「ご無沙汰しております」

「おう、久しぶりだな。今回はおめでとう。素晴らしいレースだったね」

 日本水泳選手権大会の400メートル個人メドレーで優勝した三角優人の突然の訪問に、堅岩は顔を綻ばせた。

「元気そうだな。サンタバーバラはどうだ」

「はい、とても良い環境なので練習をやり過ぎるくらいです」

「そうか」

 高校時代の彼を懐かしく思い出したのだろう、成長した姿に堅岩は目を細めた。

「ところで、こちらの方は?」

 最近ニュースによく登場する人物だったが、堅岩は名前を思い出せないようだった。

飛鳥(とぶとり)(しょう)と申します」

 日焼けした顔と真っ白い歯が、一流のアスリートであることを物語っていた。

「飛鳥って、あの、スポーツ庁長官に内定した」

「そうです。ご挨拶に上がりました」

「挨拶って、一介の教育長の私に……」

 目の前に彼がいることが信じられないようだった。余りにも現実離れしているからだろう。口が開いたままになっているのに気づいたのか、すぐに閉じたが、そんな様子を気にも留めていないように、かつて日本水泳界の至宝とまで呼ばれた飛鳥は「こいつはサンタバーバラ・スイミングクラブの後輩なんですよ」とにこやかに笑いながら三角に視線を向けた。

        *
          
 その1週間前、日本水泳選手権大会出場のために帰国していた三角の歓迎会をするために、わたしは奈々芽や丸岡、鹿久田と共に居酒屋にいた。400メートル個人メドレーで優勝候補の筆頭に挙げられている三角を迎えて場は大いに盛り上がった。三角はさすがに酒を飲まなかったが、他の3人がガンガン飲んで彼にエールを送り続けるので、周りに迷惑をかけているのではないかと心配になるほどだった。

 盛り上がりが一段落して会話が途絶えた時、素面の三角がわたしを気遣うように話しかけてきた。元気がなさそうに見えたのだろうか、「どうしたの?」と言ったあと悪戯っぽい表情になって、「彼氏に振られたのかな?」と茶化された。
 わたしは思わず吹き出しそうになったが、その弾みで胸に止めていたものを吐き出してしまった。夢開市教育委員会での出来事を愚痴ってしまったのだ。すると、彼は平気な顔でさらりと言った。

「堅岩さんは俺の高校時代の恩師だよ」

「えっ!」

 わたしは椅子から落ちそうになるくらい驚いたが、それは次の言葉で倍加した。

「試合が終わったら挨拶に行ってもいいよ。そうだな、秘密兵器も連れて行くか」

 その秘密兵器が飛鳥翔だった。

        *

「日本のスポーツ界の底上げのためには一貫したスポーツ教育が必要です。才能のある子供をできるだけ早い時期に発掘して、能力を伸ばしていくことが必要なんです。と同時に、社会性を身につけさせ、自分で考え抜ける精神力を鍛えなければなりません」

 専任の指導者がいない中学校のクラブ活動では才能が開花しないこと、学校以外のクラブチームに入ろうとすると多額の負担が親にかかること、だから、一流の専任指導者が揃う公立中学校があれば好ましいこと、を飛鳥が熱心に説いた。すると、満を持していたように、「堅岩先生、チャンスです」と三角が体の前で両手をぐっと握った。

「スポーツ教育に、いや、公立中学校教育に大きな一石を投じるチャンスです。それもこの夢開市で始められるのです。こんな幸運、一生に一度有るか無いかです。先生!」

 その勢いを利用するかのように飛鳥が後押しをした。

「荒廃した学校の立て直しが喫緊の課題であることは承知しています。しかし、いくら手を打っても、校長を始めとした教職員の意識が変わらなければ問題解決には繋がらないのではないでしょうか。既存のシステムを温存したままで虐めの問題を解決するのは難しいと思うのです。だからこそ抜本的な対策が必要なのです。教育長のお立場は十分理解していますが、ここは柔軟に考えていただけないでしょうか。どこが主導権を握るかというレベルを超えて、オール夢開市で取り組んでいただけないでしょうか。スポーツ庁も全面的に支援させていただきますので」

 そして体を前に乗り出し、声を強めた。

「教育特区を活用したスポーツ専門中学校を成功させ、虐めのない学校運営を実現させると共に日本スポーツ界の未来を切り開きましょう!」

 熱のこもった声に堅岩が押されたと思ったが、しかし、彼の表情が変わることはなかった。無反応を装った口からは、イエスという言葉もノーという言葉も出てこなかった。