スポーツ中学校の校長就任を断った秋村だったが、何故か頭のどこかに引っかかっていて、中学生による非行や虐めのニュースに接する度にそのことを思い出した。だからといって引き受ける気持ちになったわけではなかったが、月を追うごとになんともいえないモヤモヤが大きくなっていた。

 そんな時、都立体育大学ラグビー部の不祥事を知った。監督の顔を思い浮かべると、居ても立ってもいられなくなった。それは旧知の人物だからということだけではなく、同じ指導者としての立場から、更に言えば、教育というものの根本から来るものでもあった。それだけでなく、次第に膨らんできているモヤモヤのせいでもあった。

        *

 秋村が夏島宅を訪れたのはミモザが満開になった頃だった。夏島の妹に会うのが目的だった。彼女は都立音楽大学の同期生で、今は親友と呼べる間柄だが、かつてはライバルとして(しのぎ)を削る関係だったこともある。

 夏島と10歳違いの妹は幼い頃からピアノを習い、メキメキと腕を上げ、数々のコンクールで優勝した。そして、当然のように特待生として都立音楽大学に入学した。そこでバイオリンを専攻していた秋村と出会った。2人は演奏会の華として人気を二分した。
 しかし、卒業後の進路は違っていた。ヨーロッパの著名フィルハーモニー楽団のファーストコールとして活躍した妹は、その後、アメリカの著名音楽院の教授になり、昨年、日本で設立された私立音楽院の理事長に就任した。オーストリアに住んでいた頃、同じ楽団のスイス人バイオリニストと結婚したが、彼女がアメリカに渡ると別居状態になり、気持ちが離れた2人は離婚に踏み切った。日本に帰ってきた時、一人住まいを始める予定だったが、子供のいない夏島が強引に同居を迫り、それ以来、兄の家に住むことになった。
 片や秋村は大学に残り、最初から指導者兼指揮者の道を選んだ。都立大学の教授を務める傍ら、日本における女性指揮者の第一人者として活躍している。秋村も一度結婚したが、夫の浮気が原因で9年前に離婚した。それ以来、「私のパートナーは音楽と教育」と公言して、学生の指導に心血を注いでいる。

        *

「お兄さんに相談があるの」

「兄は、今ちょっと……」

 あの事件以来誰にも会っていない、と妹は顔を曇らせた。

「知っているわ。でも、あれってお兄さんのせいではないわよね。大学という組織を守るために犠牲になったのは明白だわ。違う?」

「でも、兄は自分を責めているの。自分の指導が行き届いていなかったと」

「それは違うわ。学生を100パーセントコントロールすることなんてできない。どこにでも異分子はいるし、性根が腐っている人もいるのよ。そんな人が起こした事件にまで責任を負うのは無理だわ。人間は神様ではないのだから」

「そうだけど……」

 口を(つぐ)んだ妹の表情が事の重さを表しているように思えた。さすがに秋村の口も重くなり、2人の間に出口の見えない沈黙が続いた。

 それを破るかのようにドアノブが回り、応接室のドアが開いた。

「秋村さん、いらっしゃい。お久しぶりね」

 奥さんだった。手に持つトレイにはコーヒーカップが見えた。

「お元気そうね。第一線でご活躍されているから肌が艶々して」

 その言葉に秋村は少し照れたが、「ありがとうございます。奥様こそいつもお綺麗で」と世辞(せじ)返しを忘れなかった。

「秋村さんがお兄さんに会いたいって言うんだけど、お義姉さん、どうかしら」

 妹が助けを求めるような目で奥さんを見つめた。

「そうね~」

 奥さんは小首を傾げてから、〈誰が訪ねてきても会わない〉ときつく言い渡されていることを秋村に告げた。

「あの人頑固だから」

 肩の前で両手を広げると、妹も苦笑して同じ動作をした。

「なんとかお目にかかる方法はないでしょうか」

 秋村はすがるように2人を見た。

「ん~、そうね~、ん~、ちょっと考えさせてくれるかしら」

 そう言ったきり、奥さんが会話に戻ることはなかったが、その日の夕方、自宅に戻っていた秋村に奥さんから電話がかかってきた。あることを頼みたいと言う。

「わかりました。あとで伺います」

 秋村は身支度を整えて家を出た。そして、百貨店の食品売り場に直行し、電話で依頼されたものを買い、その足で夏島の家に向かった。