていないのだ。マグダラのマリアに別れを告げて先を急いだ。
しかし、展示コーナーの出口まで行き着いてもその絵は見つからなかった。
えっ?
うそっ!
どこにあるの?
わたしは焦って思考回路がぐちゃぐちゃになった。それでも、落ち着け! と自らに喝を入れて時間を確認した。閉館まであと10分ほどになっていた。
ヤバイ!
慌ててもう一度急ぎ足で戻ったが、握りしめた掌は汗をかき、心臓が早鐘を打ち出した。
どこなの?
どこにあるの?
多くの入場者が出口へ向かう中、わたしはその流れに逆らって足を速めた。
展示スペースの真ん中まで戻った時だった。その部屋には誰もいなかった。と思ったら、椅子に腰かけた女性監視員の姿が目に入った。その途端、彼女は立ち上がり、折り畳み式の椅子を片付けて、閉館に備え始めた。
ちょっと待って、
わたしは女性監視員の行動を止めるように前に立った。
「ラファエッロの絵はどこにありますか?」
赤ちゃんを抱くようなジェスチャーで尋ねた。彼女は一瞬キョトンとしたような表情になったが、すぐに笑みを浮かべて右手で指差した。
えっ? ここにあるの?
わたしは向きを変え、彼女が指し示す先を見つめた。
あっ、あった。こんなところに……、
直径70センチほどの円形画がドア横斜め上にひっそりと掛けられていた。間違いなく『小椅子の聖母』だった。ラファエッロ・サンツィオが1514年頃制作したと言われている名画。500年の時を超えて、まるでわたしを待っていたかのように微笑む聖母。気高く、美しく、温かみのある眼差しに包まれているように感じた。
しばらく立ち尽くしたあと、少しずつ近づいた。
聖母の目に吸い込まれていくように歩を進めた。
その目はわたしを見ていた。
間違いなくわたしを見ていた。
聖母の視線がわたしを真っすぐに見つめていた。
ローマ滞在中、バチカン宮殿の署名の間で『アテナイの学童』や『聖体の論議』などの名画に衝撃を受けたわたしは、フィレンツェで『小椅子の聖母』に会える日を心待ちにしていた。期待に胸を膨らませていた。だからこそ、目の前で見る聖母の眼差しに魅入られ続けた。こんな眼差しを送ることができる人になりたいと思った。悩める人に手を差しのべる温かさと包容力を持ちたいと強く思った。それは、教育に携わる者として究極の眼差しのように思えたからだ。
わたしにもきっと……、



